所在地:長野県木曽福島
14歳で大阪へ出てきた大出権四郎。鋳物屋で修行を積みながら、明治23(1890)年2月、19歳で長屋の一角に、資本金100円で「大出鋳物」(後に『大出鋳造所』と改名)の会社を作ります。
時代は文明開化とともにコレラなどの伝染病が流行した時期で各地で水道の整備が進められていて、大出権四郎は試行錯誤の結果、明治水道用の鉄管の量産化に成功して工作機械や製鉄機械の製造に踏み出します。さらに小型三輪自動車の製造に踏み込みますが、競争に勝てずに日産自動車の前身である戸畑鋳物に株式を譲渡し、そこから買収した発動機事業が後の『クボタ』の基礎となります。
大出鋳造所の取引先に「久保田隣寸器機製造所」があり主人の久保田藤四郎はドイツ製のマッチ軸刻機にヒントを得て高能率の国産機械を生み出しマッチの輸出に貢献した人物。大出権四郎の水道用鉄管の国産化に心血を注ぐ姿を見て「養子になってほしい」と申し出ます。鉄管の仕事を続けられることを条件に以後大出権四郎は久保田権四郎と名乗り会社名も「久保田鉄工所」と改称します。
昭和初期の世界恐慌の中、久保田鉄工所を鋳鉄管と鋳物を製造する資本金450万円の「株式会社久保田鉄工所」と農耕用発動機・工作機械・はかりなどを製造する資本金150万円の2社を設立して分社化のはしりとなります。(クボタ社史より抜粋要約)
当該看板は長野県木曽福島宿を歩いているときに農家の納屋で見つけたもの。農業機械メーカで日本最大手の『クボタ』の昭和初期の看板です。
製品名が書いてなくて、代わりに愛用者と入っているところから、今で言う会員組織の「この看板を貼っておいたら修理費10割引き」とか、「次回の買い換えに便宜をはかる」とか、その類いのものであったかもしれません。それでも昭和初期にこの姿勢はさすが、努力家の創業者の意欲を感じます。
ちなみに看板にある社標は鋳鉄管を組み合わせて久の字としています。当初はそれを○で囲ったのみでしたが、その後機械部門進出を機に○部分をギアを表すギザギザに変更して鋳物と機械のクボタを表した、と社史にあります。古い農機具にはこの久の文字の代わりに牛の絵のアレンジもあるようで、クボタの農家に向ける温かい目線が感じられます。
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