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滋賀県高島市 今津

Imazu,Takashima city,Shiga

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Oct.2014 中山辰夫

近江今津の歴史

往古は、北国の産物を都へ運ぶ湖上交通の要衝として栄え、また、西近江路の宿場町、西国三十三番札所「宝厳寺」(竹生島)へ向かう巡礼人の船待ちところとして賑わった。

現在の案内

今津の名は、中世初期の「源平盛衰記」に初出する。古津(木津・新旭町)に対する新しい港の意味である。

室町幕府の草創と共に、京都は政治・消費の中心都市となった。あらゆる物資が京都を目指した。その流れの中で、東国・北陸方面からの物資は必ず近江、琵琶湖を通過した。湖西での木津の港が積み出し湖として繁栄した。この木津を衰退に追いやったのが今津である。

中世は近江商人の前身である五箇商人が九里半街道を行き来し、若狭の海産物を流通させた。今津は発着点であり宿駅であった。

戦国期には豊臣秀吉の意を受けて、北陸物資は一切他港へ出してはならないとの認証を得た。

近世は加賀の金沢藩が領有して、ここに代官所を置いた。湖岸に現存する約1km余りの石垣は、1710(宝永7)年同藩が鵜川の石材で構築した。

若狭荷物の大津方面への積み出しや竹生島参詣、湖東への乗り継ぎ港として発展した。その後も、廻船問屋、旅籠屋等が軒を連ね、1681(延宝9)年には丸子船74隻を記録する。

1882(明治15)年太湖汽船が寄航して、今津はその主要港となる。

1906(明治39)年に今津村が今津町となり、1909(明治42)年に百卅三銀行今津出張所が開設された。

第三高等学校(現在の京都大学)水上部の小口太郎が今津町の湖岸の宿で「琵琶湖周航の歌」を披露したのが1917(大正6)年である。

また1920(大正9)年には県立今津中学校が設置された。

ヴォーリズが今津で伝道を始めた明治末頃から大正にかけては、今津の町も大きく飛躍した頃であった。さらに、1931(昭和46)年には江若鉄道が浜大津〜今津間に開通した。太湖汽船は鉄道とバスの運行で急速に衰退した。

1955(昭和30)年1月に町村合併促進法により今津・川上・三谷の3カ町村が合併して「今津町」が誕生した。

今津町には三つの内湖(南沼・中沼・北沼)があったが、1971(昭和46)年8月より行われた土地区画整理で沼地が埋め立てられた。工事は1973(昭和48)年3月に完工し、そこには道ができ、建物が建ち、そして1974(昭和49)年7月にJR湖西線が開通し、今津の市街地形成が大きく変貌して現在に至っている。

■■散策

JR湖西線・近江今津駅から街道に向かう。

■琵琶湖周航の歌資料館

琵琶湖周航の歌が誕生したのが今津町である。資料館では歌のできた経緯や作者の紹介などを常設展示ししている。

■旧街道

すぐ傍が琵琶湖の街道に沿って建つ家並からは昔ながらの風情を感じさせる。

写真にある「丁子屋」は、近江商人の往来で古くから賑わいを見せていた旧街道に建つ200年以上の歴史をもつ料理旅館。宿場町の面影を残す宿には当時の商人達の背負い荷を下ろす荷台や明治時代に書かれた「旅人宿許可」「明治14年9月14日)の看板が残っている。

■九里半街道

今津と若狭小浜を結ぶ。中世になって若狭へ行商に出た近江国内の商人団体を五箇商人と称した。小幡(五個荘)・八坂(彦根)・薩摩(稲枝)・田中江「近江八幡」・高島南市(高島郡)の商人で、九里半街道を通る特権を有し、若狭より海産物を仕入れた。当時九里半越えには多くの関所が設けられ、旅人から通行税を徴収したが、五箇商人は樽銭札物を納めるのみで自由に通過する特権を有した。彼らは仕入れた海産物を対岸の長命寺などへ、さらに国内各地の市場や京方面へ売りさばいた。今津は九里半街道の発着点であった。ルートは、現在の国道303号にほぼ沿ったもので、住吉神社を越えて左折し辻川を抜ける道が古来からの道である。

■今津浜辺

旧街道に沿って建つ家並みの合間から浜が見える。浜は近い。500m程の松並木ものこっている。竹生島も近い。「波除家囲い石垣」や湖底から出土したお地蔵さん、今津桟橋跡など浜辺の散策は興味深々である。

■ヴォーリズ通り

旧若狭街道を少し北上すると「ヴォーリズ通り」という案内が目に入る。

元は辻川とよばれた通りは、「今津ヴォーリズ資料館」「日本基督教団今津教会会堂」「旧今津郵便局」という3つのヴォーリズ建築が存在することから、近年は「ヴォーリズ通り」と呼ばれるようになった。今津ヴォーリズ資料館と今津教会会堂は、平成15年(2003年)に国の登録有形文化財となった。

1931(昭和6)年頃の同じ通り(辻川通り)

■ヴォ−リズの履歴と今津

年譜

ヴォーリズは大学在学中に、海外伝道の召命を感じ、1905(明治38)年2月、YMCAの仲介で近江八幡に来た。満24才であった。八幡商業学校で英語教師になるが、2年後教職を解かれた。教職の傍ら、学生YMCAを組織化した活動などによる。その後、生活の糧として、関心のあった建築設計を職業に選んだ。

建築家を志向していたが、キリスト教伝道を優先したことによる。彼は八幡商業在職中に、近江八幡YMCA会館や宣教師の住宅設計を手掛けていた。

1908(明治41)年建築事務所を開き、1911(明治44)にヴォーリズ合名会社、1920(大正9)年にヴォーリズ建築設計事務所を設立した。

戦前までに行った約1500件に及ぶ設計数は、個人の設計事務所としては恐らく日本一であろう。

設計活動と並行して、1911(明治44)年教え子吉田悦蔵らの協力を得、設計事務所の利益を支えに近江基督伝道団を結成、盛んな伝道活動を展開した。

伝道活動は当初、近江八幡を中心とする湖東地方が主であったが、交通網が未整備であった滋賀県西部にキリスト教を広めたい、その一途な想いから湖上を船で往来することを思い立った。その思いは、メンソレータムの開発創業者である、A・A・ハイド氏の寄付によって叶えられ1914(大正3)年に動力船を湖上に浮かべることが出来た。この動力船はイエス・キリストの伝道地「ガリラヤ湖」にちなんで伝道船「ガリラヤ号」と名付けられた。

ガリラヤ丸に乗ると、湖西の町である堅田、今津へは近江八幡の湖岸より一足で行き来が出来た。目指した湖西での伝道活動の拠点が今津であった。

ヴォーリズは湖畔伝道としてそれらの町々を歩き、各地に近江ミッション支部の活動を起こし、同時にヴォーリズの建築を湖畔の町々に建てて行った。

設計による利益を県下各地に、教会、YMCA,学校、図書館などの開設に費やし、今日の近江兄弟社の基礎を築いた。

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