滋賀県野洲市 二之宮神社
Ninomiyajinja,Yasu city,Shiga
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June 30,2014 中山辰夫
野洲市西河原55
祭神:天児屋根命と経津主命
神社横の親水公園
二之宮神社は、野洲市中主西河原字宮ノ内に所在する、西河原区の鎮守である。
社伝によると、欽明天皇の世に鎮座し、718(養老2)年に初めて社殿を造営したと伝える。
最澄が建立した仏性寺の鎮守神とされ、一帯の産土神となった。1186(文治2)年源頼朝が社殿を修造し社領を寄進、その後兵火にあったが足利尊氏が旧に復したとある。社名は兵主神社二十一社の第二の社であることに由来するとの説がある。
現在は、(式内)兵主神社の末社で、境内には明治に合祀された天皇社、上ノ道三神、天満宮の三社、それに小安神社、大神宮、愛宕神社と建久年中(1190〜1199)に比留田より移ってきたという(式内)比利田神社が鎮座している。
二之宮神社の社家は日子坐王命の末裔と伝える馬場氏で、元亀の頃馬場伊代入道義久は織田信長に組し、守山城在番役を勤めた。義久の孫、義明の時帰農して西河原に代々住するという。
境内を縦横に走る水路と築山、庭園の原型を示すとされる。平安時代の造形である。
拝殿
本殿
境内
もともとは、境内は琵琶湖の内湖・野田沼に接していたとされる。
境内地(11,280㎡)の北東から西側にかけての複雑な溝状遺構に最初に注目されたのは、庭園文化研究所所長(故)村岡先生であった。
先生は、県下の未指定庭園調査の成果報告である『滋賀の庭園』第三集(昭和60年)において、「…樹林地の地形にかなりの起伏があり、流れがあって小さな中島も認められる。…現状でははっきりしないが、案外古い遣水跡かも知れない。」と指摘され、その後も『滋賀の美−庭−』(京都新聞社、昭和60年)に紹介されるなど、衆目より古式の庭園として注目されることとなった。
これを受け市教育委員会では、境内の測量・試掘調査を、昭和62年に実施した。この結果、護岸に粘土を敷いて貼床とし、10cm前後の河原石や割石を不規則に貼った、遣水状の溝、直径七m余の円島、一辺6m余の隅丸方島、それに貼り石を伴わない複雑な溝などの遺構が発見されるに至った。
出土遺物は、土師器の皿類がほとんどで、その年代は粘土の貼床層の下層で12世紀〜14世紀前半、上層で14世紀後半〜16世紀を中心に出土した。
遺構の性格は、円島・隅丸方島が経塚や火葬塚といったものである可能性もあるが、これに続く曲水の溝が、社殿の方位と一致し、遺物に日常雑器ではなく皿類が多いなど、鑑賞ばかりでなく、神社祭祀とも深く係わる庭園であったことを示すものといえる。
本境内は、一般的な庭園とも全く趣が異なるものであり、日本庭園史上に新たな庭園遺構の存在を提示するものとして貴重である。(社頭掲示板)
参考資料≪中主町史、滋賀県の地名、他≫
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