「旅するシステム:一新講」
所在地:長野県小県郡長和町「和田宿」
中山道「和田宿」の旧旅籠「かわちや」(現「歴史の道資料館」)の土間に置いてあった看板です。江戸時代の宿選びガイドとなる「講」の看板で「一新講」はその一つです。
江戸時代はグーグルサーチもありませんので、安心して泊まれる旅籠か否かの情報を得る手段はほとんどありません。いかがわしい女(飯盛り女)を抱える旅籠経営は禁止されていましたが、それも表向きのことで、飯盛り女を置けば旅籠は繁盛するので旅籠の多くには飯盛り女がいました。
特に商用や神仏代参詣での旅人などは健全な道中を求めましたので、旅籠の内容を見極めるのに旅人も困りましたが、飯盛り女のいない安心安全を提供する旅籠側もそれを証明するために「一新講」のような看板を掲げるようになります。
「講」とうたわれたシステムの始まりは、唐弓の弦を商っていた松屋甚四郎の手代源助が、諸国を行商する中で誰もが安心して泊まれる旅籠の組合をつくることを思い立ち、1804(文化元年)年、旅宿組合「浪花組」(のちの浪花講)を結成します。講元は松屋甚四郎。街道筋にはそれぞれ世話人を置いています。「浪花講」は加盟宿には目印の看板をかけさせるとともに、旅人には所定の鑑札を渡し、宿泊の際には提示するようにしたうえに、『浪花講定宿帳』を発行し、各宿駅ごとに講加盟の旅籠や休所の名を掲載するとともに、道中記としても役立つ道案内を兼ねた情報を掲載するなどして「講」のシステムは発達していきます。
当初は商用や神社参拝での利用が多かった「講」ですが、江戸の文化が成熟するに従って物見遊山も多くなり好評であった講のシステムはより発達をして、京・江戸を世話方とする「三都講」、江戸で「東講」、お伊勢参りの「伊勢講」、大山詣の「大山講」、「堺泰平講」、「嘉永講」などが次々と創られています。しかし、各街道が鉄道の普及に従って利用者が減少すると共に講の機能も衰えていきます。
当該看板の「一新講」は1873(明治6)年に静岡で結成された旅行目的の講です。奈良の有名な旅籠「小刀屋善助」が出している「御定宿 こがたなや善助」という名称の色刷りの旅の広告(明治15年作)の中にも、右側の旅籠の格子窓に「永代講」とともに「一新講」看板が掲げられています。絵図に見入りながら、もし私が江戸時代に生まれていたら、どんな旅をしたのだろうか、はたして旅する身分だったのだろうか、看板を置く旅籠の下働きだったのだろうか、としばらく空想に走りました。
(参考資料:大阪府立中之島図書館HP、「日本旅館の歴史/山口祐 司」、「時代劇用語指南/講の宿・山本博文 」、天理大学付属天理参考館)
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