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滋賀県高島市 大溝藩分部家墓所

Wakebeke bosho,Takashima city,Shiga

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Mar.2012 中山辰夫

高島市勝野

滋賀県指定史跡

分部光信は、元和5年(1619)、伊勢国上野城主から近江国大溝へ移り、大溝藩初代藩主となった。

以降、12代光謙に至るまで、約250年の間一度の国替えもなく明治4年(1871)の廃藩置県まで続いた。

大溝藩分部家墓所は園光寺境内墓所にあって、やや高台にある。

400年近く分部家累代の墓が守られている。

江戸時代を通じて一藩の歴代藩主の墓がたどれるとともに、近世墓制を考える上でも重要であり、貴重である。 

菩提寺園光寺

分部家の菩提寺である。

園光寺は、照室和尚により延文3年(1358)伊勢国中山村に建立された。以来、朝廷から荘園を、幕府から寺領を賜っていた

古い寺院であった。

後、分部光嘉が上野城主となったため上野城下に移った。

光嘉の信仰心厚く瑞雪院、光勝寺など五塔頭を寺域に持つ伽藍となった。

然し、分部家の転封のため塔頭の一部を残し大溝に移った。以来400年近く分部家累代の墓所を守って今日に至る。

山門

境内

鐘楼

本堂

分部神社

高島市勝野

元和5年(1619)大溝入封以来一貫して大溝藩主であった分部家の功績をたたえ、分部神社創建の声があがった。

明治11年(1878)官許を得た分部神社は、駅前の旧城内の一郭だった三の丸跡に建てられた。

祭神は、光嘉侯から光謙侯にいたる13世で、13面の神鏡をもって霊主に祀った。

分部氏と大溝城下

分部(わけべ)家の沿革 (大溝入封まで)

城下町建設

光信は陣屋よりも城下の整備に力を入れた。武家屋敷と町屋地区を背戸川で区切り、軍事・経済両面を備えた

近世的な城下に整備した。

大溝陣屋と武家屋敷

大溝城西に、洞湖を巧みに利用し、舟運の便も考えた陣屋を構築した。譜代の家臣は背戸川を北限として、土塁

や竹藪を巡らした区域に住まわせた。(明治初期の現形を写したもの)

大溝城下古図

本図は寛永4年(1664)の作

総門(長屋門)

桁裄九間半、入母屋造、平入、桟瓦葺、梁間二間

元和5年(1619)に建てられた大溝陣屋の中で、唯一現存する門である。

両袖に部屋のあるタイプの門で、軒先に分部家の家紋である「丸内三引」の瓦が乗る。

説明資料

藩校修身堂跡

大溝藩は財政的基盤の弱い小藩であったが、教学への関心は深く、藩校を近隣の諸藩に先駆けて

天明5年(1785)に開校した。篤学の藩士が多く全国の文人が訪れた。中江藤樹との関係も深かった。

笠井家住宅

唯一残っている武家屋敷跡 主屋桁裄七間半、梁間五間、茅葺 19世紀頃のもの

かつては大溝陣屋内(郭内)に有り、分部光信が、伊勢国上野より領地を移すにあたり

ほとんどの家臣を連れてきた。笠井家もその一つである。

参考資料≪高島町の歴史、他≫

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