徳島県美馬市 脇町
Wakimachi Mima city,Tokushima
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藍の集散で栄えた、うだつが連続する美しい街並。 |
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藍の文化遺産を未来に伝える |
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Jan.13,2017 瀧山幸伸
沈下橋
光泉寺
A camera
B camera
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B camera
名称:脇町(うだつの上がる町)
所在地:徳島県美馬市脇町
取材日:2009.11.10 二階の屋根の両端に漆喰のうだつが上がった町並みはなかなかに美しいものです。
うだつは隣家との防火を目的として作られているようです。
「うだつがあがらない」と揶揄されるように経済力の象徴としてしか近年は知られていないようですが。
この地区は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、街並みの維持・保存に対する努力には頭が下がります。
元図:国土地理院
元図: 国土地理院
藍の文化を未来に 〜藍の集散地 脇町『方丈記』の鴨長明は言う。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。」一つの川の流域圏が一つの文化を形成することはよくある。川の流れのように、ものづくりにも生産者側の上流と消費者側の下流がある。脇町は吉野川の中流に位置し、周囲から集めた藍原料を下流の徳島方面へ運ぶ仲買人の物流拠点として繁栄した。この町の地理的な特性を見てみよう。
脇町は天正13年(1585)蜂須賀氏の阿波移封に伴い、重臣の稲田氏が治めた城下町であるが、物資集散の商人で栄えた在郷町としての性格が強い。吉野川沿いに東西に延びる撫養街道と高松に抜ける讃岐街道とが交差する交通の要衝であり、近在から集めた特産の藍や絹を土蔵に集積し、ここから吉野川の船に積み替えて徳島へと運ぶ。吉野川沿いの南町通りには、表通りに商家の主屋が、裏側の川に面して土蔵が並び、漆喰なまこ壁と火除けの「卯建(うだつ)」を持つ独特の街並が形成された。
戦後は藍や絹の需要が激減し輸送手段が船から車に変化したためこの街も衰退の道を辿ることとなる。が、失われ行く街並に危機感をいだいた人々により、昭和59年(1984)「脇町の文化を進める会」が発足し、街並保存の機運が高まっていく。その後、国の「手づくり郷土賞」を受賞し、「日本の道百選」にも選ばれたことにより、多くの住民が街並の価値を再認識するようになり、昭和63年(1988)市街地景観条例が制定されるとともに国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されることとなった。
街並保存地区は、南町通りに沿った400m強、5.3haに、伝統的建造物、石垣や井戸、塀等の修景物件が含まれる。建物は平入りが多く、屋根は本瓦葺、二階の窓は虫籠(むしこ)窓となっている。街並を特徴づける意匠はうだつで、隣家との境に漆喰の袖壁と瓦屋根を設け防火対策としているものだ。地区最古の建築は宝永4年(1707)で三百年を超え、昭和にかけて建築された約七割が街並保存の対象となっている。この美しい街並が全戸参加の保存会により一致団結して保守されていることにも価値がある。私は街並調査の基本方針として同じ街を五回見ることを目標としている。ハレの祭り時、ケのオフシーズンの雨や雪の日、平日の夜明け、昼間、夕暮れから夜にかけての五回だ。それぞれに表情が違うので、これらを比較しないとその街が理解できないのだが、脇町は祭り時以外は終了したので、実際どのように表情が違うのかを比較してみよう。冬の早朝、太陽光が真っ直ぐに南町の街並を射る。うだつだけが黄金色に輝き、蒼い世界から黄金の世界へと変貌する感動の一瞬は、寒さに震えながらも体験する価値がある。南町の裏側は吉野川で、船積みに便利な河岸台地を活かして街並が形成された。漆喰の土蔵に朝日が射し黄金色に輝く光景は天空の館の様相である。一部の放置されている土蔵は悲鳴を上げているが壊すにはしのびない。蔵独特のアンビエンスを活かしギャラリーなどの文化施設に利用することは可能だろう。
夕暮れから夜にかけてはどのような情景だろうか。小雪の舞う夕暮れ時に南町通りから西側を望むと、太陽光の陰影が無いためコントラストが減少して街並の細部の表情が浮かぶ。軒線の統一感、うだつの躍動感、シンプルな色調の外壁、一階と二階とで異なる格子のデザイン、自然に近い道路舗装、借景の稜線スカイラインなどが調和して美しい街並が形成されているが、人の気配は無い。
共同井戸がある三角広場は不思議な空間だ。入り隅の三角広場はなぜか心なごむ。イタリアのトスカナにある「塔の街並」として有名な世界遺産、サン・ジミニャーノにある三角広場と対比すると面白い。狭いサン・ジミニャーノの三角広場では音楽家の弾き語りが空間に響き訪問者を心地よく包んでくれる。狭いながらも空間的な安心感、不規則な音の反射が人々に安らぎを与えるのだろうか。芦原信義が『街並みの美学』で「入り隅の安らぎ空間」を論じていたのはこのような空間である。
一方、かつては賑わっていたであろうこの三角広場は、今や井戸水は必需品でなくなり、井戸端会議や買い物で集まる場でもなくなり、コミュニティの結節点(ノード)としての機能が薄れている。近くの脇町図書館は明治時代の土蔵を利用した施設で、それはそれで良いのだが住民向けの機能に閉じているのが惜しい。住民と訪問者が交流でき、住民がこの街並を誇りに感じる施設や機能がもっと必要だろう。徳島出身のアンジェラアキも街頭で歌っていたそうだが、彼女のようなシンガーのライブが似合う広場だと思うのだが。
夜の街並は足元からの照明でとても美しい。照明は高演出性の色彩で統一されており、クラシックで落ち着いたムードが漂う。白壁に井戸のシルエットが浮かび上がる三角広場は映画のシーンのようだ。少し離れたオデオン座は、昭和9年(1934)、回り舞台を持ち歌舞伎も映画も上演可能な劇場として誕生した。750人も収容できる大型施設で、山田洋次の『虹をつかむ男』のロケ地となった。かつて栄えた街には立派な芝居小屋や劇場が残っているが、今やどれも絶滅危惧種となっており、早急な保護策が必要だ。
なお、脇町から10kmほど上流の貞光にも美しい「二段うだつ」の街並が残っている。
藍の文化藍で栄えた街を知るには、藍の歴史と文化を知りたい。うだつの街並を繁栄させた藍とはどのようなものだったのだろうか。30kmほど下流の藍住町に「藍の館」を訪ねてみよう。この施設は、藍商人であった旧奥村家の屋敷13棟と13万点の文書を町が譲り受け平成元年に開館したもので、屋敷、古文書、藍関係の民俗資料を恒久的に保存し学術利用と阿波藍の生活文化創造などを目的として活動している。四国三郎と呼ばれる三大暴れ川の一つ吉野川は、高知県側の上流域で大量に降る雨を集め毎年この地域に洪水をひきおこす。それに伴いナイル川と同様に肥沃な土砂がもたらされる。藍は短期間に生育するが真夏の収穫に向けて灌漑が必要だ。洪水で灌漑設備が壊されるので露天井戸を掘り毎日手作業で灌漑を行う。収穫した葉の裁断は乾燥を避けるため夜通し日の出までに行わなければならないなど、大変な重労働である。収穫した藍を藍納屋で発酵させ、「すくも」として出荷するのだが、藍の成分のうちインディゴホワイトと呼ばれる青い色素はごく微量でしかない。ここ藍の館では全て天然素材を使った伝統的な藍染体験ができる。すくもを大釜に仕込み、発酵菌が活性化するように日本酒などを加え、色素を遊離させるアルカリとして木灰を加えて熟成させる、大変手間暇かかる作業だ。通常の藍染めでは費用の問題から灰汁ではなく苛性ソーダなどの人工素材を利用している。それでも「藍染め」には違いないが伝統的な方式とは言えない。純粋に天然の材料を使用した藍染めは非常に高価であり採算に乗らないそうだ。
釜の内部には藍染の液が満ちており、発酵菌が活性化するよう温度管理に気を遣う。傍に灘の銘酒の一升瓶が置いてあったが、人間様と同様、菌も高級な酒を好み、それをたっぷりと飲んで発酵が進む。表面に藍花が沸き立つといよいよ染め頃となる。そうしてできあがった藍汁に生地を何回も浸し濃い藍色を発色させる。阿波藍は平安時代から栽培されていたと言われているが、除虫菊の有効成分ピレスロイドが含まれており毒虫除けの効果があるので武士のみならず農民にも必需品であった。戦国時代、鎧のおどしなどに需要が高まり、天正13年(1585)以降は徳島藩が積極的に生産を奨励した結果、藍師や藍商から取り立てる租税で藩の財政は大いに潤うこととなる。元禄期以降、全国の木綿生産の増大にあわせ阿波藍の生産も大発展するのだが、明治30年代以降は化学染料の輸入に押され衰退に向かうこととなる。
今日の藍ブームは、天然染料の藍と天然繊維のオーガニックコットンとの組み合わせがアレルギーに良いこと、シンプルな藍色がインテリア用品として現代人の生活に調和することなど、合理的理由で見直されているからだろう。藍に含まれるトリプタンスリンという物質にアトピー性皮膚炎を引き起こすマラセチア菌を抑制する効果やアレルギー反応を抑制する効果があることが医学的に確かめられたことで今後への期待も高まる。
一方、海外での藍の文化といえばジーンズを語らない訳にはいかない。ジーンズが害虫やガラガラヘビ除けとしてゴールドラッシュ時代の鉱夫にもてはやされるのは、日本よりもずっと時代が下って19世紀中頃のことである。戦後、白洲次郎によりジーンズがおしゃれ着となり、ジェームズ・ディーンの『理由なき反抗』でジーンズが大注目を浴びるのは1955年のことだ。ジーンズがアメリカンカルチャーの代名詞だとすれば、日本の藍染めは日本文化の中核の一つである。
藍の文化でまちおこし脇町は美しい街並ではあるが、まちおこしはこれからの課題だ。 全国の伝統的な街並のうち、伝統工芸や伝統産品と結びついて活性化している事例はそれほど多くない。コミュニティ・エンパワーメントの観点から、他人任せではなく住民自らまちおこしを実践することが肝要だ。脇町だけのまちおこしを考えても無理で、藍をキーワードとした文化につながる地域と人々が連携した「藍ブランド」の戦略を構築する必要があるだろう。
例えば、藍栽培農家、藍商の屋敷、機織りや藍染体験などを一体とした体験プログラムを作り、口コミでプロモーションするなど、ニッチだけれどもリピート性の高い高品質志向の人々との細く狭いネットワークを形成するのだ。地元の人が気付かなかった伝統的価値を都会人や外国人が発見することもある。そのような人たちとの交流を通じ、自分たちの価値に気付いた若者を中心に新しい後継者やビジネスが育つのだろう。
染絞りの街並として有名な名古屋の有松も藍と深く関わるし、世界文化遺産に登録された結城紬は絹を藍で染める超高級ブランドだ。有松は浮世絵でも馴染み深いが、『東海道中膝栗毛』でも有名だ。「有松にいたり見れば、名にしおう絞りの名物。いろいろの染地。家ごとに吊るし飾りたてて商う両側の店より・・・・」と描かれたが、弥次さん喜多さんはあまりの高額に金子が足りず、手ぬぐいのみを買い求めたそうである。
このように、ジーンズや手ぬぐいなど消費者に身近なところから藍の文化に入り、その上流を遡って全国全世界での藍文化をつなげることが理想的であろう。「世界藍文化サミット」や「藍文化ファッションショー」などのイベントが脇町や有松や結城で開催されれば、訪問してみたい人は多いのではなかろうか。そのヒントの一つが石川県野々市市、喜多家の藍染めの暖簾だ。土間の傍にサンローランのドレスのポスターが飾ってあり、この暖簾がデザインモチーフとなっている。また、新潟十日町の「きもの祭り」や京都の着物レンタルのように老若男女の着物姿が脇町の通りに溢れるイベントを開催すれば盛り上がるのではなかろうか。
このように、脇町のまちおこしポテンシャルは高いと思うが、現状はいまひとつ盛り上がりに欠けている。この美しい町に宿泊して夜の街並を楽しみたいと思っても手ごろな施設が無い。夜は全ての店が閉まっており人通りはほとんど無い。古民家を利用した民宿や食事処、ライブ感漂う施設などの躍動感が欲しいと思う。もっと条件の厳しい街並にもまちおこし施設は数多くあるので、試みに数軒をそのような施設に利用してみてはいかがだろう。昼間だけの訪問と宿泊とでは得られる感動の質も量も違う。宿泊者は住民との交流で藍を深く知ることができ、藍の文化に関連する土地を巡礼するきっかけが得られるだろう。
街並が荒れる原因となるようなテレビ番組や全国どこにでもある流行の店を誘致して集客するのではなく、住民自らの手で、古い街並が好きな人々や藍と文化に関心がある人々、あるいは山田洋次などの映画に関心が高い人々など、この町への協調度が高い人々の小さなネットワークとビジネスを創るのであれば、プロモーションの費用もかからずに始められるのではなかろうか。徳島には、藍の他にも、砂糖の和三盆、すだち、阿波人形、霊場巡礼の遍路道など、国内外を問わず人々のライフスタイルに影響を及ぼす貴重な文化財があり、それらを基盤としたまちおこしが求められている。まさに「財(たから)」が眠っている土地と言える。
■ 2007年12月 雪の日の夕暮れ時
Dec.2007 瀧山幸伸 source movie
脇町から、南側剣山方面を望む
南町 通りから西側を望む
夜の南町
■ 2003年12月 早朝の南町
Dec.2003 瀧山幸伸 source movie(1280x720pixel)
南町の裏側は吉野川。
日の出時の街並。
オデオン座
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