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滋賀県高島市 新旭

Shinasahi,Takashima city,Shiga

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Aug.8, 2018  中山辰夫

大泉寺

高島市新旭町米井

宗派:天台宗 本尊:如意輪観世音菩薩 創建:1214(健保2)年 開基:慈恵大師良源 延暦寺の末寺

位置と説明

   

JR新旭駅の北西約1.3km、稲荷山(標高:209.1m)の東麓にある。天台宗の未寺です。平安時代末期、慈恵大師良源によって開基されたと伝えられます。

安産や縁結びの願い寺として知られる。

戦国期まで広く信仰を集めていたが、元亀の兵乱のため廃絶寸前にまで至った。

1694(元禄)7年小浜藩領主酒井忠登が本堂と庫裡を再建し、毎年4石8斗の供米を寄進して維持・保存した。

境内には、本堂・庫裏・山門などのほか、古びた四方仏塔が残っている。

山門

      

良源大師といえば元三大師

 

本堂周辺

         

四方仏塔

  

石塔

    

庫裏ほか

  

大泉寺という寺名は、現在の境内の裏200mの場所に大師産湯地(たいしうぶゆち)があり、良源の誕生のときに産湯が湧き出た、という伝説に由来している。

境内から見える竹生島や海津大崎などの湖岸景観が美しい。周囲には善林寺・慈恩寺・熊野本遺跡・熊野本古墳群などがある。

善林寺

高島市新旭熊野本

大泉寺からさほどの距離でない。道路には桜の木が並ぶ。新旭町は桜を植樹している所が多い。

 

旧熊野本は明治に辻沢村と今市村が合併してできた。高島七カ寺の一つといわれる清水寺があった。同じところに清水山城もあり、佐々木越中守、続いて越中守の子八郎が居城し、八郎は高島氏を称したといわれる。

宗派:天台宗 創立年代は明らかでない 本尊:千手観音菩薩像 

創立年代は定かでないが、熊野本の西方清水山にあった日高山清水寺(せいすいじ・天台宗高島七カ寺の一つ)が廃絶した時、清水寺の仏像をこの地に移して安置したといわれる。

本堂と周辺

       

1667(寛文7)年に造営された本堂は、1738(元文3)年2月の山崩れで堂宇が埋没し、仏像も破損したが、その後古材で再興された。

本尊−千手観音菩薩像

  

像高:164cm ヒノキ材 一木造 平安時代の作 古色に覆われている 

本尊以外に、日光月光菩薩・持国に広目・多聞・増長天諸像の七体が安置されている。いずれも平安時代の作 ヒノキ 一木造

本尊以外に、日光月光菩薩・持国に広目・多聞・増長天諸像の七体が安置されている。

石仏

   

庫裏と老人の家

   

佐々木神社

高島市新旭町今市西裾 

善林寺から少しの距離である。

1607(慶長12)年に、上田太郎右衛門尉が社殿を造営。西の山上に佐々木氏本拠の清水城があり、その祖神を祀ると伝える。

例祭では竹馬祭が行われ、馬形を竿頭の結んだものにまたがった子どもが走る。

           

境内から善林寺の老人の家が見える

 

佐々木一族時代からの流れを引き継ぐ祭り

新旭の大荒比古神社で行われる「七川祭り」は大人の祭りであるが、「今市の竹馬祭り」と「辻澤の竹馬祭り」はよちよち歩きから中学生までの子どもの祭りで、馬も約120cmの竹馬。ヤブサメ、素走りを披露する大変珍しい祭りである。

今市の竹馬祭

   

子ども達の竹馬祭り。5月1日の午前と午後の2回、ヤブサメと馬駆けが行われる。少彦名命を祭神とする佐々木神社の例祭。

「ヨーイサア−、ヨーイサア−」と集落を一回りして神社の前に着くと大将の弓の手と扇の手の奉納の跡、3回のヤブサメ。それが終わると全員の馬駆け。

竹ヤブヤネギ畑の馬場の距離は100m×が、チビッコの騎手はどうしても遅れがち。

辻沢の竹馬祭

   

辻沢の竹馬祭は、仁徳天皇を祭神とする若宮八幡宮の祭礼。

辻沢は国道161号線沿いの村。竹馬の頭は20cmほどの桐の木に彫刻してつくる。これに芋を黒く染めてタテガミと手綱をつける。

堂は竹の棒で、毎年背の高さに合わせて調節する。これを紅白の紐で首から吊るしてまたぐと立派な騎馬武者の出来上がり。5月5日が本祭である。

日吉二宮神社 (ひえにのみやじんじゃ)

高島市新旭町深溝

正伝寺から東へ400mの深溝集落の西端にある。深溝・小池・霜降・山形旧4村の氏神である。祭神: 大山咋神 元は二宮大権現といった。

この地は比叡山本荘に属する日吉神社領であった。その鎮守として勧請したもの。もとは湖辺にあったが保延年間(1135〜41)に現在地に移された。

本殿と社務所がある。

本殿

三間社流造 向拝一間 銅板葺

擬宝珠銘により、1663(寛文3)年にぞうえいされたことが分かる。湖西一帯を襲った1662(寛文2)年の大地震の直後に建てられたもの。

規模の大きい前室付。軸組や主要な部分は建築当時のまま残っている。細部に丁寧な彫刻が施され、建立時の高い技術が窺える。

宝物

本社の本地仏—木造薬師如来立像−平安後期の作 一木造・漆箔 

十禅師の本地仏−木造地蔵菩薩半跏像−平安後期の作 ヒノキの一木割矧像

木造僧形坐像3体—南北朝時代の作 一木造 彩色・漆箔で古色を呈していう

祭礼

5月1日 傘鉾行列 神輿の御旅所への渡御と神舞が奉納され。

神主饗庭氏の祖先は、饗庭庄を山門へ寄付した時に奉行としてこの地に下行した定林坊といわれる。江戸時代には宗門帳を村民とは別帳にしていたという。

宮田を支配し祭事を勤仕する六家は、当地に最初に住んだ家柄で、モロト長家衆ともいわれる。

                   

森神社

高島市新旭町1156

JR新旭から500m程の距離にある。木々の多い神社。ご神木のタブノキが目を惹く。

1385(至徳2)年大和国より勧請して産土神として奉祀、以来道祖神と称している。

鳥居。拝殿、本殿、神輿庫、牛水舎、社務所がある。森村には1835(天保6)年唐現在に至る森村喜六20冊が残る。

鳥居 1877(明治10年)建立

  

境内

    

拝殿、本殿、社務所、神輿庫がある。

「1328(至徳2)年大和国より道祖神を勧進したとある。神体は丈五寸の木像で、冠を着て右手に玉をもてり」と郡志にある。産土神として奉祀されてきた。

明治元年に現在の社号に改められた。 

拝殿

  

入母屋造 間口二間 奥行二間三尺

本殿

      

三間社流造 間口二間 奥行二間三尺 唐破風と千鳥破風をあわせ持つ少し変わった形。

1463(寛政4)年本殿再建、1808(文化5)年正面石垣及び石橋、1810(文化7)年東側石垣造営、1866(慶応2)年拝殿再建、1877(明治10)年鳥居建立とあり、屋根葺替は1871(明治4)年より10年毎に行われている。

境内社の饗庭神社−往古は佛堂として信仰されていたが、明治11年無格社に勧請された。この神社は饗庭氏の祖先を祀ったもので、饗庭大明神と称した。

末社は饗庭神社 五十鈴神社

本殿に右手に、小さな小祠・五十鈴神社(天照大神)、境内左側に、饗庭神社(貞隆親王)。

 

タブノキ クスノキ科

本殿の後の御神木 ゴトゴツした巨木である。 樹齢1200年 幹洲582cm 

    

タブノキ以外に、ケヤキ、エノキ、イチョウ、スジダイ、コロマツが植わり、いずれも樹高0mをこえるものばかり。

境内隅には、鎌倉時代の石造宝塔が道路に面して、交通安全の祈り賭して建っている。

  

220cm弱の宝塔で、基礎には格狭間のみが彫ってある。

正傳寺

高島市新旭町霜降

JR新旭駅から北東へ1.2㎞、徒歩約15分の霜降集落にある。

寺院周囲の地域は掘り抜き井戸で自然に水が湧く時の停まった様な地帯で在る。 名水には名も付けないが門前には豆腐屋があり酒蔵も並ぶ。

境内の池にも水が湧き鯉が泳ぐ。

正傳寺

  

宗派:曹洞宗:本尊:釈迦牟尼仏 保延年間(1135〜41)の草創と伝えるが、1610(慶長15)年までの約450年間は、天台・禅宗など各住職の持する宗旨を奉じた。

1610(慶長5)年永平寺19世素球禅師を開山として曹洞宗に改宗した。それ以降、永平寺直末として近江三カ寺の一つとなった。

1756(宝暦6)年村中の大工川島兵右衛門が正傳寺禅堂の建立を志願し、助金15両を寄進、大工社中は手間賃を奉加して禅堂を完成させた。

山門

    

本堂

                 

旧鬼瓦−

   

薬師堂 

           

木造薬師如来坐像 

滋賀県指定文化財 伝教大師作の三薬師の一つとされるが、1127(承安2)年大仏師有円・僧寛応の墨書があり、平安時代末の作

外に、木造不動明王立像・木像毘沙門天立像も県指定文化財

鐘楼

  

飲料用 地下水が自噴している 庫裏に隣接する小屋には「カバタ」が設けてある。もう100年位前から使われている。

 

亀ケ池

     

安曇川の伏流水が自噴している霊水 澄み切った水が境内の一角を潤す。

日吉神社

滋賀県高島市新旭町針江578

日吉神社前には針江大川が流れており、針江地区の中心に位置する。

針江地区の湧き水は、「生水」と称され、飲料水、生活用水に利用され、水田をめぐり、この針江大川を経て琵琶湖へと流れていく。

  

祭神:玉依姫命 創建:1294(永仁2)年 社蔵の宝刀銘に「石津十禅師宮天正元年癸酉二月大吉・・」とあり、かっては石津十禅師・山王十禅師とも称した。

石津重元が創建した重元山石津寺の鎮守社として石津権現を祀ったことに始まる。その後石津寺は荒廃し、波爾布神社の支配を受け「石津十禅師」と称した。なお石津寺は、現在も境内の一角に残っている。1871(明治4)年、現在の社号に改めた。

氏子区域である針江区が「生水の郷」として広く認知されるにあたり、水の女神を祀る当社の存在が見直されている。

往古より本社に社家はなく、宮総代を中心とした運営であり、神職は筆頭総代が就任し、一生涯奉仕することになっていた。

境内

   

拝殿 入母屋造 間口三間 奥行四間

    

狛犬

    

本殿 一間社流造 間口一間三尺 奥行一間ニ尺五寸

     

手水舎にも生水

  

境内社

  

石津神社

    

宝塔 市指定文化財。徳治2年(1307年)の銘がある十尺塔である。

       

板碑 - 市指定文化財。1309(延慶2)年の作と伝わる石造供養塔婆。高さ195cmのものが2つあり、2つは元は上下になっていたとされる

   

ムクノキ

   

主幹が損傷しなく2本の支幹が健在。幹周4.8m、樹高18m

藁園神社

高島市新旭藁園

藁園は正倉院文書にも「高島郡藁園」と記載される有力な村落で、藁園寺という古代寺院を建立しうる在地有力者が蟠踞していたとされる所であった。

案内

  

藁園神社は1397(応永4)年、時の代官の霊夢により霊水の辺に社殿をこんりゅうしたという。1638(寛永15)年分部・酒井・伏見当時の三領主から馬場敷地の年貢を免除された。1488(貞享2)年社殿再建。もとは杉本神社とも藁永寺ともいわれた。

境内

     

拝殿

   

入母屋造 間口二間三尺 奥行三間三尺

中門〜本殿

             

三間社流造 間口二間三尺 奥行二間三尺

末社

6月中旬 「なまず」まつり

    

1645(正保2)年、害虫駆除の祈願によって鮒の群れが現われ、害虫を食いつくしたという説と、長雨による浸水の時、神殿の浜床に上った鮒を捕獲したところ水害がおさまり、鯰を祀ったとする説がある。

以来氏子は神舞をして祭りとし「鯰祭り」といわれてきた。2018年6月、生け捕りにした鯰の前で神事が行われたとか。

太田神社 含む 絅斎書院

滋賀県 高島市新旭町太田1405

新旭駅から南東に約3.5㎞の距離に太田の集落がありその中央に太田神社がある。 太田の氏神で延喜式内社といわれる。

境内には、鳥居、拝殿、渡たり殿、本殿が直線状に南向きに配置されている。

 

祭神;大年神(大歳の神)、菅原道真

延暦(782〜806)の頃、大伴太田宿祢の子孫がこの地に移住、祖先の名を地名とし、810(弘仁元)年大伴氏の祖神天押日命を祀ったのが始まりと伝える。

1424(応永6)年沙門明了が菅原道真を勧請したとされる。

境内

          

拝殿

     

渡殿

    

本殿は覆屋の中で見えない。 細日は見える処から写した。

本殿 滋賀県指定文化財

              

三間社流造 向拝一間

棟札から本殿は1718(享保3)年に建てられた。その棟札の裏面には「故宮殿書付之写」が記され、前身の本殿が1264(文永元)年に造営されたことが判る。

全体に建設当時の状態をよく残しているとされ、良質の材料、主要部の伝統的な形式、彫刻を施した装飾性、丁寧な仕事ぶりと評価されている。

硝子燈と石灯籠

  

石灯籠の形で石組、四角の基台部、六角石柱上に設置。外側は彎曲した元来の鉄台で支えられている。石灯籠は室町時代の作

境内社

  

絅斎(けいさい)書院跡−

    

浅見絅斎(1652〜1711)は、江戸時代初期の朱子学者。絅斎は名を安正といい、1652年位太田で生まれた。父は医を家業とし、彼も医を業とした。

伊藤仁斎〜山崎闇斎の門に入り、朱子学本来の目的は、君臣・父子の大倫を明らかにするとの信念を説き、「崎門三傑」の一人に数えられた。

彼は幕府の横暴を憤り、どこへも仕官せず、孝養を尽くし、京都に「望楠軒」をつくって楠木正成の忠誠を敬い、赤穂四十七士を義士とし、門弟の教育に力を注いだ。1688(元禄元)に「靖献遺言」8巻を著した。この本は幕末の頃、天下の志士に広く読まれ、維新の原動力になった。

一般有志の寄付で、1924(大正13)年に「絅斎先生遺徳顕彰会」が書院を新築し、絅斎書院と称し、彼の零位を祀り、著書・遺品を保存している。

参考資料≪高島郡誌、滋賀の地名、滋賀県の歴史散歩、高島市資料、他≫

大善寺

滋賀県高島市新旭町新庄597

JR新旭駅から南へ1.7㎞ほど行くと新庄集落に入る。その中ほどに大善寺がある。平安初期,最澄によって開基されたと伝わる。

宗派:天台宗真盛派 本尊:大日如来像(国重要文化財) 開基:最澄 かつては熊野山のと呼ばれた丘陵地(現饗庭野)の中の堂立山にあったが、寛平年間(889〜98)に現在地に移る。七堂伽藍の整った大寺であった。

1571(元亀2)年の信長の兵火で焼失、衰微したが、新庄城主織田信澄が帰依。信澄は大溝城築城のときには、大溝城下に別院を建立した。

延宝年間(1673〜81)に火災のため、堂宇・寺記などすべてを焼失。現在の建物は、1913(大正2)年に再建された。本堂のほか、・庫裏・山門がある。

境内〜社殿

      

現在の本堂は1913(大正2)年に再建されたもの。

本尊:大日如来坐像 国重要文化財

    

平安後期の作 像高:74.5cm ヒノキ 一木造 全身に漆箔 温和な表情で優雅で美しいといわれる。

他に本尊と同時代の作で像高約90cmの木像観音菩薩立像がある。

石造宝塔

     

墓地中央に313(正和2)年に建てられた花崗岩製の宝塔。9輪の相輪のうち2輪欠く。宝塔軸部正面に、舟形の中に阿弥陀座像を肉厚に彫り出している。

新庄城

 

天正年間の初め頃に、信長の甥の織田(津田)信澄を養子にし、1576(天正4)年には「今津より北」を磯野員昌が、「今津より南」は、信澄が統治したとされる。

新庄城は、佐々木越中氏が城主であった清水山城の出城と伝えられ、戦国時代には浅見氏や多胡氏が城主であったと伝えられている。

員昌が在城していた新庄城について、明治時代の新庄村の絵図には、大善寺の東・西・北の3方に土塁や堀の痕跡と考えられる「コの字」に囲む土地割が見られ、現在も土塁が残っている。この囲まれた空間が、新庄城の中心部と推定されている。

大善寺の北側の東西に伸びる道沿いには、新庄城下の町場、東側の南北に伸びる道沿いには、武家屋敷があったことが想定され、磯野員昌によって城下町整備計画がすすめられたと推測されている。

信長は、信澄に高島郡の一郡支配を命じ、高島郡支配の拠点も新庄城から大溝城に移した。大溝城下町の建設にあたり、新庄城下から町場の移転も行われた。

参考資料≪滋賀県の地名、高島郡誌、「広報たかしま」平成22年6月号、滋賀県の歴史散歩、他≫

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