「こけし印ハムソーセージ」 の看板
(栃木県矢板市の商店街に残っていた。2010.10.01撮影)
廃屋と思える家に架かっていた古い看板。色も落ちそう。保存の価値あり!ということで撮影しました。こけし印のハムやソーセージは現存しません。どうして消えたのか。その背景を知りたくて探りました。すると下記のような文章に出会いました。誕生と消えた顛末が良く解りました。転送歓迎とありますのでそのまま記載します。
■ Japan On the Globe(658) ■ 国際派日本人養成講座
■人物探訪: 東洋水産・森和夫の挑戦(上)総勢6人の小企業が「誠意とやる気」で挑戦した。■転送歓迎 H22.07.25
■1.総勢6人のスタート
昭和28(1953)年3月25日、まことに小さい会社がスタートした。6坪のバラック小屋に机4つ、電話2台、三輪トラック1台。従業員は社長を含め、総勢6人。事務所は、横須賀冷蔵庫というこれまた小企業の東京支店をそのまま引き継いで、分離独立したものだった。新社長の森和夫は、東京支店を開いた責任者だったが、その積極経営が裏目に出て、百万円近い欠損を出した。これ以上の迷惑はかけられないと、森は欠損をすべて引き継ぐ形で、東京支店を独立させ、横須賀水産を設立したのである。その夜、事務所で茶碗酒の乾杯をした後、森は5人を前に照れくさそうに、こう挨拶した。いつものナッパ服(作業服)にゴム長というスタイルだった。「横須賀水産はゼロからの出発どころかマイナスからの出発という厳しい門出になりました。しかし、僕は必ず会社は大きく成長すると確信しています。チャレンジ精神を忘れず、誠意とやる気さえあれば、仕事はいくらでも増えると思うし、多くの人々から信用もされると思います。人に対して威張らずに謙虚であってほしいと思います。そして僕自身、正義の味方でありたいと思っています」。
これが、今日、連結売上高3千億円超、従業員数約3千8百人の大企業、「赤いきつね」などで有名な東洋水産のささやかなスタートだった。同社は、この森の言葉通りの展開で成長していく。
■2.「ノモンハンで死んでたと思えば」
森はノモンハンの生き残りだった。1939(昭和14年)年、ソ連軍が満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線を超えて侵攻してきた事件で、日本軍は数分の一の戦力で迎え撃ち、ソ連軍に死傷者2万5千名以上の損害を与えたが、自らも1万7千名以上の死傷者を出した激戦だった。森は、戦死した戦友たちの顔を思い浮かべながら、こう語ったことがあった。「ノモンハンの激戦で生き残ったのはわずか4パーセントに過ぎません。わたしはその一人です。生きて故国に帰ってこられたのが不思議です。ノモンハンで死んでたと思えば、大抵のことには驚きませんし、どんな苦労も苦労のうちに入りません」。
当時の横須賀水産の主要な事業は、冷凍マグロの米国向け輸出であった。朝一番の電車で通勤し、築地の魚市場でマグロを買い付ける。事務所で朝食をとった後、オート三輪で川崎に賃借している冷蔵庫にマグロを運び、そこで解体・加工する。4、50キロあるマグロを手鉤(てかぎ)でトラックから引き吊り下ろし、刃渡り30センチの出刃包丁で解体するのは、重労働だった。そのうえ伝票の整理やら、銀行回りや客先回りで、夜9時前に帰宅することは滅多になかった。「どんな苦労も苦労のうちに入りません」という森ならではの奮闘ぶりだった。
■3.「水産会社って大変なんですねえ」
昭和31(1956)年6月、川崎市で老朽建物を借り、中古設備を据え付けて、魚肉ハムとソーセージの缶詰工場をスタートさせた。食品メーカーに踏み出したのを機に、社名を東洋水産に変更した。昭和33(1958)年暮れ、この川崎工場の臨時作業員10人と女子現業員50人が、突如、労働組合を結成し、労働条件の改善と賃上げを求めて、激しいストやデモを仕掛けてきた。戦闘的な川労協(川崎地区労働組合協議会)に入れ智恵されたのである。
森は従業員への配慮が足りなかったことを率直に反省しながら、誠意をもって何度も組合と話し合った。川労協の専従委員長の河野とは、こんなやりとりをした。
「社長の給料はいくらですか?」「2万5千円です。去年は賞与も入れて年収32万2千円でした」「まさか、それが事実ならわたしより安いですよ。森さんはオーナー社長でしょう。」河野はあきれ顔で言った。「事実です。なんなら明細書をご覧にいれても結構です」
「交際費や機密費が多いんでしょう」「そんなものはありません。交際費をふんだんに使わなければモノが売れないような営業は、間違っています。品質第一、消費者に対する良心を最優先するように、社員に口をすっぱくして言っているわたしが、会社のカネで勝手に飲み食いするなんて考えられないじゃないですか」「水産会社って大変なんですねえ」と、戦闘的な専従委員長は逆に同情して、労使紛争も自然に解消してしまった。
■4.「こんな赤字会社はどうやっても、よくならんぞ」
東洋水産は旧財閥系の第一物産に販売を委託し、そのブランドであるコケシ印でハム・ソーセージを売っていた。また短期の運転資金も依存していた。
昭和34(1959)年9月、第一物産から東京水産興業と合併して貰いたい、との話が持ち込まれた。東京水産興業は同じく第一物産の系列であり、東洋水産のライバル会社だったが、1億25百万円もの欠損を抱えていた。何で箸にも棒にもかからない欠損会社を合併しなければならないのか、と森は思ったが、拒否すればたちまち第一物産からの融資はストップし、資金繰りが行き詰まってしまう事態は目に見えていた。森は苦渋を飲んで合併を了承したが、第一物産から合併後の社長を迎えることで、その後の経営に責任を持って貰うこととし、自らは専務への降格を申し出た。翌年6月に合併が実現したが、第一物産から送り込まれた新社長は、わずか一月ほどで辞表を出して辞めてしまった。「俺をこんなボロ会社の社長に据えるとは、物産はどういうつもりなんだ。こんな赤字会社はどうやっても、よくならんぞ」という捨て台詞を残して。
■5.「東洋物産なんて潰してしまうぞ」
やむなく、森は社長に戻ったが、その後も第一物産は経営に様々な口を挟んできた。たとえば、森が東京水産興業から引き継いだ漁船を売却しようとすると、「物産の面子が潰れる。体面上、絶対売却することはできん」と反対する。森はその説得に、半年も費やした。
また、かつて大型冷蔵庫を建設した際にも、第一物産がゼネコンとして設備メーカーを指定し、その結果、トンあたり6、7万円の建設コストが業界常識のところに、トンあたり12万円もかかったこともあった。
こうした事から、森が「第一物産のやり方に不信感を覚える」と言った途端、「そんなに物産が信用できないんじゃ、しょうがないな。東洋物産なんて潰してしまうぞ」と脅す始末である。森は思い余って、辞表を第一物産に提出した。
森が辞めれば多くの幹部もついて行って、東洋物産は空中分解してしまう。慌てた第一物産側は、森が要求すれば、合併時に取得した株を手放す事を約束して、慰留に努めた。
第一物産は東洋水産の株の70%以上を保有していたが、昭和38(1963)年2月にその多くを譲渡し、東洋水産はようやく独立を回復することができた。
■6.「マルちゃん」ブランドの即席麺
第一物産との抗争が続く間も、東洋物産での「誠意とやる気」による事業開拓の努力は続いていた。昭和37(1962)年5月、インスタントラーメン「ハイラーメン」を発表した。これが失敗すれば、加工食品分野での多角化の途は阻まれ、合併による負債とあいまって、深刻な経営危機を招きかねなかった。
まさに背水の陣で発売された「ハイラーメン」だった。インスタント・ラーメンを食べるのは子供だから子供に親しまれるブランドを、ということで、まん丸の顔をした可愛らしい「マルちゃん」マークがつけられた。
ハイ・ラーメンは爆発的な売れ行きを見せた。この成功が寄与して、第一物産から独立した昭和38年度3月期の決算では、東洋水産は累積赤字を解消し、創立以来初めての利益配当1割を実施することができた。
「ハイラーメン」に続いて、昭和38年8月に発売した「たぬきそば」も爆発的な売れ行きをみせ、「マルちゃん」ブランドは即席麺の分野では完全に定着していった。
■7.「同じ苦労するなら自社ブランドで苦労したいですよ」
即席麺で「マルちゃん」ブランドが定着しても、ハム・ソーセージは相変わらず第一物産の「こけし」印で売っていた。東洋水産の営業部隊は、「いつまでも物産の下請けにとどまっているいわれはないと思います。同じ苦労するなら自社ブランドで苦労したいですよ」と森に訴えた。森は、自社ブランドへの切り替えは社員のやる気を大きく引き出すと考え、ゴーサインを出した。その背景の一つに、ハム・ソーセージの品質には絶対の自信を持っていたことがある。昭和37年、38年の全国魚肉ハム・ソーセージ品評会で、東洋水産は水産庁長官賞を2回連続で受賞していたのだ。しかし、第一物産の抵抗は相当なものがあった。年間2千万円の口銭を失うばかりでなく、「こけし」印のハム・ソーセージがなくなってしまうからである。
物産の食品部長は「『マルちゃん』ブランドは、子供相手の即席麺だから通用したんで、ハム・ソーセージは『こけし』印じゃなければ絶対に売れませんよ。どこを押したらそんな無謀な考えが出てくるんですか」と、顔色を変えて猛反対した。
そんなやりとりの陰で、第一物産は曙漁業のハム・ソーセージに「こけし」印のブランドを与えることとした。そのうえで、森を呼び出し、「おたくは、それでいいんですか」と脅しをかけた。森は「曙漁業さんのハム・ソーセージと当社のものとでは品質に差がありますから、同じブランドで販売することは考えられません」と間髪を入れずに、答えた。
■8.「商品は、精魂と愛情を込めてこそ育つ」
昭和40(1965)年5月15日を期して、ハム・ソーセージを含めた東洋水産の全加工食品のブランドが「マルちゃん」に統一された。東洋水産の営業マンは「マルちゃん」ブランドのハム・ソーセージの商品サンプルを小売店一軒一軒に配布して、ブランドは変わっても品質に変わりのないことを懇切丁寧に説明して回った。ブランド切り替えの結果がどうでるか。森は第一物産に「失敗したら、ハム・ソーセージ部門から撤退するのみです」とまで、大見得を切っていた。固唾を呑む思いで、6月の営業報告を待った。
「過去最高の売れ行きです。品質もさることながら、営業マンの誠意とヤル気の賜だと思います」との報告を聞いた時、森は嬉しくて、涙がこぼれそうになった。
40年度の売上高は27パーセント伸びたが、このうちハム・ソーセージは40パーセントもの伸び率を示した。一方、東洋水産に代わって「こけし」印のブランドを受け継いだ曙漁業のハム・ソーセージは4年後に市場から姿を消した。このニュースに接した時、森は感慨を覚えて、こう語った。「商品は、精魂と愛情を込めて生産販売する気持ちがあってこそ育つんだな。ブランドが有名だからといって、それだけでお客さんがついてくるなどと考えるのは、思い上がり以外のなにものでもないんだ」。
■9.「薄氷を踏むような毎日の連続でした」
昭和45(1970)年9月、東洋水産は東証二部への株式上場が認められた。昭和28(1953)年に横須賀水産として創業して以来、17年が経っていた。
この年は上場ラッシュで、すでに40社ほどが上場されたが、いずれも時代の脚光を浴びている花形産業か、大企業系列の毛並みの良い企業がほとんどで、東洋水産のように特別な資本系列もない、地味な食品会社の上場は珍しい、と言われた。東洋水産の堅実な経営方針や、着実な業績が認められたからだと、森は考えた。
上場初日、森は役員たちとビールで乾杯してから、こう挨拶した。
「17年前、株式を上場できる企業になれるなどとは夢にも思いませんでした。それどころか、いつ潰れるか、いつ投げだそうか、薄氷を踏むような毎日の連続でした。第一物産との抗争にもよくぞ耐えてきたと思います。本当に感無量です、、、」森の心中に、熱いものがこみあげてきて、次の言葉が出るまでに数秒を要した。「役員も社員も心を一にして、誠意とヤル気をモットーに一つ一つ積み上げてきたからこそ、今日の東洋水産があるんだろうと思います」。(文責:伊勢雅臣)(本号、次号の「東洋水産・森和夫の挑戦(上・下)」につきましては、登場企業・人物の一部に仮名を使っていますが、これは参考文献の表示をそのまま踏襲したものです)
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