滋賀県栗東市 宇和宮神社
Uwamiyajinja,Ritto city,Shiga
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栗東市蜂屋231 宇和宮神社本殿 重文 近世以前/神社 室町後期 永正2(1505) 三間社流造、向拝一間、檜皮葺 19130414
境内
本殿(三脚によるポール撮影)
2012.9.8撮影
境内
本殿(重要文化財)永正2(1505)年の建築
三間社流造、向拝一間、檜皮葺
宇和宮神社(うわみやじんじゃ)
栗東市蜂屋231−1
主祭神:倉稲魂神 御食津神 大山祇女神 土祖神 例祭:五月五日宇和宮神社のある蜂屋地区はJR手原駅の北約1.2km、国道1号線から約800m、大宝神社から約1.8kmの一帯である。
地名は「はちや」と読む。集落の中央を中の井川が市道に沿って西流する。かつては琵琶湖まで通船されていた。
現在は、西部には東海道新幹線が南北方向に通過し、その西には工場が立地する。
飛鳥時代の頃は中央大豪族の物部氏の田荘であったとされる。奈良時代に金勝山に金勝山大菩提寺が建立されると、この大菩薩寺の
二十五別院の一つ、物部山蜂谷寺が今から約1150年前当地に開かれお堂が建立されたとされる。
興福寺官務牒疏には「蜂屋寺、在栗太郡物部郷、号物部山、僧房二十宇、天平四壬申(732年)勅願、隆尊僧正開基、本尊九品阿弥陀仏、
建久三年(1192)再建・・・」とある。だが蜂屋寺跡はまだ不明のままである。
宇和宮神社の開基や沿革について不詳であるが社伝によると養老元年(717)の勧請とされる。蜂屋の歴史、宇和宮神社の社歴を知るには
関わりが大いにありそうな廃寺「蜂谷寺」の所在の検出が待ち遠しい。
境内社の八幡社は当地の武士蜂屋氏の守護神。蜂谷氏は南北朝時代に南朝に所属して活躍した栗太武士である。
永正2年(1505)現本殿を改修したと棟札に記されている。
本殿が重要文化財である。
近くを新幹線が走っているが、境内は静寂である。集落全体にしっとりと落ち着いた雰囲気が漂っている感じがする。
拝殿、本殿以外の主な建物:中門、神輿庫、神庫、手水舎、社務所 境内社:5社
拝殿
市指定無形文化財:室町時代
大宝神社と同じく妻正面の三間拝殿であるが、間口、奥行とも約5mで、大宝神社よりやや規模が小さい。
軒は各柱間を四支とした二軒疎垂木、棹縁天井である。四周に切目縁をめぐらせ、湖東南部の拝殿形式を守る。
内部床には現在合板がはられているが、もとは拭板敷とのこと。柱の面が大きく、垂木に反り増しがある。
慶安5年(1649)、寛保4年(1744)、文久3年(1863)に大修理が行われた。
平成になって解体修理され、瓦葺きであったのを檜皮葺きに復元された。
本殿
1505年:建築
国重要文化財:指定1913・04・14
三間社流造、向拝一間、檜皮葺
永正2年(1505)社殿を再建した棟札の案文が蜂屋永久寺にあり、古式な流造の優美さを保つ重要文化財の本殿である。
国重要文化財に指定されている本殿の中で三間社流造が最も多い。
身舎の前面に桁行を身舎と同じくした庇の間を延ばし、柱間装置を設けて前室する。さらに孫庇を延ばして向拝とした前室付きは、
滋賀県に優れた遺構が多い。
前室正面の吹寄菱組格子戸の上には繊細な意匠の優れた竹節欄間を入れている。
本殿の蛙股には二匹の狐の彫刻が施されている。 庇に建具を入れて前室とし、さらに向拝をつける形式は滋賀県の中世の本殿には類例がない。
前室付の流造本殿は前流れの屋根が長く勾配が緩やかになるため、屋根の腐朽が早く、雨漏れで向拝部材が朽損しやすい。
そのため、大修理が伴って当初の形式を失うケースが起こり易い。
昭和5年(1930)、昭和45年(1970)に解体修理が行われた。
この蜂屋という小村が、中世の遺産とも言うべき宇和宮神社をどのように維持し、再建されてきたか分からない。
蜂屋石仏
蜂屋地区の中央には中の井川が流れている。この川は野洲川より分流し草津志那に至り琵琶湖に注いでおり、栗東唯一の船便があった。
この川沿いに宇和宮神社のお旅所があって、その場所が「船ダマリ場」となり、明治十二年頃まで活躍していたとのこと。
この中の井川に沿って、今でも石仏が集中して存在している。当時の水運の安全や氾濫よけの願いであったろうか。
いずれにしても住む住民の篤い信心が今にも伝わっており、それ故に古社が守られている。
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