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滋賀県野洲市 錦織寺

Kinshokuji,Yasu city,Shiga

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Nov. 2013 中山辰夫

創始780年という古い歴史を持つ錦織寺であるが、1694(元禄7)年、明け方に方丈より出火し、建造物は全焼し、伝来の寺宝や御朱印状もことごとく焼失した。

中には親鸞聖人の「教行信証」をはじめとする御著作や背負われていた笈などもあった。

今御影堂に奉安する御満足の御影、阿弥陀堂に奉安する霞ヶ浦御感得の阿弥陀如来像は焼失した蔵を掘り起こした所、損傷甚だしきも、無事に見つけ出されたものである。

全景

表門は県指定文化財

御影堂(みえいどう)

1701(元禄14)年の再建。滋賀県指定文化財。

本尊は「絵像」である。親鸞聖人の「満足の御影」を奉安する。浄土三部経が完成した際のお喜びの笑みが描かれている。

1881(明治14年)に勅額を拝領

柱をまたいで飾られている欄間の龍

錦織寺から安土も城山は丸見えである。信長の一向宗討伐から逃れるためにいっとき浄土宗と真宗を兼ねているとして嵐の納まりを待った。

そのため二宗兼学という看板を掲げることになり、そのため本堂の作りが他の寺院と違ったものになった。

阿弥陀堂

内陣正面 親鸞聖人が霞ヶ浦で得られた阿弥陀如来の座像が奉安されている

これが正式な名称である。

欄間は天女が降りて機を織る様子を表す。

天神護法 錦織之寺物語

天安堂

1861(文久元)年再建成就と伝え、毘沙門天を祀る。

平安末期の様式を示す毘沙門天像

二十四輩順拝図絵、ほか

≪参考≫

真宗十派

西本願寺・東本願寺・専修寺

仏光寺・興正寺・毫摂寺

誠照寺・専照寺・證誠寺

参考資料≪錦織寺、野洲郡史、錦織寺HP,他≫

 


Nov. 2009 撮影/文: 中山辰夫

野洲市中主町木部819

真宗木辺派本山

県道大津−能登川長浜線、江部の交差点から市道上屋−西河原線を湖岸の方へ約4km進むと木部の集落となる。さらに行くと兵主神社である。

錦織寺は野洲川と日野川にはさまれた平野部の中央に位置する。真宗木部派の総本山で、滋賀・福井両県で二百カ寺を包括している。

天安2年(858)、慈覚大師円仁が毘沙門天像を安置し一宇を造立、天安堂と称したのが開基とされる。

嘉禎元年(1235)親鸞聖人が関東から京都への帰路、阿弥陀仏を安置し念仏道場が作られ、真宗になった。

以後、浄土真宗の湖東における中心寺になった。

錦織寺の名前は、暦年2年(1239)天女が織ったという錦を天皇家に献上した際、「天神護法錦織之寺」の寺号と勅額を賜った。

社殿は、度々火災で焼けたが、その都度復興された。近世では徳川幕府の外護もあって寺運は隆盛した。

伽藍は天正年間に焼失、元禄7年(1694)にも阿弥陀堂・大師堂・天安堂などを焼失。

元禄14年(1704)には、桂昌院の帰依を受けて御影堂(県指定文化財)を再建したのをはじめ、享保20年(1735)に閑院宮より旧御殿の寄進を受け大広間とし、寛延元年(1748)に釣鐘堂・玄関・台所宝暦12年(1762)に親鸞の御廟、天保2年(1831)に阿弥陀堂などが再建された。

寺域は約1万3,600㎡と広大で、ほぼ南面する。表門(一の門)、二の門を開き、正面に御影堂(大師堂)を配し、西方に講堂、書院がある。

御影堂の東には阿弥陀堂、天安堂がそれぞれ渡り廊下でつながれている。

がっしりした山門が左右に築地塀を伸ばす。美しい曲線を描く屋根には鬼の瓦が四方を守っている。

境内一杯に阿弥陀堂・御影堂といった江戸期造立の大堂や宝蔵・書院・講堂・鐘楼などがずらりと並び、本山としての威厳を保っている。

書院の庭の五つの岩と、本堂の破風が美しく、その奥に木石の調和が見事な池泉回遊式の庭園がある。

主な建物:表門、二の門、御影堂、講堂、書院、阿弥陀堂、天安堂、鐘楼、鼓堂

表門

県重要文化財:建造物;指定 1996・03・29

一間薬医門、切妻造、本瓦葺、左右袖塀付、本瓦葺 附:棟札 1枚 18世紀前期

中規模の薬医門で、方立下部の根継ぎ以外には改修の痕跡が無く当初材を残している。木材も総ケヤキで、全体にきれいな外観をしている。

桁行の柱間を三等分して四本の男梁を架渡し、男梁先端に絵様肘木を組んで紅梁と桁を受けるという見ごたえのある構造をもつ。

規模は小さいが全体としてはよくまとまった重厚な建築物とみなされている。

建築年代は元禄7年(1694)大火後の再建で、享保頃(1716)までには完成していたとされる。

ただし御影堂とは異質な面をもつところから大工の系統は両者同一でないとされる。

目下工事中でした。再度取り直します。

二の門

御影堂

県重要文化財:建造物;指定 1996・03・29

桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺、両側面後端間及び背面一間通り庇附属、桟瓦葺 附:棟札 4枚

本体部分を総円柱にする七間堂である。

梁間前方の三間分を外陣に、後方二間分を内陣・両余間に分ける。

内外陣は、長押を段々にせり上げ中心性を強調し、各間に彫刻欄間をはめ込んですべてを金箔押しとして華麗に仕上げている。

外陣紅梁(元禄・二種類)と内陣紅梁(19世紀中期)の比較も面白い。

建立年代については、元禄7年焼失後まもなく再建したとされる。

大工棟梁は京在住の鈴木助三郎とされる。

阿弥陀堂

天保2年(1831)再建された

天安堂

文久元年(1861)再建成就と伝わる。

御廟

親鸞聖人、お歴代住職、そして御門徒の納骨堂

笈のかけ松

書院前にある。親鸞が天安堂に逗留したおり、当寺の松の枝に笈をかけたことに由来する。一世の松は元禄年間(1688〜1704)の火災で枯死

二世の老松も先年枯れてしまい、今は切り株のみ残っている。

東山御殿・小書院

東山天皇が使用された御殿を移したものと伝え、入母屋造・桧皮葺の風格ある書院造である。宮中の記録に残る貴重なもの。

手水舎

文久元年(1861)建立

鐘楼

寛延元年(1748)建造 屋根のそりが美しい

大玄関

文久元年(1861)の建造物

欄間・他

藤塚

庭園

木石の調和が美しい池泉回遊式庭園である。江戸初期の作。

北に枯滝・三尊の石組があり、中島には石橋が架けてあり、南に亭がある。こじんまりとしているけれども、江戸初期の様式を伝える。

参考資料:【野洲町史通史編】【歴史と文化 近江】【錦織寺】【野洲市教育委員会】【野洲町物語】【中主の文化財】より抜粋

 

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