滋賀県高島市 長谷寺
Chokokuji,Takashima city,Shiga
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April 3, 2021 野崎順次 source movie
滋賀県高島市音羽495
長谷寺
(Chokokuji Temple, Takashima City, Shiga Pref.)
大和長谷寺(はせでら)とゆかりのあるお寺らしい。ただし、読み方は「ちょうこくじ」。
薬師堂の横に姿のいい宝篋印塔がある。
滋賀県高島市にある白蓮山長谷寺(ちょうこくじ)の本尊がご開帳され、大和長谷寺もその随縁にあずかる事が出来ました。長谷寺(ちょうこくじ)は「長谷寺縁起文」にある、長谷観音を刻むための霊木が流れ出でた、白蓮華谷がある嶽山の麓にあります。本来、33年に一度のご開帳ですが、天皇即位を記念して、特別にご開帳をされました。その本尊の御尊顔は大変柔和で優しい表情をされ、人々の長谷観音さまに対する想いを感じる事が出来ました。また、同市の三尾里には大和長谷寺の飛地があり、平成28年に碑を建立いたしました。そこは流れ出でた霊木が一時、置かれていた場所のようで細長い土地になっています。
全国の長谷観音の根本、大和長谷寺の本尊十一面観世音菩薩さまの故郷を訪ね、その土地の人とのご縁がより深まり、長谷観音の威光高まらんことを願う行脚となりました。
(奈良桜井長谷寺公式ウェブサイトより)
薬師堂
長谷寺宝篋印塔
鎌倉時代後期 正中三年(1326) 花崗岩
塔身に金剛界四仏の種子を刻む。笠の段形は、下二段、上六段、隅飾は二弧輪郭付で内は素地。背面の基礎側面は素地、他の三面は輪郭を巻き格狭間をつくる。基礎上端は複弁の反花、側面三面は、輪郭を巻き格狭間をつくる。正面のみ開蓮華を刻出し、束(つか)に正中三年(1326)の紀年銘を刻んでいる。
(河合哲雄「石仏と石塔!」ウェブサイトより)
その他
July 9.2017 中山辰夫
高島市音羽494
長谷寺は高島駅から歩いて約20分の音羽の集落にあって、標高563mの嶽山(岳山)の登り口にある、開創677年とされる古刹
獄山は比良山山系の北に位置し、比良山系全山を縦走する登山者の北の出発点 江戸時代までは、獄山山頂のお堂まで山を登って参詣された
1993(平成5)年、中腹にあった観音堂が現在の地におろされ、観音堂・薬師度・太子堂が一堂に納められた
宗派:天台真盛宗 開基:藤原不比等 開創:677年 本尊:十一面観音立像(秘仏、33年毎に開扉)、両脇侍(じ)には龍王立像・雨宝童子を安置
薬師如来坐像:(重要文化財 藤原時代前期 像高52cm)
集落の入口には大炊(おおい)神社と刻まれた石碑が建っている
集落内を進むと正面に大炊神社の石の鳥居と拝殿が見えてくる
大炊神社
神社は獄山北東麓にある水尾神社の調理殿(大炊殿)跡といわれる 神社の右側に長谷寺と薬師堂・別当の武蔵家が見える
大炊神社境内の左側に長谷寺の観音堂がある。
観音堂
かつて嶽山の頂上近くにあって、長谷寺の奥の院とされた観音堂が老朽化と参詣者の利便に供するため近年この地に移された
訪れた日は、年荷一回の「千日会」(7月9日)、一般に「岳まいり」と呼ばれる縁日であった 朝から集落や近郊から参詣者がお参りに訪れていた
仏像・他
秘仏の本尊十一面観音立像は秘仏で33年毎に開扉、今は寄託中
境内の薬師堂に薬師如来坐像(国重文)が安置されていたが今は寄託されている 平安後期の作で国の重文 像高51.5cmの木像で洗練された漆箔である
最近発見された釈迦誕生仏(平安初期)、観音菩薩像(平安後期)などいずれも10cm余りの小像であるが金銅仏で統一新羅風の彫刻として注目された
更に薬師堂前には二つの古石塔が建つ 一つは鎌倉時代の宝篋印塔(1326年)
長谷寺では毎年7月19日に千日会が行われ、長谷寺縁起を要約して描かれた二幅の縁起絵が掛けられる。
当寺は奈良時代の建立とされ、縁起に依れば、一本の木で当寺と奈良泊瀬(長谷)寺、香川の志度寺の十一観音立像が刻まれたといわれ、各寺に本木伝承が今も脈々と伝わっている。
長谷寺は、その昔より岳の観音を農耕の馬や牛の守護として信仰を集め、朽木を含む集落の人々は岳山の頂上にある観音堂にお参りをしたとされる
その参詣道は、現在「リトル比良」登山ルートに組み込まれており、ハイカーのみが利用している。
延々と続いた長谷寺詣での参詣道を確認したくて登ってみた。
嶽山登山(リトル比良)ルート
小田川沿いに嶽山観音堂跡を目指して登り始めた。
シダが覆う1m巾前後の山道。丁石(道標)や神楽石・亀ヶ岩らしきものが草むらの中に見られる 心中穏やかでない徒歩を10分程続ける。
「賽(さい)の河原」に到着
中央に石造地蔵菩薩像が安置され、多くの小石が積まれてあった 山の中腹にある賽の河原はめずらしい
河原から見る嶽山 信仰の山らしい形姿である
更に進む 参詣道は上りとなる さらに細くなり、シダが重なって道を塞ぐ 岩場をぬけるなどかなり厳しさを増す
常夜灯に到着
伊勢国白子の長嶋長十郎という者が、母親の大病平癒祈願のため1685(貞享2)年9月18日から7日間、観音堂に参籠、祈願の甲斐あって全快した
そのため田畑を寄進し、常夜燈を建立した 「一部写真協力—高島市」
景観が素晴らしい
登り始めてから約30分経過 頂上はまだまだ先である
風化した花崗岩の白砂が広がるが「白坂」とよばれる地点もまだ先である その先には弁慶の切石と称される奇岩類が待ち受けているようだ
この先は登山装備が必要
不安が先行し、ここで引き返した。後で聞くと、登山装備で登らないとダメな、かなり難度高い登山道がこの先続くことがわかった。
山頂までの参考資料
山頂までの行程概略
白坂の先に観音堂跡がある そこから頂上を目指す 道は急に険しくなりロープを頼りに登る。奇岩・巨岩が並ぶ 風化した白砂からなる急斜面を過ぎて進むと「石窟」の前に出る
これが元嶽岩屋観音とよばれているもの 石積構造の石室の中に十一面観音立像を中心に左右二尊が浮彫りされている
岩屋前の石段は急峻で今に残るとか。石窟の後には磐座とされる巨岩が屹立しており、これが嶽山の山頂である。
これが長谷寺の奥の院であったが、江戸時代の1745(延享2)年に大溝藩主・分部光命(わけべみつなり)が、参詣者の便を考えて観音堂跡に移した。
これがさらに現在の山麓に移された
参考資料<高島町の歴史、高島町史、高島市役所発行「広報たかしま」、近江古寺紀行(河出書房)≫
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