Japan Geographic

看板考 柚原君子


 「家畜病院」 

 

所在地:東京都板橋区熊野町交差点近辺

板橋区の南東部にある熊野町は土地の鎮守の熊野神社に由来する地名です。熊野町交差点の上部を高速道路が覆っているせいか排気ガス量が多い事や、右折が複雑で事故の多いことなどでも知られているちょっと有名な交差点で、その近くに看板は存在します。

コトバンクというネットの辞書によると「家畜病院」とは「ウシ、ウマまたはブタなどの大きい動物、とくに産業家畜とよばれる動物を専門に扱う病院」とあります。

どうして、こんなに排気量の多い悪評高い交差点の近くに家畜病院があるのか、と板橋の歴史を調べてみましたら、なんと昭和33年の「石神井側と牧場」と題された写真に牛が写っているのを発見しました。

当該看板の住所に示されている熊野町が成立したのは牧場の写真と同年ですから、牛が当時はまだ板橋区にいて、家畜の診療所も必要であったことが解りました。

看板のある近辺は、川越街道と山手道路が交差するばかりでなく、上部には高速道路が通っていて交通量が甚だしく多いので、こんなところにかつては産業家畜がいた……とは想像しにくいのですが、周辺の道をよく見ると細くクネクネと曲がった道が多く、氷川神社、熊野神社、八幡神社などの小さな社が点在することに気がつきます。細くクネクネと曲がった道は農道で昔の道そのまま。それらにそって田畑が続き、点在する神社の近辺に家々(村)のかたまりがあったことが想像できます。

写真に写っていた石神井側の牧場の牛のほかにどんな動物が家畜病院を必要としたかを知りたくて農業史を拾い読みしてみました。すると、こうぶんしょ館電子展示室71号 「いたばし農業の変遷」の中に下記の文がありました。

「大正期、板橋区は北豊島郡の一部で、土地の8割強は耕地であり、人口の4割強は農業に従事していましたが、東京市の一部に組み込まれつつある中、大正12年(1923)関東大震災被害が比較的軽微だった地域であったために、震災後は都心部からも多くの人々が流入して住居を提供するために、田畑を宅地に転換する農家が増えていきました。

また工場も板橋に多く進出し、その排水により農作物が被害を受けるケースも頻出。さらに工業用水の大規模なくみ上げによる地下水の低下で板橋の農業は衰退し始めます。

このような中、当時、より「高等」な農業とされていた養豚や酪農に挑戦する農業者たちがでてきます。1931昭和(6)年には、北豊島養豚組合が設立されています。設立当時、40人の加入者があったそうです。

養豚は都市と密接な関係があり、都心部に近い板橋は、養豚に適した条件がそろっていたといえます。

殺菌技術が未発達であったこの時代、都心部に牛乳を提供するためには、都市近郊で搾乳する必要があったからです。

それゆえ酪農は、板橋のなかでもより都心部に近い板橋町、上板橋村で盛んだったのです。酪農自体は大正時代からなされていましたが、巣鴨や戸田市などを転々としていた吉川牧場が、昭和3年(1928)ごろ上板橋に移転してきたのを機に大きく発展していきます。

しかし昭和36年頃から、日本住宅公団による公団団地建設の話が赤塚・徳丸田んぼの農民に伝わってくるようになります。現在の高島平団地の建設計画です。発展の見込みの薄い農業を辞めたいという気持ちと、先祖伝来の土地への執着とがせめぎ合うなか、昭和38年1963()には51万坪の田んぼの売却がなされ、44年に着工、47年1月には最初の住民が入居しはじめます。(要約)」

なるほどね。やっぱり病院は豚の疾病も診たようです。

病院は昔の町家の小ささです。牛や豚は連れてくるのは大変なので往診が多かったのでしょうね。

一つの看板から見えてくるものが余りにも多くて、ため息や納得の連続。やはり看板観察趣味は捨てきれない。

 


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