「最上みりん」
千葉県佐原の馬場醸造にあった看板
馬場本店酒造は江戸時代の天和年間(1681年〜)の創業。清酒、白味醂を製造販売。特に白味醂は江戸時代からの製法を変えずに旧式の手造り味醂で、その作り方は全国でも数少ないそうです。みりんはもち米と米麹と米焼酎から創られるものだけが本味醂と言われ、ほんのりした甘みとコクがあり飲んでも美味しいそうです。ちなみに標準的な味醂は醸造アルコールや水あめが入ります。みりん風調味料となるとさらにブドウ糖や化学調味料などが添加されていきます。本みりんのみが法律上の酒類でお酒屋さんでしか売れません。本みりんの文献の歴史をたどると馬場醸造が創業した頃の1713年(正徳三年)頃の『和漢三才図会』には、本みりんの製法と共に、「按美淋酎近事多造之其味甚甘而下戸人及婦女子喜飲之」と表され、下戸や婦人に好まれて飲まれていた、という記述があります。この頃は麹40%、焼酎24%、エキス1.2%という配分で甘い焼酎のような味、とあります。戦後は麹が13%、焼酎が61%、エキス46%㌫となり現在と変わらない味になったようです。戦争がはじまる昭和18年から8年間は米不足の影響でみりんの製造が禁止されています。その後再開されても贅沢品として高い酒税が課せられたので、高い酒税から逃れるために造られた代替品が「新みりん」「塩みりん」と呼ばれるものでした。これが今日まで続いている、いわゆる「みりん風調味料」で、みりんはこのような歴史もあわせもっています。
この看板はいつ頃のものかなぁ、と眺めます。字体は古くはないのですが価格が銭を示していますので、そのあたりもおもしろいと思います。
お金のない時代は等価交換にあたる物々交換でした。ヨーロッパでは金が価値を決めていたそうですが、金をいつも持ち歩くわけにはいかず、その代わりに金の価値を書いた紙を証書として出して、物の取引をしたそうです。それがやがては価値のある紙幣へと変わり、それらの証書で融資をしたのが銀行の始まりと言われています。
日本では金山銀山の開発もあり、地方によっての豊かさが違っていました。室町時代の頃より離農を避ける政策もあって<米>も通貨の代わりをします。江戸時代は両、分、文(金貨、銅貨、銀貨)または藩札などを使用したのですが、幕末期明治の初頭には外国から銀貨が入ってくるなどお金の制度が混乱したので明治政府は1871年(明治4年)に新貨条例を作ります。1円を100銭として5・10・20・50銭の4種類の銀貨と、1厘(10分の1銭)・半銭・1銭の3種類の銅貨が定められます。現在のように1円以下を切り捨てて円に統一されたのは意外に近年で、1953年(昭和28年)の「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」によります。ただし特例があって株価や為替などの使用に銭の単位は認められて現在に至っています。
貨幣制度から見ると看板は明治4年から昭和28年の間のものとなります。
看板にあるみりん一合で45銭をアンパンにおき変えてみると、明治15年だとアンパン1個一銭でしたからみりん一合でアンパンを45個買えたことになります。高っ!昭和13年ですとアンパン1個5銭ですから、みりん一合はアンパン9個買えたことになります。それでも高っ!ですね。もうじきお正月。照りが綺麗に仕上がる本みりんの小瓶を買っておせち料理作ろうかと思います。
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