静岡県静岡市清見寺
seikenji,Shizuoka City,Shizuoka
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June 2,2019 野崎順次 source movie
静岡市清水区興津清見寺町418-1
臨済宗妙心寺派
巨鼇山(こごうさん)清見寺(せいけんじ)
寺伝では奈良時代の創建と伝える。鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。また、その頃、徳川家康は今川氏に人質としてあったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩?峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している。
江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。また庭園も国の名勝に指定されている。
また、駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている。なお、寺の境内を東海道本線の線路が横切っている。
(ウィキペディア「清見寺」より)
現地説明板とパンフレット
国史跡 朝鮮通信使遺跡清見寺
慶長12年(1607年)以来、清見寺は東海道を往還した歴代朝鮮通信使の、宿泊や供応を行った関係から、通信使や随員たちの書蹟や絵画など、歴史資料が多数保存されている
総門から山門へ
坂を上ると総門がある。「東海名區」の扁額は、朝鮮人錦谷居士筆によるもの。東海道本線を跨ぐ橋を通って伽藍に至る。
市文 山門 慶安四年(1651)
彫刻は左甚五郎の弟子の作とか。
山門前後の記念碑や石塔、そして庫裡の方へ向かう。
鐘楼 梵鐘(県文)は正和三年(1314)鋳造、豊臣秀吉が伊豆韮山城攻伐の際、陣用に供した。
大玄関 元和二年(1616)、血天井だそうだ。気がつかなかった。
本堂(大方丈) 文政年間(1804ー30)改築
間口十一間、奥行九間半
庫裡の玄関、潮音閣2階、庫裏の1階に戻り、本堂方向へ
本堂内部、正面に琉球王子の「永世孝亮」の額、両脇の壁面には朝鮮通信使の詩文を飾る。
0091 - 0106
月島丸遭難者油絵肖像画額
月島丸(1519トン)は東京高等商船学校の練習船で、明治33年11月13日室蘭から清水に向かう途中で消息を絶ち、その後、駿河湾内で沈没したと推定された。学生79人を含む乗組員122名全員が亡くなった。
大玄関内部
徳川家康公手習いの間
国史跡 清見寺庭園 江戸時代中期 池泉鑑賞式
東海道名所図会に、清見寺のことを記して、
「(中略)書院の庭中には、九段に落つる飛泉あり。これを九曲泉となづく。庭の前の牛石・虎石・亀石は、其形によって銘ずるなり。(下略)」
とあって、寛政頃の本庭の一部のことが述べられているが、いずれにしても本庭は様式上からも凹字式の池庭であり、全庭三百十坪の本庭は方丈と書院の前庭となり、池庭は鑑賞式で、二橋が架けられている。方丈前庭は白砂敷となり、全庭にソテツが繁茂していて、その他の刈込物の植栽と共に景観豊かであるが、ただ石組などに傑出したものがない。〇〇庵泉石在銘の石燈籠があって、文化元年に東都の作庭家泉石が本庭の修理をしたことが考えられる。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」清見寺庭園より)
細かく鑑賞する。
市文 書院
仏殿 天保十三年(1844)
間口七間、奥行十間、重層入母屋造、瓦葺
聖観世音菩薩銅像、昭和十三年、北村西望作
五百羅漢石像 天明八年(1788)
帰途、東海道本線越しの全景、清見ヶ関跡
Dec.2018 瀧山幸伸 source movie
Feb.2015 瀧山幸伸 source movie
Dec.2008 高橋久美子
Feb.2007 瀧山幸伸 source movie
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