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滋賀県野洲市 銅鐸美術館

Dotaku museum,Yasu city,Shiga

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June 17,2014 中山辰夫

野洲市辻町57

野洲は古くから三上山や野洲川に代表される豊かな自然に恵まれ、また交通の要衝として今日に至っている。

滋賀県野洲市はわが国有数の銅鐸出土地として知られる。銅鐸出土を記念して、銅鐸出土地近くに市立歴史民俗記念館を新設した。

一般には銅鐸博物館の名で知られる。

経緯

大戸山古墳群がある小篠原の大戸山の中腹から、1881(明治14)年に14個の銅鐸が発見された。

地元辻町村の2人の少年が大岩山へ山遊びに入った所、急な斜面に青い木の葉のようなものを見つけた。2人が竹の棒で掘って見ると、3個の銅鐸が出てきた。

翌日さらに近隣の人達により11個の銅鐸が掘り出された。「合計14個」

銅鐸は大型の銅鐸の中に、中型の銅鐸を差入れ、更に小型の銅鐸を差し入れた「入れ子」の状態になって埋まっていた。

当時の人々は、「唐金古器物 からかねこきぶつ」と記しており、銅鐸の歴史的重要性に気付く人はいなかった。

発見された銅鐸は、その後草津警察署に留め置かれ、東京国立博物館に2個が購入された。

この時の銅鐸は、地元発見者に交付されたため散逸したが、現在推定を含め12個が明らかになっている。

東京国立博物館所蔵 高さ134.7kg 重さ45.47kg 最大の銅鐸 近畿式銅鐸・三遠式銅鐸両者の銅鐸の特色を兼ね備え、最大傑作とされる。

昨年「平成25年」10月、開館5周年を記念して、1881(明治14)年発見以来140年ぶりに里帰りした。

1962(昭和37)年には、東海道新幹線建設の土取り工事が出土付近で行われ、工事現場から新たに10個の銅鐸が出土した。他に1個出土し、合計24個の銅鐸が埋納されていた。

銅鐸出土記念碑

銅鐸は約2000年前に、弥生時代に造られた青銅器で、祭りのカネとして用いられた。米作りが生活の中心となった時代に、カネを鳴らす場は、米の豊作を願い、収穫に感謝する祭であった。用いる鐘は祭りの時以外は土の中に埋め隠す風習が、中国やベトナムに今もあるといわれる。

やがて大型化、装飾化し、鳴らすものから見るものへ変化した。

その材料は、銅・錫・鉛を一定の割合で混ぜ合わせたものである。その製作過程は解かれていない。

24個からなる大岩山の銅鐸群は、湖南・湖東の拠点的なムラムラで共同の祭に用いられていた銅鐸が、ムラムラを統率する有力な首長の台頭によって弥生時代の終末に集められ、大岩山に埋納されたと考えられる。大山丘陵から平野部にかけての首長墓が連綿と続くことからも推定できる。

銅鐸の技術的な傑作を挙げる

裾の部分に2羽の水鳥の絵画(東京国立博物館2号鐸)・表面に赤色顔料を部分的に留める個人所蔵鐸・辰馬甲子資料館の三遠式銅鐸

近畿式銅鐸と三遠式銅鐸

銅鐸を記す日本最初の記録は、708(天智天皇7)年に、崇福寺を建てるための造成の際に見つかった。

大津市・石山寺の残る「石山寺縁起 巻第一」「石山寺蔵」には造成告示で見つかった状態が描かれてある。

銅鐸は他の青銅器と一緒に埋納される例はあっても、その他の共伴物の無い単独の埋納がこの種の遺跡の独自性である。そのため年代を推定する資料に欠ける。まだまだ不明点が多く、銅鐸鋳造所の発見が待たれる。

銅鐸はその後、銅鏡に移って行った。

■■大賀ハス

今年も咲き始めました。3日間の命です。

■■弥生の森歴史公園

銅鐸博物館の前面に広がる弥生の森歴史公園は、銅鐸の時代を実物大で学習することができる公園。

高床倉庫1棟、竪穴住居4棟からなる弥生のムラをはじめ、赤米を栽培する水田、古代の大賀ハスなどがみられる。

古代米の栽培や土器の野焼きなどの教室も開催している。特に、「弥生の森体験学習」では、まが玉づくりをはじめ手軽な体験メニューも用意しされている。

竪穴住居や高床倉庫・水田など

石舞台と山の神

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