「ダイヤ学生服、日の出桜学生服」
所在地:群馬県安中市横川駅至近
今回は長文でごめんなさい。
看板に出会った前の経緯から入ります。
私は写真を撮るのが好きです。好きな被写体を好きな角度から気に入る枚数を撮ります。
ぶれたり水平が悪かったりすれば撮り直します。
水平感覚が苦手で傾いてしまうものが多く、現場では被写体の角度と格闘を続けます。
常夜灯などがあると、設立年月日を老眼鏡を出して確かめたりしますから、観光地では必ず友人とはぐれます。
だから友人と一緒の旅は苦手で、基本は一人旅。
とはいえ例外もあります。
今回は例外の話です。
中山道を踏破しようと試みて2年前から実行中ですが、坂本宿まで進みました。
次は碓氷峠。峠越えの登山道です。
『方向音痴なので沢に落ちてもしも遭難したら』とか、『熊に遭遇して食べられそうになったら』とか、一人で行くにはちょっと不安材料が多く碓氷峠越えをどうしたよいのか思案半年。
結果、そうだ!山歩きする人の多い五月の連休に決行すればいいのだと心づもりしました。
嫁がせた娘の旦那様のお母さん(T子さんと呼んでいる)に時々お誘いいただいて、観劇に行っていますが、幕間に中山道峠越えの話をしたことがあります。
ある日、T子さんから電話がかかってきました。
「私、山道は好きなのよ。軽井沢峠越えは一緒に行きたいのですが、同行してもいいかしら?いつ頃いらっしゃる?」
「連休中にと思っています」
「連休ならご一緒できると思うの。是非」
さらに、前日に電話があり「山友だちがもう一人、付いていきたいというのでいいかしら?」
ということになった。
思わぬ二人の山ガールの助っ人で、一人で出かける不安は解消して、山姥(やまんば)ではない山婆(ヤマバー)三人同行碓氷峠越えとなった。
一人旅好き云々は思わなかったことにして、水平に撮れるかどうかの吟味はしないことにして、神社もしつっこく撮影しないことにして、とにかくヤマバー二人に遅れないように歩いていくことを決意した。
千葉方面から来るT子さんたちとは碓氷峠越えの起点となる横川駅で待ち合わせた。
改札口に登場したヤマバーの出で立ちにびっくりした。
山用の帽子、山用のリュックに熊よけの大きな音色の鈴、リュックの上からニョッキと出ているストック。次々に脱げるようにしてある重ね着のスタイル。
ショートパンツの下には可愛いい柄のレギンス(タイツとも言う)、それに重ねられた厚地のトレッキングソックス、そして重厚な登山靴をはいたいでたちのヤマバー二人がにっこり笑って立っていたのだ。
さらにタクシーで10分ほど移動した登山道入り口ではウォーミングアップの足腰の準備体操を始めるヤマバー二人。
私も慌ててアキレス腱を伸ばす(ふりをした!)。
峠越えの間は実にタイミング良く、ちょうど良く汗をかいた辺りで休憩の笛が鳴り(笛は鳴らないが)、彼女たちのリュックからは時には塩味のお新香、おにぎりの脇に甘〜い卵焼きが添えられて、おひとつどうぞ!と回ってくる。
時には甘味のチョコレートが手を汚さないような形で、ちょうど良く出てくる。
出で立ち、用意周到、どんな山でも侮らないヤマバーの心意気に脱帽した。
私を除く二人のヤマバーは江戸時代の参勤交代の峠越えだったら、かなりの側近として殿から重宝されたと思う。
三人で合計210歳の私たちヤマバーは、峠越えですれ違う人や追い越される人々の中ではダントツ最高齢で、とても気分が良かった。
特に軽井沢方面から来た外人5人組が一列になって崖側に立ってくれて、山側の道を通らせてくれたときは、「和宮」になった気がした。
健脚の二人のヤマバーたちに遅れないように、鈴の音から離れないように、これまでの中山道宿歩きの中で、一番に淡々と写真を撮った道中となった。
5時間かけて峠を越えて見晴台ともなる峠の茶屋でソフトクリームの休憩をした。
遅い春に桜がとてもきれいで、私は何枚も何枚も写真を撮った。
ヤマバー二人はトイレに行ったきり帰ってこない。
どうしたかと思う頃、T子さんが帰ってきた。
「トイレが和室になっていてお部屋みたいでとっても面白くって、写真を撮っていたのよ」。とにっこり。
旅の楽しみ方はいやはや人それぞれ。
写真の撮り方も人それぞれでオモシロカッタ。
ちなみにトイレに列ができていたかどうかはここでは付記しないが、同行していただいたお礼は大きな字で書いておきたい。
大変たすかりました。ありがとうございました。
そうそう、看板考でした。
看板は碓氷峠越えのために降り立った横川の駅近くにあったもので、珍しいものだから紛失するといけないから貼り付けておくよ風情で、いくつかまとめて掲げられていました。
キンチョウものの看板はさほど珍しくありませんが、地方に出かけるとお目にかかる事の多い学生服の看板がここにもありました。
学生服製造はたくさんのブランドと業者があるようで、今回の看板である「ダイヤ学生服、日の出桜学生服」の他にも「まるまん学生服、富士ヨット学生服、鳩桜学生服、アサヒヨット学生服、旭ツバメ学生服」などなど驚くくらいあります。
旭、ツバメ、富士、桜、鳩などは縁起も良いのでネーミングとしては解りますが、ヨットはどうしてかしら……船出で前途洋々という意味でしょうか……あれこれと前から興味があったので今回は学生服について調べてみました。
学生服と言えば詰め襟でカラーの内側に白いセルロイドの様な板があり、男子生徒はずいぶん窮屈そうに着ていました。
セルロイドを外せば不良と見なされて登校時には生活指導の先生が校門前に立っていて、注意を受けるのが常だったようです。
卒業時には先輩の学生服の第一ボタンをもらうなど、昭和40年頃までに青春を過ごした人にとっては、懐かしい代物です。
昭和50年頃には突っ張り、リーゼント、学ランなどとまた違った意味で脚光をあびた学生服でもあります。
そんな中高生が当たり前のように着ていた学生服は、東京帝国大学が1886年(明治19)年に制服として定めたことが起源となっています。
戦後にはGHQの教育改革が行われましたが学生服についてまでは及ばなかったようで日本の学校の中で、130年の歴史を持っている学生服です。
……そういえばバスケ部の部長だった学生服がまぶしかった初恋のK君は亡くなったと聞き、学友みんなで追いかけ回して困り顔だった、学生服を正しく着ていた生徒会副会長のE君は離婚したと聞き、落ちこぼれで学生服を汚しながら雑巾がけをしていたY君は、父の跡を継いで立派な社長になっているとか。
写真の撮り方とか山の登りかたとか、学生服を着て同じ時代を過ごした人々のその後とか、人生は実にさまざまにある、と看板考をまとめながら改めて思った今回でした。
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中