「江崎グリコ」
所在地:大阪道頓堀
子どもの頃にお腹が空くと、薄力粉・砂糖・水だけの素材だったけれど父が作ってくれた「せんばやき」がすごく美味しかった。母が作ってくれたのは炒り大豆で、それはなんら美味しくなかったので、私も弟も少しだけバラっともらってポケットに入れた。
祖母が作ってくれたのは蒸かし芋と草だんご。草だんごの材料のヨモギは、私たち子どもがテンペツという籠を持たされて、自らあぜ道に摘みにいったものだった。
一般家庭に冷蔵庫など無い時代。余ったおやつは北側に当たる涼しい窓の外で、籠に入れられて、多少のハエなど気にすることも無く揺られていた。子どもの好む甘いものといえば、風邪を引いたときにもらえる「佐久間ドロップ」が上等部類を独り占めしていた。……とまあ、私たち一家は濃尾平野の真ん中に暮らし、古い戸籍簿で示すところの「農民」の出であったから、あまり上等なおやつに縁はなかったかもしれないが、世の中の豊かな上品な家庭では大正時代から子供へのおやつの習慣があったようで、洋風のカステラ、ビスケットなども供されていたそうである。
大正3年に森永ミルクキャラメルが小包装となって箱に収められ、発売後すぐに爆発的ヒットとなった。以後、全国に多くのキャラメルメーカーが出現した。その中に大正10年に創業された「江崎グリコ」(大阪市西淀川区に本社)がある。
江崎記念館の年表によると、グリコの創業者江崎利一氏は佐賀県で父死亡後の家業の薬種業を19歳で継ぎ、日露戦争で看護兵として従属し帰還。25歳で大阪を見学して薬を安く仕入れ、大阪の地でコレラ患者を看護し、その時のヒントから、牡蠣(カキ)に含まれるグリコーゲンから「グリコーゲンの事業化」を思いついた。33歳、九州で江崎商会として葡萄酒販売のトップの会社となり、大阪に江崎商会大阪出張所を開設。37歳で有明海の牡蠣からエキスを抽出。自分の子どもが病気をした際に牡蠣エキスの臨床効果を実感。39歳、一家で大阪に上阪して「合名会社江崎商店」を設立、社長に就任。栄養菓子グリコを試験販売。大正11年、三越で発売に成功、という経緯がある。
牡蠣から抽出される「グリコーゲン」キャラメルの中に入れた、栄養菓子グリコは「一粒で300メートル」というキャッチフレーズで、走るスタイルの「ゴールインマーク」を企業シンボルとしている。
江崎利一氏は「子どもは食べる事と遊ぶことが天職」という持論に基づいて、お菓子の箱の中にシールなどをおまけに入れた。昭和4年にはお菓子の箱の外側にもう一つの箱を付けてオモチャをお菓子につける「グリコのおまけ」を発売。大ヒットした。
昭和6年にはグリコ本舗のチラシを江崎氏自身が街に出て配り歩いたそうである。そのチラシには懸賞の問題や応募の決まりなどが印刷されて、チラシの角には切り取り線があって「5銭のグリコを4銭におまけする」という割引券も付いていて、どこのお店に持って行っても割引になる、とカタカナで書かれてある。昭和30年代に入ると懸賞商品はおもちゃのみならず切手やコイン、洋服などを初めとして、手乗り文鳥やしゃべるオウムなどにも及び、懸賞で何かが当たる、というブームの先駆けともなった。
看板は大阪の道頓堀に大きく掲げられたもので、工事中の建て替え期間のみ掲げられる限定看板。女優の綾瀬はるかさんが元気に走っている。(2014年10月23日〜秋に終了)。
江崎グリコの走るスタイルのゴールインマークは企業シンボルで、森永のエンゼルや不二家のペコちゃんと同じである。今回のようにランナーが時流に乗ったキャラクターに取って代わるという細工は、広告効果を重んじる創業者の江崎利一氏の心意気を受け継いでいるのか、その遊び心もおもしろいな、と私も道頓堀の群集に混じってグリコの看板を見上げた。
余談ながら、企業看板であるキャラクター考察を一つ。
ペコちゃんポコちゃんという、まじめに考えれば、ちょっとふざけたネーミングかと思われるシンボルキャラクターは、不二家の看板娘と看板息子である。不二家が1910年(明治43年)、横浜元町洋菓子店より出発したのち、40年後の1950年に誕生している。誕生当時のペコちゃんは年齢6歳の想定。ボーイフレンドのポコちゃんは、翌年誕生したので年下の彼かと思えばそうではなく、7歳の想定になっている。指折り数えれば、現在のお二方は65歳と66歳のはずだけれども実にお若い!グリコーゲンの分子は、エネルギーにいちばん変換されやすい栄養素であるから、もしかしたら、同業者のグリコのキャラメルを夜な夜なひそかに食べて、店頭に立ち続けられる元気さを保っているのではないかしらん、……と、私はひそかに想像した。
参考文献:江崎グリコ70年史・江崎記念館資料・ウィキペディア・他
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