JAPAN GEOGRAPHIC

東京都調布市 下布田遺跡

Shimofuda iseki, Chofu city,Tokyo

Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water
 
 
 Flower
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 


May 5,2017 瀧山幸伸 source movie

1. 史跡の位置と立地

史跡下布田遺跡は、市域南部の調布市布田六丁目に位置し、多摩川中流域左岸に発達した立川段丘(武蔵野台地の一部)の縁辺から多摩川沖積低地にかけて立地しています。都心近郊にありながら、史跡周辺には今でも田畑が残り、現地は、府中崖線の樹木と段丘地形が良好な状態で保全されているため、遺跡も良好な状態で保存されています。

2. 史跡指定に至る経緯

下布田遺跡では、昭和39年から46年にかけて、國學院大學久我山高校考古学部や旧都立武蔵野郷土館(現江戸東京たてもの園)によって小規模な学術調査が繰り返し実施されました。その結果、土偶・土版・独鈷石・石剣・石刀・石冠などの呪術的遺物とともに、石棒祭祀を物語る特殊遺構や紅バラの大輪を思わせる赤く塗られた滑車型土製耳飾(国指定重要文化財)が出土し、南関東では数少ない縄文時代晩期の遺跡として広く知られるようになりました。

調布市教育委員会は、遺跡の恒久的な保護に向けて昭和53年度から57年度の5か年間、国庫補助事業による範囲確認調査を実施しました。その結果、新たに、方形配石遺構や合口甕棺墓などが確認され、遺跡の重要性がさらに高まりました。これらの調査成果により、下布田遺跡は、縄文文化終末期の墓制や祭祀をはじめとする精神文化を探り、狩猟採集社会から農耕社会へと移行する複雑な社会構造を究明する上で重要な遺跡として評価され、昭和62年5月12日に遺跡南部の約5000平方メートルの地区が国の史跡に指定されました。

その後、平成6年から20年にかけて実施した数次にわたる範囲確認調査において、史跡東側の地区で縄文時代晩期の遺物包含層が確認されたほか、史跡南側の府中崖線下の多摩川沖積低地では、水漬け状態の良好な遺物包含層が確認され、縄文土器や石器類のほかに、骨類(ニホンジカの臼歯・焼骨)や杭状木製品、クリ・オニグルミ・ムクロジなどの種実遺体が出土するなど、湧水を利用した縄文人の生活痕跡の広がりが想定され、既指定地との連続性が確認されたため、平成17年3月2日と平成23年9月21日にあわせて約7000平方メートルの地区が追加指定されました。現在では、約13,000平方メートルが史跡に指定されています。

3. 主な遺構と遺物

特殊遺構

長軸175センチメートル、短軸135センチメートルの五角形状の土坑内から、大小40数個の河原石とともに、10数本の石棒、破損した磨製石斧、石皿の破損品を利用した凹石、土器片を再利用した装身具などが出土し、日常生活からかけはなれた石棒祭祀的な色彩の濃い特殊な遺構と考えられています。

縄文晩期の遺構であるにも関わらず石棒は中期から後期のもので、装身具は中期の勝坂式土器や後期の堀之内式土器の把手を磨いて作っています。晩期の人々にとって中期や後期の石棒は極めて特別なものと認識され、これを崇拝する祭祀的な行為が行われていたと考えられます。

方形配石遺構

人頭大の河原石を幅1.7メートル前後の帯状に並べ、長辺6.5メートル、短辺6.1メートルの方形区画に配列した遺構です。少なくとも600個以上の河原石を使用しています。配石中央部から幅約1メートル、長さ2.8メートル、深さ0.2メートルの土坑が検出され、中から副葬品と考えられる長さ38センチメートルの石刀が出土したため、祭祀を司る有力者の埋葬施設と考えられています。しかし、帯状の配石は南・北辺の中央部が通路状に途切れ、しかもいくつかの小単位に分かれているように見えることから、配石下部に複数の墓壙が存在する可能性も考えられます。祭祀的な性格を兼ね備えた有力者の個人墓なのか、共同墓地かは今後の検討課題と言えます。

合口甕棺墓

2個の大型土器を組み合わせたもので、長径85センチメートル、短径40センチメートルの楕円形を呈した掘り込み内に、横位で埋設されていました。身に使用された土器は口径33センチメートル、高さ51センチメートルの深鉢で、それとほぼ同じ大きさの深鉢の口縁部を打ち欠いて蓋にしていました。土器の中からは炭化物、焼土とともに骨片と考えられるものが認められました。子ども用の墓と考えられますが、成人の骨を改葬した可能性もあります。

配石埋甕墓

長径100センチメートル、短径80センチメートル、深さ30センチメートルの、ほぼ円形を呈した土坑内に底部を打ち欠いた口径30センチメートルの無文の深鉢と河原石が埋設されていました。土器は、壁に沿って正位の状態で埋設され、河原石は土器を囲むように配置されていました。土坑と埋甕の埋め土中には焼土、炭化物、骨片が多量に認められました。骨片の遺存状態が悪く、人骨とは断定できませんが、当時の葬送儀礼を考える上で興味深い出土例です。

土製耳飾(国指定重要文化財・江戸東京たてもの園所蔵)

旧都立武蔵野郷土館の第1次調査で出土した、直径9.8センチメートル、重さが75グラムの日本で最大級の土製耳飾で、耳たぶに穴をあけて装着しました。群馬県桐生市の千網谷戸遺跡から同様の土製耳飾が数多く出土しており、下布田遺跡との関係性を窺うことができます。

石冠・石剣・石刀

縄文時代晩期の呪術的な石器です。石冠は、冠帽に似ていることから名付けられました。石剣は、断面がひし形・レンズ状で、石刀は、楔状を呈するものです。いずれも用途は不明ですが、祭祀などに使用する道具と考えられます。右から2本目の石刀は、方形配石遺構の中央部から出土しました。

土版

縄文時代中期から晩期にかけて、主として東日本で作られた土製品です。下布田遺跡の土版は長さ約10センチメートル大の糸巻状や人形状を呈し、扁平で両面に文様があります。護符として用いられたと考えられています。

(調布市)

現状、現地の整備はされていない。

         

狐塚古墳

   

 All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中