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滋賀県野洲市 御上神社
Mikamijinja,Yasu city,Shiga

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野洲市三上838 御上神社摂社若宮神社本殿 重文 近世以前/神社 鎌倉後期 鎌倉後期 一間社流造、檜皮葺 19310119
野洲市三上838 御上神社拝殿 重文 近世以前/神社 鎌倉後期 鎌倉後期 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺 18990405
野洲市三上838 御上神社本殿 国宝 近世以前/神社 鎌倉後期 鎌倉後期 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺 厨子1基 18990405 19521122
野洲市三上838 御上神社楼門 重文 近世以前/神社 鎌倉後期 鎌倉後期 三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺 18990405

January 14,2018 大野木康夫 source movie


雪の朝の風景

 

参道

  

楼門(重要文化財)

               

拝殿へ

  

拝殿(重要文化財)

雪囲いされていました。

              

本殿へ

   

本殿(国宝)

                                    

摂社若宮神社本殿(重要文化財)

       

摂社三宮神社本殿(滋賀県指定文化財)

   


March 1,2014 大野木康夫 source movie

鳥居及び参道

 

楼門

                         

拝殿

              

本殿

                               

摂社若宮神社本殿

                 




Dec.2011 瀧山幸伸 source movie

A camera
                                                                            

B camera
                                                                       


Oct.2011 大野木康夫 source movie

所在地 滋賀県野洲市三上838

2011.3.13撮影 

御上神社は野洲市の南東部、国道8号線が野洲川を渡る橋の北側、三上山の西麓にあります。
広い駐車場も完備していますが、休日は三上山に登る人の車でかなり一杯になります。

  

楼門(重要文化財)

鎌倉時代後期の建築
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺

駐車場から参道を進むと見えてきます。

                

拝殿(重要文化財)

鎌倉時代後期の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺

正面にはテントが立っていて、撮影が難しいです。

                

摂社若宮神社本殿(重要文化財)

鎌倉時代後期の建築
一間社流造、檜皮葺

本殿の左手にあります。

        

本殿(国宝)

鎌倉時代後期の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺

本殿は様式手法上より鎌倉時代の建立と推定される。
方三間屋根入母屋造で隅にのみ舟肘木をつけた比較的單純なものであるが、神社建築のうちでは古い遺構の一つで入母屋造であるのも比較的類例の少ない点文化史的意義が深い。
(国指定文化財等データベースより)

近年改修され、優美な姿を見せています。

                      

交通が便利なところにあり、何度も訪れましたが、いつも鎌倉時代の建築群の雰囲気に圧倒されます。




Nov.2010 撮影/文:中山辰夫

御上神社 ずいき祭り 

野洲市野洲町三上838

国選択無形民俗文化財
御上神社は、秀麗な山容と俵藤太秀郷の百足退治の伝説で有名な三上山を神体山とする、近江を代表する古社の一つである。
祭神は天照大神の孫、天之御影神(あめのみかげのかみ)で、歴代の天皇や貴族。源頼朝・足利尊氏などの崇敬が厚かった。
国宝の本殿、重要文化財の拝殿・楼門・摂社・若宮神社本殿などの優れた社殿が緑濃い木立に囲まれて建ち並んでいる。
        

ずいき祭りは、毎年10月第2月曜に五穀豊穣を感謝して行なわれる秋祭で、ずいき(里芋の茎)などで5基の御輿をつくる。
ずいき祭りは450年以上も続いており、平成17年2月に国の無形民俗文化財に指定され、伝統行事として引き継がれている。
もともと相撲御神事であるが、近年ずいき御輿が有名になって、ずいき祭りと通称されるようになった。

450年以上の伝統をもつ宮座制度、またずいきの茎による見事な美術品といえる「ずいき御輿」に代表される「三上のずいき祭り」は全国に類を見ない貴重な祭りとして、地元の「ずいき祭保存会」によって連綿と引継がれている。
各集落でつくられたずいき御輿は、集落内から本参道を通り、境内でお祓いを受けた後、拝殿に並べられ、本殿と拝殿で祭儀が執り行われる。
神輿は夕方5時ごろ芝原式が始まる前に拝殿から降ろし、楼門内側に展示される。
                        

ずいき神輿について
準備は一年前からスタートする。御輿一基に400〜500本のずいきが必要である。長さ・太さ・色合い・傷なし・揃いなどから選別される。育てるのに
一苦労である。
           

かざりはアヤメ、モミジ、キクである。
    

土俵と角力猿
御輿の上には土俵が作られ、角力猿が置かれる。土俵は、ビニールを敷き、白砂を引いた上に栗を俵に見立てて、丸く並べ手土俵とする。ずいきで作った四本柱・鳥居をおく。
木造相撲人形は、鎌倉時代の作で県指定有形文化財である。 
高さは行司:29.4cm、力士23.9cm 行事と組み合う力士からなり、他に類例を見ない像である。
行事は力士よりやや大きく作られ、神像風に表現される。ともにヒノキの一木造である。
相撲神事の姿を表した最古の彫像で、御上神社で古くから相撲神事が行なわれていたことを示す。
角力猿(すもうさる)は、木彫りの小さな人形で、高さ4.7〜7・3cmである。
ずいき御輿の正面の飾り棚に飾られる。御上神社の神使である猿が相撲をとる姿をあらわし、行司・組み合う力士・脇侍二匹の4点1組からなる。
各座のものがあり、1組ずつ箱に収められ、計6組ある。
木彫りの角力猿を作る以前に用いられていた角力猿が1組神社に残されている。
粘土で形をつくり、素焼きし、絵の具で彩色した土人形で、4点1組からなる。
        

芝原式
芝原式は祭りの夜、楼門前で行なわれる。このとき、猿田彦が登場する。猿田彦の面を付けた宮仕が、神と人間との間を神になって、木鉾を持って登場し神事芸能をする。
   

芝原式が終わると、力士が出て相撲をとり、祭りは終了となる。

「ずいき祭り」の名称
「ずいき祭り」と称される秋祭りは、御上神社の摂社であり地主神とされる若宮神社の祭礼で、その主たる行事は相撲であった。
それ故「若宮大明神相撲御神事」と記録に残っている。
大正13年実施の官幣神社調査では、「そうもくとも云ひ、相撲の字を当つ。相撲御神事、秋の御神事とも云えり」とあった、一般的に「そうもく祭」呼ばれていた。
今では、対外的には「ずいき祭り」が一般的で、この祭りの華やかな部分が、芋茎(ずいき)を核につくられた神輿によるためで、その呼称も近年になってからとされる。
大正13年の「官国幣社特殊神事調」にも、今日とほぼ同じ姿のずいき御輿の写真が掲載され「芋茎神事」と記されている。
「ずいき祭り」は神霊を奉ずる御輿ではなく、秋の収穫を神に献じる神饌を、風流の一貫として、神輿型に盛った菓子盛であった。

近畿地方における「ずいき祭り」
滋賀県下に二ヶ所。青物によって作られる御輿が現存している。
湖北町速水伊豆神社の「青物御輿」と守山市水俣町樹下神社の「ずいき祭り」である。
  
ずいき御輿として最も有名なのは、京都北野天満宮に奉納する10月4日の行事である。
社伝では、西の京の神人たちが、自作した豆穀・果実などに草花を飾り付けてお供えし、五穀豊穣を祈祷したのに始まる。応仁の乱で途絶えたが、慶長年間(1596〜1615)に御輿型にしたとされる。
北の天満宮のずいき御輿は、四方千木型の木枠に、屋根を里芋の茎であるずいきで二段に葺き、唐破風・柱・鳥居・勾欄などは麦藁を伸ばして紋様を作って飾り、赤唐辛子・赤茄子などを多数下げて瓔珞とする。
また四面には伝説や英雄の武勇伝などを製作して意匠を凝らしている。
御輿は北野社の神霊が渡御される御旅所に飾られる。
 

参考資料《三上のずいきまつり、パンフレット、祭礼行事、他》




Sep. 2009 撮影/文:中山辰夫
 
御上神社
野洲市三上838
主祭神:天之御影命 例祭:五月十四日

神々しい三上山の西麓、国道8号線に沿う広大な森の中にある。旧貨幣中社である。
神社を取り巻く参道だけでも大変な距離で、その途中にはひときわ大きな鳥居が数箇所建っている。

          

孝霊天皇の6年、三上山の山上に降った天之御影命(あめのみかげ)を祀って創建されたという。
養老2年(718)社殿が整えられ、元慶2年(878)神階正一位を賜ったことが社伝にある。延喜式神名帳にも名を残している。
中世以降は武神として尊崇を集め、木曾義仲の神馬の奉納、源頼朝や足利尊氏の社領寄進が伝えられる。
社殿の修造営も近江守護の佐々木氏や豊臣秀吉などによって行われた。
織田信長の焼討ちの時、比叡山と東光寺(妙光山寺にあった立派な寺)とこの御上神社が相対して戦った。
結果、比叡山、東光寺は焼けたが御上神社だけが残った。
ここは、火の神様で風の向きが変わったからだと古老が伝える。
一つの大規模な建造物の存在は、大工・葺師・鍛冶職・石工・左官・木挽(こびき)など、様々な専門技術と緻密な設計が求められる。
ここの神社の楼門、本殿を仰ぐ時、土地の環境に似つかわしく、かつ精緻に設計された、すぐれた技術が使われていることがわかる。
裏口の鳥居をくぐると祭礼馬場道と称される幅広な長い参道となる。
樹木に挟まれた薄暗い参道が蜿蜒と続く。神社の広さに圧倒される。
表鳥居を過ぎ、深い木立の参道をすすみ楼門をくぐると、吹き抜けの拝殿があり、その後ろに立派な構えの本殿がある。
その左右に摂社の若宮神宮本殿と三宮社本殿が建つ。
これらの建物は国宝及び国の重要文化財である。社宝として木造狛犬1対がある。
拝殿、本殿以外の主な建物:楼門、神饌所、社務所、斎館、参集所、宝物庫、神輿庫、休憩所、手水舎 

                 

楼門
1365:建築
国重要文化財:建造物:指定 1899・04・05
三間一戸(間口三間、扉口一)楼門、入母屋造、檜皮葺
楼門は二階建ての門だが、腰組で廻縁を支え、屋根は一重であって、屋根が上下二重になっている二重門とは区別される。
平安時代は神仏習合の思想が特に発展し、神社にも楼門が建てられるようになったと考えられるが、現在では鎌倉時代以降のものしか残存していない。
この門は上層間斗束裏面に「かうあん五年きのみのとし」の墨書があり、乙巳は康安5年(1365)に当たり、各部の形式も当時のものとみられている。
楼門としては最も普遍的な、三間一戸楼門で、全体は和様であるが、上層の頭貫(かしらぬき)に木鼻(きばな)をつけたのは禅宗様細部が混用されている。
楼門の上層三手先組物に尾垂木がないのは珍しい形式である。
森厳で豪壮な姿である。
斗?は上下層とも三手先の和様、全体的によく均整が取れている。
近畿圏の数ある楼門の中でも全体の均整が良く取れており白眉とされている。
上層の軒は軽やかに深く伸び、それを二重繁?木、三手先で受けている。
深い軒庇の作り出す陰影には、神域全体の静寂を集めているようである。
昭和10年代までは、通常この楼門より内は清浄な区域として入れず、世俗の場と分ける数段の石垣が左右に積まれていた。

                      

拝殿
1332:建築
国重要文化財:建造物:指定 1899・04・05 鎌倉時代
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
向拝を除けば本殿と近似している。かつて朱が施されていたようで、所々のその痕跡をとどめている。また、周囲に羽目板がはめ込まれていた溝が柱に残されている。
四方を吹放しとし、内部の天井は2本の大紅梁を渡して、その中央を竿縁天井としている。
屋根の勾配がゆるく、一間のびのびとした軽快な感じをうける。
鎌倉時代の建築で、今から約800年前に本殿として造られたもので今の本殿が造られた時、拝殿として今の位置に造り替えられた。
軒廻りの梁を支える舟肘木(ひじき)の木取り(用材のきり方)の線は柔らく、屋根全体の流麗な勾配などから、建築年代は本殿をかなりさかのぼる平安時代末と推定される。
大きさは勿論本殿と同じで、屋根が優美。天井は、船の底をひっくり返した様で船底天井といわれている。

      

本殿
国宝:建造物:指定 1899・04・05 鎌倉時代
1332:建築
桁行三間、梁間三間、一重、檜皮葺、入母屋造、向拝一間、檜皮葺
仏堂建築の影響を受けて、平安時代から鎌倉時代初期にあらわれた神社建築様式の一つで、最古のものである。
ここまでは拝殿と全く同じ造りである。拝殿との違いは柱間に壁があること、向拝縋がついていること、床が拝殿より高いことである。
本殿と拝殿が、これほどまで共通した点が多いのは稀である。
本殿の母屋(家屋の中心となる部屋)一間四方を神座とし、左右に狛犬をおく。
本殿を外部から拝すると三上山のように優しく感じるが、内部の神座(内陣)四隅の柱は太く、長押(なげし),框(かまち)などの木割りは大きく、鎌倉時代の剛健な特色にあふれている。
本殿の屋根には、千木(ちぎ)、堅魚木(かつおぎ)を載せ、連子窓を配して、外部からの光線を採り、通風の役割をももたせている。
外部周り縁には高欄を巡らし、縄弛み(たるみ)という自然の勾配をもたせている。
この縁を受ける縁束(えんずか)の礎石には、見事な蓮弁が彫られており、東南隅礎石側面に「建武4年(1337)」の刻銘がある。
便宜上本殿と呼称してきたが、御上神社では古来から「宝殿」と称してきた。
北側(裏)に扉を設け、三上山に在る神ともども二重に拝する様式といえる。
現在の社殿の方向は三上山とすこしずれている。
応仁文明(1467~1487)の大乱により破壊された社殿の大修理(応仁文明(1467~1487))や天文15年(1550)の野州川氾濫による被害時の修復・整備に見られるように、地域内に形成していた大工・石工・鍛冶などの諸職の技術集団や社家、諸名主を中心に三上荘各部落の村人達
の厚い信仰心によって中世の御上神社は支えられていた。
その信仰心は今に引き継がれている。

                                

摂社若宮神社本殿
1332:建築
国重要文化財:建造物:指定 1931・01・19
一間社流造、檜皮葺
本殿に向かって左側にある。鎌倉時代末期の建築物。
前流れの屋根が曲線形に長くのびて向拝となっている。母屋の柱は丸柱、向拝は面取りした角柱で柱の上に舟肘木をのせる。
床下に浜床(土台の高さに張る床)、階段上には母屋床をはる。向拝に見事なつくりの蛙股が配されている。
若宮社と本殿を挟んで立つ摂社三宮神社本殿も一間社流造で、室町時代の造立であろう。
本殿も、これと同じ形式のものである。
流れ造りの代表例は、京都上賀茂・下鴨神社本殿であるが、神社建築の本殿はこの様式が多く、野洲町も神社指定建築18件の内、8件までがこの様式である。

        

摂社三宮神社本殿
一間社流造、檜皮葺
若宮神社本殿と殆ど同じ造りのように思えた。

          

国重要文化財:彫刻:指定 12909・04・05
狛犬
鎌倉時代の作
全身に金箔がほどこされ、その形が大きく、大宝神社の狛犬と同じく、国内の狛犬彫像のうちで白眉とされる。
狛犬は神殿の左右にあって、神の守護を果たすものである。
この狛犬の場合、うつむき加減の形態や憂いを感じさせる眼の表現は、写実ながらも印象的である、平安末の制作といわれている。

 

・・・・・・・・・・・・・・以降は《平成18年6月、野洲教育委員会現地説明会資料より抜粋したものです》
御上神社の境内の変化

      

本堂屋根保存修理経過
平成16年11月に楼門から工事に着手した。内容は本殿、拝殿、楼門、摂社若宮神社本殿の屋根葺替修理である。
この事業は、国庫補助および県費・市費補助を受けた保存修理事業で、滋賀県教育委員会が御上神社より事業を受託して実施した。
この4棟のうち本殿・拝殿・楼門の3棟は、明治32年に国の文化財の指定を受け、翌明治33年から35年にかけて、根本的な修理である「解体修理」が行われた。
その後、昭和6年~11年、昭和43年の2回の屋根葺替修理を受けており、今回の修理が解体修理後3回目の屋根葺替修理となる。
摂津若宮神社本殿は昭和5年に解体修理が行われ、翌年国の文化財指定を受けている。
その後、昭和43年に屋根葺替修理を受け、今回の修理が解体修理後2回目の屋根葺替修理となる。
*平成18年6月、御上神社で行なわれた現地説明会の際、撮影したものと「近江八幡の歴史」より抜粋したものです。

             

檜皮葺(ひわだぶき)について
檜皮葺とは、読んで字のごとく檜(ひのき)の皮を使って屋根を葺くもので、古来より用いられてきた伝統的な工法で、7世紀後半にはすでに文献に記録が出ています。
檜皮葺の屋根を完成させるためには、@檜から檜皮を採取する、A採取した皮を拵える(整形する)、B拵えた皮を葺く、といった作業が行なわれます。
各工程は次のようになります。

@ 檜から檜皮を採取する
50~60年ぐらいまで成長した檜の生木から採取します。
採取時期は秋から冬場、木の中の水分の動きが少ない時期に行なわれます。
皮は立ったままの木から剥ぎ取ります。
木の根元部分からヘラを差し込み、下から順次剥ぎ取っていきます。
高いところはロープで体を固定しながらの作業となり、非常に危険で冒険に近い作業です。
一度採取された檜が元にもどるには7~8年掛かります。

A採取した皮を拵える(整形する)
採取した皮はぶ厚く、そのままでは屋根に葺くことができません。
そこで檜皮包丁(ひわだぼうちょう)を使い、荒れた部分や節を取り除き、厚さ・形状を整える必要があります。
また、各部分で使われる皮の大きさを揃えるために、平皮を2~3枚使い、檜皮包丁の先端の尖った部分でコツコツたたいて上の皮が下の皮に食い込むことで1枚の皮になるよう、さらに整形されます。
この作業を「綴る(つづる)」といいます。
檜皮を整形する作業は、非常に地味なもので、屋根に上がり「葺く」作業よりも5倍の手間がかかると言われています。

A 拵えた皮を葺く
檜皮葺を行うには、大きく分けて「葺く」の技術と「積む」の技術が使われます。
「葺く」技術は、屋根面を檜皮で覆っていく技術です。
最も多く使用される平葺皮は、一般的なもので長さ75cm、巾は先端で15cm程度の細長い台形をしています。
先ず皮を水に濡らし1枚1枚敷き並べます。
1段毎に1.2cmずつづらしながら重ねて葺き上がり、4段重ねる毎に竹釘を2cm程度の間隔で打ち付けます。
この時、檜皮葺用の金槌(かなづち)を使用します。
1枚75cmの長さの皮を1.2cmずつづらしながら葺くので62.5枚重なることとなります。
厚さにすると約9cmの葺厚となります。

「積む」技術は軒先(軒付)や棟の部分(品軒付)に用いる技術です。
積むために用いる皮は、軒付皮と呼ばれています。軒付皮を厚さ2.4cm、巾15cm程度に重ねたものを、一つの単位(一手)として、充分水に浸し、土台となる裏板の上に積み、竹釘で打ち締めます。
軒付皮を積む時には、一手ずつが一体になるように横部分を充分に摺り合せながら、差し込むようにして所定の高さまで積み上げます。
積み終わると外側に面して見える部分を釿(ちょうな)で所定の角度になるよう切り揃えます。
この両方の技術に共通して特殊な技術があります。 竹釘を片手で打つ技術です。
先ず20~40本の竹釘を口に含みます。
竹釘を一本ずつ舌を使って頭が平らになっている方を先にして口から出しくわえます。
金槌を握っている手でこの釘を掴み、金槌の柄についている金属の部分を使って、檜皮に突き刺し、今度は金槌の頭を使って、完全に打ち締めます。
この間、空いている手は檜皮がずれないように押さえています。

滋賀県は全国的に見て、檜皮葺の建物が多い県です。
県内の石造・鳥居など屋根を持たない建造物を除く国・県指定の文化財は283棟ですが、その内約半数に当たる136棟(48%)が檜皮葺の建物となっています。
最近は檜皮葺に用いる檜皮の入手が困難となっています。
一度採取した檜は次に取れるまで7~8年掛かります。
技術者不足よりも材料探しに時間がかかると業者さんが嘆いておられました。

参考資料:[野洲町史]:[歴史と文化 近江]:[滋賀県神社誌]:[滋賀県の歴史散歩]:[野洲市教育委員会]より抜粋



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