滋賀県栗東市 新善光寺
Shinzenkoji,Ritto City,Shiga
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February 27, 2022 野崎順次 source movie
新善光寺
(Shinzenkoji Temple, Ritto City, Shiga Pref.)
滋賀県栗東市林256
浄土宗
JR手原駅の東約2.2kmにある浄土宗の寺です。鎌倉時代の中期、平重盛の末裔である小松宗定が、平氏追善のために信濃の善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢を感じて分身の阿弥陀如来像を請来したのが始まりといわれています。客殿に南北朝時代の木造阿弥陀如来立像が安置されています。中国宋代の影響を受けたもので、重要文化財に指定されています。
客殿前に膳所藩主本多俊次が、本堂を建立したときに造ったという美しい枯山水の庭園があります。庭園は三上山(432m)・菩提山(353.3m)を借景にした庭園で、中央に設けられた見事な築山・楠や槇の大木・石組みや刈り込みのサツキ・杉苔などで構成されています。手水鉢や踏み石に転用されている堂塔の礎石などが、重厚な枯山水の雰囲気を盛り上げています。
(滋賀・びわ湖観光情報サイトより)
山門から本堂
市文 枯山水庭園 江戸前期
栗東市指定文化財の庭園で、作年代は寛文二年(1662)、膳所藩主本多俊次公によって、当寺の本堂が寄進され、その頃に造営された枯山水の庭園です。造営当時は、近江富士の三上山を借景にした大変すばらしい眺めでした。
庭園の右手奥には滝を表した真っ直ぐに立った石があり、この滝から水が流れ出し左手へ流れ落ちていく様子を表現しています。
途中には丸形の太鼓橋や板様の橋が配置され、そして亀島の周りを巡りながら、手前右手へと流れて行き、水は庫裡の地下へと吸い込まれていきます。
途中には『樋を形取った立派な樋石』も見受けられます。
中央に位置する亀の形をした亀島の頭の部分には、実に亀の頭にそっくりな石が置かれています。口は尖り、嘴があり、また口は首の方へと裂け、鼻も見受けられます。目は苔様のもので形取られ、頭頂点も亀のそれに酷似しています。まさしく生きる亀が、池の中を悠々と泳いでいる姿です。ゆっくりとご覧ください。
庭園の左手奥には『弥陀三尊』があります。この三尊の配置は非常に珍しい形を取っており、左手奥に二体、あと一体は、庭の右手中央、手水鉢の横手に配されています。
これには大変深い意義があり、無料寿経に説かれている『菩薩行』を意味しています。
『菩薩行』とは、極楽へ生まれた篤信者が、さらに上の極楽へと進むために行をなされ、もう一度この世へ舞い戻ってきて迷える衆生を救済することを言います。この『菩薩行』を表現するために、実は遠く離れた場所に配されていると解釈すれば、奥深く感じられます。
(本寺ウェブサイトより)
滝を表す立石と太鼓橋
『弥陀三尊』、左手奥に二体と右手中央、手水鉢の横の一体
亀島と亀頭石
Sep. 2009 撮影/文: 中山辰夫
新善光寺(しんぜんこうじ)
栗東市林
浄土宗国道1号線林のバス停から200m脇道に沿って歩く。
この道は小阪、辻、出庭を通り、守山市の浮気(ふけ)から守山宿へ至って旧中山道に繋がっている。
草津・栗東・守山に住む70歳以上の人たちの記憶の一つに、彼岸の縁日に善光寺目指して、国道1号線を小学低学年の幼い足でてくてく歩いてお参りした思い出が残っていると思う。
いつも大変な人出だった。子どもにとっては寺周辺に並ぶ屋台の出店が狙いだった。
その記憶も薄らいでいた今、何十年か振りに訪れた新善光寺は建物の大きさに驚かされた。
平重盛の一族小松左衛門尉宗定が鎌倉時代初期の仁治年間(1240~1243)に、平家の菩提追善のため信濃の善光寺に四八回の参詣を行なった。
その参篭中に夢告を得て善光寺如来の分身を奉安、健長5年(1254)如来堂を建立した。
山門右脇に「如来堂」と刻した石柱が建ち往時を物語る。
境内墓地には弘安3年(1280)銘の宝篋印塔があり、開基小松宗定の墓と伝える。近江の在銘宝篋印塔の中で2番目に古い。
門前に建つ頭部が宝珠形の石塔は新善光寺の道案内であった。塔身に南無阿弥陀仏と刻字されている。
江戸時代の寛文元年(1661)、崇敬を受けた膳所城主本多俊次候が三間四面の本堂と寺領の寄進を受け、新善光寺と称するようになった。
その後も代々の膳所城城主の庇護を受け、参詣者で賑わい湖南の名所となった。
本堂・山門が国登録文化財、本堂に安置されている木造阿弥陀如来立像(伝僧円仁作)が重要文化財である。
「牛にひかれて善光寺まいり」懐かしい神牛も健在だった。豪放な山門に圧倒された。見事に蘇った本堂も立派だった。
新善光寺から,国・重文化財である大角家や高野神社は比較的近い距離にある。
本堂には入れたが内陣には入れず、本像の拝観はできなかった。庭園の参観は出来た。
山門
国登録文化財:建造物:指定 1998・09・02
明治21年に新築された。
大型建築で組物、蛙股などに手の込んだ技法が採用されている。近辺には見られないスケ−ルである。
本堂
国登録文化財:建造物:指定 1998・09・02
明治21年(1888)に再建した。
昭和54年(1979)から1年9ケ月をかけて大修理が行なわれた。
組物が大型建築であることを証明している。 斗棋、木鼻に江戸の時代の特徴がでている。これも大型でした。
鐘楼堂
庭園
市指定:枯山水庭園:江戸時代
庭延は家の中に入って縁台から拝見することになる。
庭は回廊(西側)と庫裏(南側)に囲まれている。庭の北から東側にかけては、高さ1.6mほどの築山となっている。特徴は中央に大きな
亀島を設けていることで、その護岸には亀の手脚を表現する横石手法が見受けられる。
庫裏の方から見て、大きい長石のある手前側が尻で、亀頭石は島の北側にある立石である。
亀島の中央にあるひときわ大きな石は中心石で、そのまわりには更に円形の石が置かれている。あたかも二重の基壇のようになっている。
これら亀島の向う所は、背後の築山上に捉えられた巨石(蓬莱石)であり、さらにその背後には菩提寺山が望まれる。
神主さんのお話では、雑草や草木が生えて亀島もよくわからなかったが、手を入れてらしくなってきたとのこと。石の配置はむかしのまま。
木造阿弥陀如来立像
国重要文化財:彫刻:1900・04・07
像高98.6cm、鎌倉時代
[栗東の歴史、近江栗太郡誌、栗東の歴史、新善光寺パンフレットより抜粋]
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