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静岡県河津町  河津八幡宮

Kawazuhachimangu,Kawazu Town,Shizuoka

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Feb.13,2026 柚原君子

河津八幡宮

河津八幡神社(曽我兄弟の父・河津三郎の館跡)
所在地;静岡県賀茂郡河津町谷津375
祭神:品陀和気命(応神天皇)
河津三郎祐泰
曽我兄弟(曽我十郎祐成、曽我五郎時致)


河津八幡神社に掲げられていた由緒版

『日本三大仇討の一つに数えられているのが曽我兄弟の仇討ちで、『曽我兄弟の像』は討ち入り当夜の兄弟の姿を表したものです。曽我兄弟は兄を十郎佑成、弟を五郎時致といい、ここ河津で生まれたと伝えられています。事件の発端は兄弟の祖父伊藤祐親と叔父工藤佑経の所領争いにあります。兄弟の父は河津三郎と称し河津の領主でここ谷津館の内に住んでいたと伝えられています。

河津三郎は安元二年(1176)十月、奥野(伊東市)での巻狩の帰途、赤沢の地で工藤祐経の部下、八幡三郎と大見小藤太に射殺され非業の死をとげました。

兄弟は、父の死後母の再婚により相州曽我村(小田原市)に移り住み曽我を名乗ることになりました。

建久四年(1193)五月、源頼朝が富士の裾野で巻狩を催しました。兄弟は親の仇である工藤祐経の陣屋に夜半に討ち入り見事本懐をとげました。しかし、十郎は討死、五郎は捕えられ、翌日処刑されました。兄二十二歳、弟二十歳であったと言われています。

この事件は全国津々浦々に広まり、後世の「曽我物語」となりました。
舞曲・謡曲・歌舞伎・浄瑠璃などの世界にも波及し「曽我物」と呼ばれています。


河津三郎は相撲の名手でもあり、相撲四十八手の一つ「河津掛け」の考案者とも伝えられています。
日夜相撲の鍛錬に用いたと伝えられる『手玉石』が、ここ河津八幡神社に残されています。鍛錬の様子は河津出身の彫刻家後藤白童氏作の像『河津三郎力石』でうかがうことができます。なお、題字は昭和の名横綱双葉山の書です。 平成十七年十月』原文のまま


河津川の桜並木を堪能したあと、海に出る二つ手前の「館橋」を渡って左に折れてしばらく行くと右側に見えてくる。

道路からだいぶ奥に鳥居が見える。

鳥居の左側に曽我兄弟の父である河津三郎が力石を持ち上げている像がある。

力試しに使った手玉石が像の前に置かれている。手玉に取る、はここから来ている。軽く手玉に取るなどと使用。
また、河津三郎は相撲四十八手の一つ「河津掛け」の考案者であると云われている。河津掛けとは、自分の右(左)足を相手の左(右)足の内側に掛け、跳ね上げながら同時に相手の首などを抱え込んで体を反って後ろに倒して勝ちに持ち込む技。同時に倒れても必ず相手の体の方が下になる技。ただし柔道においては、同じような所作は危険とみなされて禁止されている。

第34代横綱男女川(みなのがわ)と大関前田山が、昭和初期の河津巡業の時にこの力石を胸の高さまで持ち上げたと伝えられている。石の重さは約320kg


鳥居の右側には曽我兄弟仇討ちの像。仇討に相応しい勢いのある象である。もともとは河津駅前にあったが2025年に境内に移されて、親子が同じ境内で対面。仇討の時に名乗ったのは「曽我に非ず河津の子」と河津一族の血を名乗っている。


本殿の扁額の年代は大正時代。本殿建設時期は不明。海に出て海側最後の橋を渡った左方面に称念寺があるが、もともとはこの谷津館内に庵としてあったもの。1561(永禄4)年、山崩れに合い称念庵は現在称念寺のある場所に移動したので、河津三郎の位牌は称念寺にある。

本殿の横には二つの慰霊墓。河津三郎祐泰夫妻。背後にたわわに夏ミカンが実って人の訪ずれない暗い境内にわずかの明るさを足していた。

河津三郎の館跡を示すように、隣の峰地区には砦跡・小土倉(米蔵)・どんばね(馬場)などの地名が残っている。



                   

 

 

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