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滋賀県高島市 市街地

Downtown,Takashima city,Shiga

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Mar.2012 中山辰夫

旧高島町・町中散策

分部光信が大溝城に入封してから城内を整備した。

水路や街路を整備し、武家屋敷と町屋地区を背戸川で区切り、軍事・経済両面を備えた近世的な城下に整備した。

職人、商人、住民が住む所として、新しく勝野町・六軒町・長刀町・舟入町・江戸や町・蝋燭町・石垣町・西町伊勢町

十四軒町・紺屋町の十二町を増やした。

町屋も京都のような長方形の短冊形をした屋敷割がされ、各町屋の両側には火災の延焼を防ぐウダツの取り付け

が義務づけされた。

さらに、城下の各町内すべてに豊富な生水(しょうず)を有効に利用した水路を配し、生活と防火に備えた用排水とした。

このような水路を城下のすべてに配した城下町は全国でも珍しく、信澄や光信がいかに平時・戦時はもちろん防災の面

まで配慮した素晴しい城主であったかを知ることができる。

商家では、豊かな水を活かした、酒造業、酢屋、醤油屋が多かった。

柳屋の商品券、油甚の商品券、湯包の商品券、酒造鑑札

今はほとんど姿を消した昔の町屋や佇まいを町中に追っかけてみた。

大溝城下町町名図

福井三四郎家住宅

国登録有形文化財

福井三四郎家は芳野屋一統を名乗る商家の宗家として三四郎を名乗り、江戸時代は町年寄を世襲する街の有力者

であった。この家を本家として、現在も本町と折に沿って分家が軒を並べる。

昭和30年頃まで醤油醸造を営んでいた。現存する町屋としては高島町内で最も古い一つである。

現在は「びれっじ2号館」として再生事業に取組んでいる。

「屋号芳三」とされ、貴重な近世町屋遺構である。屋根の両端にウダツがあがっている。

びれっじは近世から近代にかけての町屋を改修して活用することで、後世に残す試みである。

福井弥平家住宅

蔵元・福井弥平商店 銘酒「萩の露」

本町通りに面し、260余年の歴史を刻む老舗が建つ。玄関には新しい杉玉を飾る。

蔵元としての福井弥平商店の創業は江戸中期の寛延元年(1748)。だが、福井家の歴史はさらに古く

一族がこの地に居住したのは、織田信長から領地を与えられたことに始まると伝わる。

酒名の由来は、琵琶湖畔に自生していた萩の花に因み、藩主・分部氏から頂戴した由緒正しいもので

大溝藩の御用酒としての歴史を持つ。

この琵琶湖を挟んで東岸には宮中へお神酒を献上している「旭日」蔵元が、西岸には「萩の露」蔵元が

あり、近くの福井県小浜市には「わかさ」蔵元がある。寒冷な気候・豊かな水・良質な米が銘酒を産む。

福井弥平家酒蔵

福井文次郎家住宅 「屋号芳文」

びれっじ1号店 絞油商を営んでいた。

大正4年(1915)頃の写真と現在 芳文は米穀・肥料の問屋で油と酢の製造販売もしていた。

見かけた町屋

高島の古式水道

古式水道とは、サイホンを利用した溜め枡を要所々に作り、家々に水を配分した水道のこと。

江戸時代に始まる。特に勝野地区は地下水に鉄分が多く含まれるため、浄水の確保が困難な場所であった。

そのため、背後に聳える日吉山の湧水を引き入れた。

今はこの水を浄水として利用することはなくなったが、野菜の泥落としや庭の泉水、畑の水槍に利用している。

参考資料

旧生活用水

町人町の通りの中央部に幅1m・深さ1mの石垣水路つくられ、飲料水とともに防火用水としても用いられた。

現在もこの用水路は町中に残り、使われている。

昭和55年(1980)頃の様子

江戸時代中期以後は、西方にある湧水池に元井戸を掘って水をため、竹桶で町屋に水を送った。

この引水を中心として町の中に井戸組、とゆ仲間などの共同体が生まれている。

下水道は町並の裏手に裏川を敷設、背戸川に合流して琵琶湖に流した。

江戸時代の排水設備の遺構(大溝陣屋跡 継ぎ部分を枕という)

さらに、城下の各町内すべてに豊富な生水(しょうず)を遊行に利用した水路を配し、生活と防火に備えた用排水

とした。

このような水路を城下のすべてに配した城下町は全国でも珍しく、信澄や光信がいかに平時・戦時はもちろん防災

の面まで配慮した素晴しい城主であったかを知ることができる。

山蔵

鮒ずし

400年の歴史を持つ鮒ずしの老舗

キリスト教会 (大溝教会)

勝野中町にある。昭和9年(1934)に建築された。100周年を越えた教会である。

ヴォーリズの直筆 「唯 キリスト在るのみ」1951-1月1日 一柳米来留

シシ垣(猪鹿垣)

シシ垣は高島町志賀町内までの山麓に帯状に現存している。用途としては鹿・猪が田畑に侵入防止

するために石垣、土盛、木垣、により構築されている。

構築時期については異論もあるが、鵜川村においては寛政11年(1799)から享和2年(1802)にかけて

領主に対し、シシ垣の構築を願い出ている。以後、江戸後期から明治において新たな構築や補修を実施

している。

日吉神社本殿横の山道から登る。

高島商人

小野・村井両家に代表される東北地方、とくに南部地方で活躍した商人。

当城下町にあった総本家の城下町への貢献度は希薄であった。

しかし東北地方をはじめ、京・大坂や江戸にも活動の拠点をもち、大溝藩ではむしろ全国各地の情報収集

という点に注目していたとされる。

高島商人の発祥は、安土桃山時代に大溝の城下町整備のために、東北や北海道の松前と通商していた

商人が大溝へ招かれたたことから始まるとされる。高島商人は近江商人の中で最も早く東北へ進出した。

信長に滅ぼされた浅井長政の家臣の後裔とされる村井新七が、岩手の盛岡に新天地を求めて砂金関係

の仕事を手がけ、盛岡の一等地の紙町に「近江屋」という店を構え成功した。

ここが高島からやってくる商人の「草鞋脱場 わらじぬぎば」となり、進出の拠点となった。

最初に身を寄せたのが小野権兵衛主元である。寛文2年(1662)に盛岡に下り、名目上新七の養子となり

商業に精励した。そして、10年後に独立して「志和近江屋」を創始し、酒造業と質業を営んで大成功した。

先人の縁故を頼りに、次々と東北に出かけ、盛岡を中心に大きな勢力を持つに至った。

江戸時代中期には南部領(盛岡を中心に青森・岩手・秋田3県にまたがる地域)の商圏を一手に引き受け

明治維新後、その中心的な小野組は新政府の公金を預かり、新政府の経済基盤を支えていた。

しかし明治7年、小野組は政府の官金回収の政策に適応できず瓦解した。

盛岡では今も滋賀県出身者の企業が盛岡の経済の中心で活躍している。

「高島屋」の創業者 飯田新七

京都で米屋を営んでいた飯田儀兵衛は、生まれ育った高島郡新保村「現 今津町」の地名から屋号を

「高島屋」と名付けた。

儀兵衛は福井から京都の呉服屋に奉公していた新七の働きぶりを見込んで娘の婿に迎えたが、新七は

米屋の経験が無いことから、同じ「たかしまや」の屋号で天保2年(1831)に分家独立して呉服商を始めた。

これが現在の百貨店高島屋の創業である。

参考資料≪高島町の歴史、高島町史、他≫

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