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滋賀県高島市 打下古墳

Uchioroshi Kofun,Takashima city,Shiga

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Sep. 2012 中山辰夫

■打下古墳へは、JR高嶋駅前を通る国道161号線を大津の方へ向かう。進行方向、左側に最勝寺がある。

■最勝寺

宗派:真宗大谷派 本尊:阿弥陀如来

蓮如上人が、吉崎御坊へ向かう途次、高島勝野打下から乗船、その折り地下人山田正明に一宇を建立することを指示したと伝えられている。

正明は佐々木行実の後裔で山田経豊の子と言われている。

開基は1471(文明3)年で、湖西の古刹である。山号の申請に対し、芝の増上寺から幕府に許可しないようにとの要望が提出され、琵琶湖山から琶湖山に変更し金50両を支払った経緯が最勝寺の古文書に記されている。(引用:ウイキペデイアより)

直ぐ近くに日吉神社がある。

■日吉神社

祭神:大山咋神

1107(嘉祥2)年創建の長宝寺の鎮守社として山王権現を祀ったことに始まる。後に長宝寺は廃絶、当神社は土豪高島氏の崇敬を受けて存続した。元亀3年織田信長の大溝城攻略の時焼失。のち織田信澄が社殿造営。1603(慶長8)年、豊臣秀頼の命により片桐且元が白髪神社造営の時、当社も修補させたという。

江戸時代に入り、大溝藩主分部氏の保護を受け、社頭が整備された。

■■打下古墳

高島市勝野

■2001(平成13)年、日吉神社背後の山腹で行われた打下上水道排水工事の際に、石棺が現れ、石棺内より良好な状態の人骨が発見された。

日吉神社境内横の坂道から登る。害獣除け防護柵を外して山に入る。山道からも行けるが、配水施設構内からも行ける。

■古墳と周辺

古墳の規模はさほど大きくない。景色は良好である。

■展望

打下古墳に立つと、西から東にかけて泰山寺の丘陵・饗庭の野台地・赤坂山・山本山・伊吹山・鈴鹿山脈の山並みや奥琵琶湖が望める。正に、北淡海が一望できる絶景で、陸路・湖路の要衝の地に奥津城(墓)を築いたことが分かるとされるが、木々が繁り、うまく見えなかった。乙女ケ池が眼下に美しく見えた。

■■古墳詳細

築造年代 古墳時代中期(約1500年前) 主体部 箱形石棺(棺内朱塗り)

副葬品 石棺内に鉄刀一振、鉄剣一口と鹿角(ろっかく)装具(鹿の角の形をした装具) 石棺外に鉄鏃(てつぞく)一束(約10本程度)鉄製の矢の先

●被葬者 40から60歳前後の男性

●身体特徴 小柄な人物でおそらく身長155前後

●埋葬法 仰臥伸展葬(ぎょうがしんてんそう/仰向け)

■ここで重要なことは、めったに良好な状態で出土することのない人骨が美しく検出された事である。というのも、我々の住んでいる日本列島の土壌は酸性度が強く、土中の人骨は大半が解けて土と化するからである。

今回は頭蓋骨が美しく検出されたことから、復顔が可能となった。そこで、京大片山先生による被葬者の復顔人物像。

復顔人物像の特徴を一言で言い表すと、"のっぺり"した顔。言い換えると、現代の関西圏にお住まいの中年男性に多い顔立ちと言えそう。つまり、我々の祖先(男性)であるということ。

この復顔人物像は、現在、高島歴史民俗資料館に展示されている。復顔人物像のほかにも、人骨と一緒に出土した副葬品や発見当時の資料も展示してある。

■■

被葬者が活躍していた5世紀末は、大和政権が日本列島各地域の首長を傘下に入れ、統一国家に向け始動していたころで、この被葬者も大和政権のもとで、大和(奈良県)と北陸諸国を結ぶルートの勝野の地を治めていた村長クラスとされえる。

参考資料≪滋賀県教育委員会資料、滋賀県の地理、他≫

≪参考≫

打下城

古墳からさらに一時間ほど山間を行く。

打下城は琵琶湖の制海権の一部を握っていた、林員清(與次左衛門)の城とされ、舟入りとして使用できそうな、洞海と呼ばれる乙女ケ池を眼下に望む位置にある。

中主郭は打下城の中心的な郭で、城の概要を記した案内板もたっている。

元亀年間の争乱において、信長の高島攻略の拠点となった城郭。2箇所に分かれた曲輪群により構成される。虎口には石垣を用いている。

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