東京都港区 麻布十番
Azabu juban,Minatoku,Tokyo
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Nov.27,2018 柚原君子
きみちゃん像と童謡『赤い靴』
所在地:東京都港区麻布十番
赤い靴 はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 考える
(野口雨情作詞・本居長世作曲) 1922年発表
赤い靴を履いていた女の子の名前は「岩崎きみ」。1902(明治35)年7月に静岡県で生まれています。母親は「岩崎すみ」。事情があって母子で北海道に渡ります。母はそこで開拓農場に入植する鈴木志郎と再婚することになり、開拓民の苦しい生活にまだ3歳であったきみちゃんを連れて行くよりはと、アメリカ人宣教師に養女に出します。夫婦は懸命に働きますが呼び寄せた実弟を病気で亡くしたり火災にあったりで努力の甲斐無く札幌に戻ることになります。
すみの夫、志郎は北鳴新報という新聞社に勤めます。そこで野口雨情と同僚となります。野口雨情は自身も我が子を幼くして亡くしていますので、小さな我が子が自分の元からいなくなった悲しさを共有し、後に歌詞の核が出来たのではないか、また母親すみも宣教師に我が子の幸せを託したことを寂しさと安堵の気持ちをないまぜにしながら雨情に語ったのではなかろうか、と想像されています。
しかし、アメリカで幸せに暮らしているだろうと信じた母すみの思いとは裏腹に、
きみちゃんは当時は不治の病といわれた結核にかかり、宣教使ヒュエット夫妻と一緒に渡米船に乗ることはできなかったのです。そして東京のメソジスト系の教会(麻生の鳥居坂教会、現在の麻布十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地に女子の孤児を収容する孤女院があったことは、「麻布区史」に明記」)の孤児院に預けられて1911(明治44) 年9月、一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じます。
童謡が発表されて50年後、赤い靴の女の子が実在していたことがわかります。
「野口雨情の『赤い靴』に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」という投書が北海道新聞の夕刊に掲載されたのがきっかけです。投書の主は岡そのさんというきみちゃんの義理の妹にあたる方。それを受けて、北海道テレビ記者の菊地寛さんが5年あまりをかけて真実を追究していきます。母親の出身地静岡県静岡市清水区、父親の出身地である青森県、移民として入植していた北海道各地の開拓農場跡、横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って異人さんと歌われた宣教師を捜す、というたゆみない努力取材の結果、ついに実在が証明されます。
今、麻布十番の商店街の緑道にきみちゃんは幼子の面影を残して立っています。
違う時代に生まれていたら不治の病といわれなかった結核、北海道の開拓農民として移植政策の無い時代であればまた違う人生が待っていたかもしれないきみちゃんです。
抱きしめたくなるような像でした。
像は佐々木至作。頭部と足はブロンズ・胴部分は赤御影石、1989年2月完成。
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