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滋賀県高島市 大溝城跡

Omizo castle,Takashima city,Shiga

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Feb.21,2021 野崎順次  source movie 

大溝城本丸跡
信長の命によって築かれた大溝城は、縄張り(設計)は明智光秀、琵琶湖の内湖(乙女ヶ池)を取り込んだ水城で、天守台を中心に本丸、二の丸、三の丸からなっていたと考えられています。
また、その北西に武家屋敷が配され、さらにその北の外に城下町が広がっていたようです。
その当時の城は、防御に有利な山城が一般的でしたが、大溝城は琵琶湖岸に築かれた水城で、外敵からの防御策として、内湖を利用した濠がつくられ、石垣を築き、その上に天守が建てられました。
大溝城の石垣は、戦国期の建築技術であった「野面積み」で組まれており、傾斜が真っ直ぐであるのが特徴で、当時の技術を今に伝える貴重な歴史遺産です。江戸時代以降、建築技術が向上するに伴い、城の石垣も高さがあり勾配がついたものに変わっていきました。
大溝城の石垣は、裏山の通称「石切り」の石が使われたと打下村(現高島市勝野)の伝承にあります。また、大工仕事については、音羽村(現高島市音羽)の大工棟梁があたったとする古文書が残っており、地元の石工や大工が築城に貢献していたようです。
(近江高島大溝の水辺散歩サイトより)

現地説明板
   


石垣だけが残る本丸跡
                


Mar.2012 中山辰夫

高島市勝野

大溝城跡はJR湖西線近江高島駅の東にある。駅前の広い道から建物間の細い道を約5分歩く。

大溝城のあった地域は「勝野」である。

 

勝野地区

この一帯は“勝野”とされ、勝野浜、勝野津、勝野鬼江などと記される古代地名である。

勝野周辺は壬申の乱(672年)で大海人皇子の軍が勝鬨をあげた所とも、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱

(764年)で、最後の一線が繰広げられたところと伝承されている。

さらに、「万葉集」の歌枕となった所で、「大御船泊(は)ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚思ほゆ」や「思ひ

つつ来れば来かねて水尾が崎真長の浦をまたかへり見つ」など多く詠まれ、市内に6首の歌碑が立つ。

  

勝野は延喜式にも記録が残るが、若狭からの物資は勝野津から大津へ湖上運送されていた。

大津を船出した旅人は勝野津で下船、ここから陸路北陸路へ向かった。古くから交通の要衝であった。

  

勝野は往古を通じて高島の中心をなしてきた。

駅前広場から住宅の居並ぶ横の小道に入る。住宅横に残る“堀”を見やりながら進む。

間も無く草木に覆われた石垣が見える

  

大溝城説明

    

説明板によるとここが大溝城の本丸天守台であった。織田信澄が天正6年(1578)に築城した。

基底部(南北方向約30m、東西方向約25m)、上部(南北方向約30m、東西方向約15m

「織田城郭絵図面」によれば、本丸を囲む堀は洞海(乙女ケ池)を通じて琵琶湖につながり、三つの隅櫓は洞海に面した

水城であった。

    

現在残っている石垣は地元の石工たちにより積まれた野面積である、

   

大溝城が水際の城であったことがわかる。水際城の唯一の遺構でもある。

   

琵琶湖と乙女ケ池を結ぶ唯一の水門 朝方に池に入って、夕方出てゆく。

 

現在二の丸跡、三の丸跡(一部)は病院施設となり、三の丸跡の一部は分部神社宅地となっている。

織田信長は、安土城を中心とした交通、軍事のネットワークをつくり出した。坂本城は比叡山・京都に対し

大溝城は湖西・北陸に備え、長浜城は北陸・東山道の押さえとした。

 

これで信長は琵琶湖の制海権を掌握することができた。大溝城はその一端を担っていた重要な城であった。

織田信澄は天正6年(1578)、新庄(新旭町)から城を移した。

城の西側には、職人の町屋と足軽町をつくり、城の正門であった総門から本町通りとなる北側地域には

新庄や今市(新旭町)、南市(安曇川町)の聖人や職人・住民・寺などを移住させ、商家(町屋)を造った。

織田城郭絵図面

制作時期不明。本丸を囲む侍通りに21名が屋敷を構えている。

 

信澄は一門衆の中で順調に地位を上げていたが、本能寺の変が勃発。明智光秀の女婿であった信澄は

否応なく敵方とされ自害するに及んだ。

 

大溝の城主は丹羽長秀はじめ15年の間に5人も入れ替わった。

その中の、京極高次にとっては、高島は家名再興の大きな舞台となった。

  

大溝城はその後取り壊され、その部材は甲賀市の水口城に移されたと伝えられる。

水口岡山城

 

元和5年(1619)、伊勢国上野(三重県安芸郡河芸町 かわげ)から分部光信が二万石の大溝藩主として

入封した。

参考資料

  

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