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滋賀県高島市 宝幢院

Houdouin,Takashima city,Shiga

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Apr.2012 中山辰夫

高島市マキノ町海津1381

真言宗智山派

本尊:薬師如来坐像

宝幢院はマキノ町の中心的な集落の海津にある。 宗正寺の北東200mほどの所にある。

この寺は天平2年(730)に仏地院として泰澄大師が創建したといわれており、その後衰えた時期があったが

嘉吉2年(1442)に紀州根来寺の僧、真遍和尚が再建し、慶長7年(1602)に今の寺名に改めた。

明治8年(1875)本堂と庫裏焼失。明治29年(1896)再建。 他に鐘楼、土蔵、八幡神社などの建物がある。

案内と境内図

仁王門

海津字宮後にあった宝幢院末の最勝寺より明治36年(1898)に移築したもの。

三間一戸八脚門、切妻造、桟瓦葺 19世紀前半建立。 木柄の大きい八脚門で、当初はこけら葺であった。

総円柱 出三斗、中備蟇股、一軒繁垂木、妻飾板壁、内部格天井。 実肘木と一体化した蟇 股

具体的な形に近い木鼻など細部意匠に独特のものがある数少ない近世の八脚門の遺構である。

仁王門に入って松並木の参道を経て中門に至る。

四脚門 切妻造 桟瓦葺棟札より元禄4年(1691)建立の建物である。

四脚門形式であるが、この門は4本の控柱の柱頭を頭貫と台輪で固め親柱上の冠木はこの頭貫を男梁としてその下方に納まる。

天満宮

天神社とともに宝幢院境内の覆屋内に奉祀される。

当初材(ケヤキ)の保存状態は良好で、頭貫木鼻、蟇股、繋紅梁などの絵様繰形は優秀とされる。

鐘楼

本堂

武田元明の墓

元明の妻は、後で秀吉の側室となった松丸殿である。

もと若狭の守護職・武田元明は、明智光秀に勧められて長浜城を攻めたことから、秀吉から切腹をさせられ、美貌の妻、竜子は

秀吉の側室になった。

京極高次は柴田勝家の軍に従って賎ケ岳の合戦に参加した。合戦後、浪々の身となって若狭国小浜に至り、妹婿の武田元明を

頼ったがすでになく、神宮寺を頼って僧坊に匿われて時節を待った。

秀吉の側室となり松丸殿と呼ばれていた妹竜子の取り成しで、天正12年(1584)秀吉に罪を許され、高島郡田中郷に2500石

が与えられ、同13年には従五位上侍従に叙任し、同14年高島郡において加増、5000石を与えられた。

先祖高氏や持清などの血を受け継いだ高次は、秀吉・家康にひき立てられ、その後も軍功を重ね続け大溝城の城主、大津城の

城主と進み京極家の再興を果たすことになる。

弘法大師像 室町時代

絹本着色 133cm×118cm

弘法大師空海の画像はすでに平安時代の早い時期に成立し、その後単独像ないし真言八祖の一つとして数多く写し継がれた。

本図様の大師像は、大師の高弟であった真如親王(平城天皇の皇子高岳親王)が、大師の真影を模写し高野山御影堂に安置

した御影の偉容を伝えるところから、高野山御影堂系真如親王様とよばれ、広く真言宗派に流布した。

本図は真如親王様式を踏襲した謹厳な画風を見せ、大師の風貌をよく伝えている。

五大明王像 五幅 鎌倉〜室町

絹本著色 

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