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滋賀県高島市 興聖寺

Koshoji,Takashima city,Shiga

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June 8, 2019 野崎順次 source movie

滋賀県高島市朽木岩瀬374

曹洞宗

高巌山 興聖寺(こうしょうじ)

寛元元年(1243年)宋から帰国した曹洞宗の開祖、道元禅師が朽木の里を訪れた際、付近の風光明媚な様子が宇治の輿聖寺に酷似していると大変感激して、領主の朽木氏にこの地に一寺の創建を勧めたのが始まりといわれています。林のように木々が茂っている中に寺が立っており、境内からは安曇川や上山などの広大で雄大な景色が眺められます。閑静な境内には本殿のほか、庫裏や鐘楼などが立ち並びます。本尊の木造釈迦如来坐像は、伝教大師の遺作と称される平安時代の名作であり、檜の寄木造りで、その優美さと尊厳さをそなえた仏像は国の重要文化財に指定されています。

<旧秀隣寺庭園(別名:足利庭園)>

興聖寺の境内にあり、昭和10年に国の名勝指定を受けている庭園です。もともと、16世紀の半ば、相次ぐ武将たちの反乱に追われた室町幕府の第12代将軍足利義晴、そして第13代義輝が、朽木氏を頼って数年間滞在した居館の庭園です。秀隣寺は、のちに他の地に移され、江戸時代に朽木氏の菩提寺である輿聖寺がこの地に移されて、現在にいたっています。朽木一族を始め佐々木一族・京極高秀や浅井亮政、浅倉孝景等の協力で、管領細川高国が将軍を慰めるために贈ったといわれています。安曇川の清流と比良山系を借景として、西側の築山に石を利用した滝をしつらえ、屈曲した汀線を持った池に仕上げています。池には、2つの鶴亀島を置き、楠の化石の石橋が対岸の出島に架けられています。細川高国の代表作であり、旧秀隣寺庭園とも呼ばれます。

(びわ湖高島観光ガイドより)

JR安曇川より江若交通バス朽木線で朽木学校前で降りて、鯖街道を歩く。左手の坂道を上ると、興聖寺である。

                 

パンフレットと現地説明板

    

境内に入る。

           

本堂

           

国重文 釈迦如来像 平安後期

御本尊、桧の寄木造、定朝様

            

裏堂

     

縛り不動明王像

楠木正成の念持仏という。朽木時経が北条高時の命により千早城焼討ちの際、捧持し帰還した。

      

旧秀隣寺庭園 室町時代 曲水式

これらの細川氏は天竜寺船以来、足利氏と大内氏と三家による貿易船をもっていて、中国との交易をしていた関係から、多くの書籍や器物が入手され、彼らは詩文に長じ、かつまた唐物名物を入手した関係で高度な眼識の所有者であった。曲水宴はこれらの詩文上達のために催され、かつ雅宴であったので、細川氏の好むところとなり、細川氏一流の芸でもあったから、頼春、頼之、高国いずれも曲水宴を好み、かつ曲水庭を好んだのである。

細川氏の曲水庭は、頼之の志度寺庭園、高国秀隣寺庭園、北畠国司館址(北畠神社)庭園等があることによって特色づけられている。

今本庭を一覧すると、面積二百三十四坪ほどあり、北部に滝を落とし、そこから曲流を導いて南東に流れているが、北部に亀島を設け、中央に自然石の石橋を架け、さらに南部に鶴島を設け、その南にまた自然石の石橋小橋を架けている。

(中略)いずれにしても本庭の地割が曲水式のものであり、細川流独自の作庭であることは何より興味のあるところである。

そしてまた、本庭の石庭がなかなか豪健そのもので、特に鶴島の石組は、鶴の羽石と蓬莱山を兼用手法としたものであって特に傑出している。あるいは亀島の亀頭石中心石も豪健な手法であり、かつまた本庭の多くの護岸石組が傑出している。今日では鼓の滝と称されたものが崩れ去っていることは惜しい。築山の中心木の杉の巨木は、北畠神社のものと同一であることも興味のあるところである。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」旧秀隣寺庭園より)

   

遠くから鑑賞する。

          

北から南へ、亀島

            

鶴島を回り込む。

                     

反対側から亀島

         

北の滝石組あたり

    

その他境内

               

帰途

           

朽木旭屋の十割そば、バス停あたり

         

バスで安曇川に戻り、JR湖西線で京都方面へ。北小松の駅を過ぎると楊梅の滝が見える。そして三上山。

                 


Nov.16,2015 中山辰夫

旧秀隣寺庭園(国指定名勝)

滋賀県高島市朽木岩瀬374

安曇川と庭園からの遠景

    

庭園位置図

 

旧秀隣寺庭園は、安曇川河岸段丘上に位置し、眼下に流れる安曇川と対岸の集落を見おろし、その背後に横たわる蛇谷ケ峰を遠くに望む。

興聖寺境内の東南隅の一段低い所が庭園である。通称「足利庭園」とよばれる。1935(昭和10)年に国の名勝に指定される。

  

池泉観賞式庭園で、十二代将軍・足利義春を慰めるために朽木氏や管領・細川高国が銀閣寺庭園を基に築庭したとされる。

義春は1528(享禄元)年三好長慶の乱に際して、朽木稙綱を頼り当地に3年程滞在している。

           

大きな流れとその曲折、池、枯滝と滝石組や中島(鶴島と亀島)や2か所の石橋が存在し、中世末期の武将好みの庭園とされた。蛇谷ケ峰が見える。

面積234坪、鶴亀の蓬莱石と楠の化石と1われる石橋

  

名木ヤブツバキ

樹齢約480年。池の中島や周辺に8本植えられ6本が現存する。足利義春の弥栄と世の平和を願い作庭された庭園に、「願いが後世へ続くよう」にと石組全体を包んで根をはる性質を持った椿が庭木として使われた。

かって、細川幽斎の子忠興が庭園を訪れた茶人・千利休を案内した際に、利休が散ってゆくヤブツバキの花を見て、「散り際の良い、一期一会の心を表わしたもの」と散る潔さを称えたという逸話がのこる。

以前は花のじゅうたんが出来るほどに咲いたが、今春は殆ど花を付けなかったため、樹木医に治療を依頼したと聞く。

興聖寺

宗派:曹洞宗 本尊:釈迦如来(木造釈迦如来坐像:国重要文化財・平安時代の作) 開基:佐々木信綱

道元禅師が1243(寛元元)年に北国へ下向の際に、佐々木信綱の招きで朽木に立ち寄った。

朽木の指月谷の景色が、京都宇治の興聖寺の景色に似ていることから一寺の創建を勧め、宇治の寺と同じ興聖寺と名付けたという。

3年後に七堂伽藍が完成した。朽木氏歴代の菩提寺で歴代の墳墓もある。1729(享保14)年に秀隣寺を指月谷へ移し、興聖寺を現在地の秀隣寺跡へ移した。

江戸末期1784(天明4)年と1828(文政11)年に火災があり、建物を全て焼失。孝明天皇時に再建された本堂、庫裏、鐘楼がある。花の寺として有名

興聖寺境内地図

   

本堂

入母屋造と唐破風の建築。

            

鐘楼

    

境内

       

現在朽木に存在する30カ寺のうち、28カ寺が曹洞宗。朽木における曹洞宗寺院の創建は興聖寺が一番早いが、その他の曹洞宗寺院の創建は15世紀に多くこれは朽木氏の領地支配に関係するとされる。

参考

朽木家は宇治川の先陣争いで勇名をはせた佐々木高綱のオイ、近江守信綱が1221(承久3)年同村にトリデを築いて入り、朽木家を名乗ったのが始まり。

1871(明治4)年の廃藩置県まで26代、約650年にわたって連綿といた名門、近江源氏である。

城といわずトリデと呼ぶのは所領が近江、若狭の9,999石で1万石にみたなかったといわれ、このため明治維新の際近江源氏末裔の大名格でありながら爵位をもらわず「士族」にとどまった。

参考資料≪朽木村史、滋賀県の歴史散歩、花巡礼、HP、ほか≫


November 8,2014 大野木康夫 source movie

所在地 滋賀県高島市朽木岩瀬374

旧秀隣寺庭園(国指定名勝)

亨禄元年朽木植綱將軍足利義晴ノ爲ニ館ヲ建テシ時築造セシモノアリト傳ヘラル

慶長十一年朽木宜綱ソノ妻秀隣夫人ヲ此ニ葬リ館ヲ寺ト爲シ秀隣寺ト號セシガ寺ハ後チ同村野尻ニ移リ亨保年中興聖寺ソノ旧基ニ移リ来レリ

庭園ハ屈曲セル汀線ヲ有スル池アリ

池ニ瀑ヲ落シ二個ノ中島ヲ置キ石橋ヲ架ス

石組ニ竪石多ク豪宕ノ氣アリ

小椋栖山安曇川一帶ヲ借景トス

室町時代ノ代表的庭園トシテ著名ナルモノナリ

(国指定文化財等データベースより)

                                                                                  


May. 2007 瀧山幸伸 source movie

  

  

   

旧秀隣寺庭園

Kyu Shurinin garden

            

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