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滋賀県栗東市 金勝寺

Konshoji,Ritto City,Shiga

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Mar. 4,2023 瀧山幸伸

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仁王門

                

                      

本堂

                     

     

 

 

二月堂

     

境内

         

      

          

虚空蔵堂

     

良弁手植の大杉

     

龍ヶ岳付近

     


Sep. 2009 撮影/文: 中山辰夫

金勝寺(こんしょうじ) 

栗東市荒張670

天台宗古刹金勝寺は金勝山の山頂(567m)近くにある。

金勝寺へは路線バスの終点成谷か約4kmの道を1時間ほどかけて歩く。

車の場合は、県道信楽線を信楽に向かって走ると左側に県民の森や「道の駅こんぜの里りっとう」がある。そこで右手の山道を辿ってゆくと金勝寺前の駐車場に至る。

金勝寺への参詣道には「金勝寺東並木道」と「金勝寺西並木道」があった。

前者は東からの参詣道で、東坂の宗安寺前を通り井上、観音寺を経て金勝寺に至る山間の道である。

参道の途中には参道を物語る石造品が建つ。

後者は大野神社から片山、走井の二つの集落を経て金勝寺に至る参詣道である。

途中には金勝寺の末寺・神社が立ち並んだ。

金勝寺は、天平5年(733)東大寺の初代別当の良弁僧正が、聖武天皇の勅願により国家鎮護の祈願寺として創建したといわれる。

もとは法相宗寺院。「興福寺官務牒疏」には平城宮鬼門の梵刹で、都「平城京」の東北の方角、奈良の都を正面に位置して建つとある。

平安時代になって、それまで禁止されてきた僧の山林修養が解禁され、次々と入山修行をはじめる僧があらわれた。

興福寺の願安もその一人。弘仁年中(810~824)に金勝山に入り、弘仁6年(815)嵯峨天皇の勅を受け、国家安寧を祈願するため伽藍を建立した。

天長10年(833)には「定額寺じょうがくじ」に列し金勝寺大菩薩寺と称した。金勝寺は女人結界でもあった。

「興福寺官務牒疏」によると、山上の僧房三十六院、衆徒三十六口のほか二十五にのぼる別院を有した大寺であった。

歴代皇室の帰依も厚く、菅原道真が勅命で参篭したことが寺伝にある。他に源頼朝・義経・足利尊氏・義詮ら多くの人が帰依した。

天文18年(1549)火災で全山焼失し、慶長2年(1597)徳川家康の援助により再建した。それが現在の本堂である。

麓には金胎寺、敬恩寺、善勝寺、里坊など末寺の古いお寺が沢山ある。

その昔、修験者の道場であったことも踏まえ、近江山岳密教文化を知る上で欠かせない古刹でもある。

寺内にある木造釈迦如来坐像、ほか五体の仏像彫刻が重要文化財に指定されている。

深い原生林の森に包まれ、大杉に囲まれた本寺はいつ訪れても静かでありお気に入りである。

自然石を八の字に並べた石段が並ぶ一直線の参道は別世界への案内役を果たしている。

参道の左右に走るカビ蒸した石積がかつての僧坊跡を伝え盛時を語る。

この古趣あふれる参道を進むと仁王門、それを潜ると正面の一段高い所に本堂そして軍茶利堂(二月堂)、僧坊が建ち並んでいる。

さらに奥の高台には、金勝山大菩提寺であった頃の堂舎跡の遺跡が残されている。

参道入口近にある「良弁手植の大杉」の案内通りに、先ず大杉を見やってから境内に進むがいい。

 

                        

仁王門

参道の入口に立つと長い石段の先に僅か見える門である。

この風景は表現し難い興趣を誘う雰囲気があって、金勝寺紹介の案内書には必ず使われる。

古色漂う門の左右には県指定文化財となっている木造四天王立像と木造天部形立像が立ちにらみを利かせている。

赤っぽい塗色は今も残っている。真正面に本堂が見える。苔むした石垣が堂宇の周りを取り囲む。古刹に来たと実感する瞬間である。

        

本堂

寄木造:江戸時代

本堂は南に面して建ち、桁行三間、梁間三間、寄棟造、一間向拝付きの小堂で、柱は円柱である。

四天柱で囲まれた内陣の正側面および四天柱と側柱間に雲形ときょうで受ける紅梁をわたし、四天柱間の中央に肘木付大瓶束を立てる。

内陣後半分に禅宗様の須弥壇を置き、本尊釈迦如来を安置し、背面には三連の仏壇を造り付け、左に良弁、右に願安の像を安置する。

向拝柱は角柱で、紅梁中備に逆台形の雲形透彫蛙股を置く。

昭和35年(1960)に天井を補修、61年(1986)には檜皮葺の屋根にカラー鉄板がかぶせられた。

                    

二月堂

仁王門手前の右側に立つ古堂である。古びた姿が心に残る。この堂の中に国重文の木造軍茶利明王立像が安置されている。

    

虚空蔵堂

本堂の左側を少し登ったところにお堂がある。お堂自体は建替えられて新しい。

このお堂の中に、国重文の木造虚空蔵菩薩半跏像が安置されていて、障子が少し開くようにしてあるため拝観できる。

この像は、広大な知恵と福徳のある菩薩として「十三まいりの仏」として信仰されている。

   

金勝寺遺跡

虚空蔵堂からさらに登ると太い杉に囲まれた区域にであう。ここが金勝山大菩提寺の堂舎跡遺跡である。

きっちりと配列された礎石が往時の姿を想像させる。

        

天台勢力の伸展

奈良東大寺の大仏が当初紫香楽宮で造立が企画されていたこと、大津の石山寺が東大寺で活躍した良弁僧正により開かれていることなどからしれるように、近江湖南から甲賀にかけては、奈良時代以降、奈良の仏教の色濃い土地でした。金勝寺も良弁の開基と伝えています。

天台宗が滋賀県全域に影響力を拡大してゆくのは、比叡山の中興の祖とされる慈恵大師良源(912~85)が活躍した10世紀半ば頃からのことです。

琵琶湖の南岸にも、湖岸に近い平野部から山手に向けて、次第に天台の影響を感じさせる像がみられるようになります。

10世紀の末には、野洲川を挟んで金勝寺と向かい合う北岸に正暦4年(993)の年記をもつ薬師如来坐像を本尊とする天台寺院善水寺が開かれています。

金勝寺の膝下にあたる金勝谷にも、11世紀のはじめごろには天台の影響をうかがわせる像がみられるようになるのです。

[近江の彫刻 金勝谷の天台彫刻より引用掲載]

 

金勝谷の薬師如来とその周辺

比叡山に延暦寺を開いた最澄は、その根本像として薬師如来立像を安置しました。

天台寺院の多くは、本尊として薬師如来を安置しています。

栗東周辺にも、天台勢力の伸張を背景にして造られたかと思われる薬師如来が多くあります。

栗東市域における早い例は、東方寺(小柿)の薬師如来坐像や蓮台寺(下鈎)の薬師如来坐像など、市内でも琵琶湖寄りの平野部にみられます。

それより少し遅れて南部の山間部にある金勝谷にも、多数の薬師如来像が知られるようになりました。

琵琶湖に近い平野部から、金勝寺のある山間部へと、徐々に天台の勢力が広がっていった様子が推測されます。

[近江の彫刻 金勝谷の天台彫刻より引用掲載]

 

天台から浄土へ

11世紀半ばに編纂された「本朝法華験記」には、金勝寺の二人の僧が、天台宗で重視される法華経を信仰して往生を遂げた話が載せられています。

また12世紀半ばの1142年に造られた金射寺(こんたいじ 荒張)の本尊阿弥陀如来坐像には、浄土の教主である阿弥陀如来と結縁するため、像の内側に40人ほどが名を記しています。

やがて比叡山で学んだ法然が浄土宗の開祖となっていったように、もともと浄土の教えは、天台から派生していったものです。

そして平安時代後期には栗東にも確実に天台浄土教が広まっていました。

近江の浄土教団の中心的役割を担ってきた歴史を持つ阿弥陀寺(東坂)は、室町時代に隆堯(りゅうぎょう1369~1449)によって開かれました。

隆堯は念仏を広めるため多くの書物を著しましたが、その中で自らを「天台沙門しゃもん(=天台の僧侶)」と記しています。

天台と浄土の教えは、かつては今よりもずっと連続的なものととらえられていたのです。

金勝谷には多くの浄土宗寺院がありますが、その多くはかつて天台宗寺院であったものです。 

[近江の彫刻 金勝谷の天台彫刻より引用掲載]

木造釈迦如来坐像

国重要文化財:彫刻:指定1900・04・07

像高:223.2cm 平安時代

金勝寺の本尊 像高は約223cmで、一般に丈六仏と呼ばれる坐像が像高280cmほどであるに対しその四分の三の大きさである。

いわゆる周丈六仏に該当する。

正・背面ともに左右二材を寄せて根幹部を造り、両脚部には前後に二材を剥ぐなど適宜に材料を寄せている。

誇張や破綻のない穏やかな姿を見せている。 

[写真は東方山安養寺の歴史と美術より抜粋]

 

木造虚空蔵菩薩半跏像

国重要文化財:彫刻:指定1900・04・07

像高:189.4cm 平安時代

格子の合間から自由に拝観できるようになっている。頭や体にふくらみがあって茫洋とした表情をしているとされる。

座高が2m近い大きな像で、像の根幹部を一材から造り、前後にいったん割り放って内刳を施したもの。

頭・体の各部の肉取りに穏やかなふくらみがあり、一種茫洋とした表情が見える。

 

木造軍茶利明王立像

国重要文化財:彫刻:1959:12・18

像高:361.5cm 平安時代

二月堂という堂宇に安置される巨像である。髪を逆立てて眼をむき、上歯で下唇を噛締める凄まじい憤怒の相をみせる。

巨像であるに関わらず、ヒノキの一材から彫成し、背面から内刳を行っている。

頭部が天井を突き破る勢いの迫力が感じられた。

 

[参考文献:栗東の歴史、近江栗太郡誌、栗東の文化、近江の彫刻より抜粋]


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