所在地:板橋区大山金井町
「モウチョウ スグ キタレ」
村に1軒しかない電話持ちの家からお手伝いさんがやってきて、電報を手渡ししてくれた。東京都中央区水天宮で食堂を経営していた父の兄から届いた電報だった。濃尾平野の真ん中で農業をしていた父は東京へ駆けつけて、盲腸を患って緊急入院をした兄の食堂の調理場を一ヶ月間手伝った。
帰郷の後、父は「わしは東京に出て兄と同じような食堂をやる
と言った。
10歳、8歳、3歳の三人の子どもと妻と72歳になる母親を連れて、210坪の家と先祖伝来の多くの田畑を売却しての父の決断だった。私たちが「東海一号」で7時間掛けて上京したのは9月1日。その20日後に売却した家と田畑は歴史に残る伊勢湾台風で大洪水のど真ん中となり、生きる道ギリギリのところで運良く私たち一家は東京の住人となった。
あのとき、おじさんが盲腸になっても、臨時のコックさんが雇われて「でんぽう」の必要もなく、父が上京に至らなかったら、私たちは伊勢湾台風の後をどのように生きただろうか、としばらく家族の口の端にのぼっていた。
あれから半世紀。
「でんぽう」が来て私たちが後にしたふるさと「古知野」は、ベッドタウンとなって著しい発展を遂げた。村の真ん中を国道が通り、細い農道を経てたどり着いた木造だった駅は「江南」と名を変え、いまでは特急停車駅となった。
父の持っていた先祖伝来の田畑にはマンションや大きな住宅が建ち並んでいる。先祖伝来の田畑を順番に売っていたら何十億という財産だった、としばらくは家族の口の端にのぼっていた。
「でんぽう」がなくてあのまま田舎にいたら私たちは大金持ちの一族になっていたに違いない、と妹が言う。いやいや、成金で身を持ち崩して、俺たちは不良三姉弟妹になっていたかも知れないぞ、と弟が言う。父は愛人を作り、母はホストクラブに通い、変な会員証を山ほど買って、その後にやってきたバブルで一文無しに!なっているかも……週刊誌の読み過ぎ!と妹が茶々を入れる……。
近所に珍しい看板があるのに気がついたのは最近だ。随分と上の方にあったので目に入らなかった。間近で見ることは出来ないが昭和の時代のレアものとにらんでいる。
看板考のために写真に収めて帰宅した後、生家にずーーーと昔に届いた「でんぽう」と、家族一同が村人の見送りを受けて、東海一号で古知野駅を出発したセピア色の日を久しぶりに思い出した。
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