東京都中央区 勝鬨橋
Kachidokibashi,Chuoku,Tokyo
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中央区築地6丁目 勝鬨橋 重文 近代/産業・交通・土木 昭和 昭和15(1940) "鋼製跳開橋、橋長246.0m、跳開部分幅員26.6m、固定部分幅員25.8m、石造高欄付、袖高欄附属鋼製鈑桁2基(門構4基を含む)、鋼製タイドアーチ2基、(門構2基を含む)、鉄筋コンクリート造橋脚2基(橋脚塔4棟を含む)、鉄筋コンクリート造橋台2基、跳開装置一式よりなる" 20070618
Nihonbashi cruise
2011.9.14撮影 昭和15(1940)年の建造
鋼製跳開橋、橋長246.0m、跳開部分幅員26.6m、固定部分幅員25.8m、石造高欄付、袖高欄附属
鋼製鈑桁2基(門構4基を含む)、鋼製タイドアーチ2基、(門構2基を含む)、鉄筋コンクリート造橋脚2基(橋脚塔4棟を含む)、鉄筋コンクリート造橋台2基、跳開装置一式よりなる
命名の由来
『明治38年、日露戦争の戦勝(旅順要塞陥落)を記念して、京橋区民がこの地(築地市場内、波除神社の辺り)に渡し船場を設けて「勝鬨の渡し」と命名。
東京市に寄付しました。昭和8年6月、東京市は新たに双葉可動(動くしかけ)橋架設に着手し、昭和12年、シナ事変勃発後も「勝鬨」の名称で続行して、『皇軍戦勝の記念とする』と、橋の袂に昭和15年の東京市長、大久保留次郎署名の記念碑があります。
勝鬨の渡しは月島の工場に通う人々の重要な手段になり、月島が工業地帯として発展する基となったそうです。
戦勝にまつわる「勝鬨」は「鬨の声を上げて合戦!」と時代小説にもよく出てきます。
合戦における宣戦布告は軍使が相手方に赴いて正当性を主張します。そして自軍に帰り鏑矢を射ったのちに「鬨の声」を両軍高らかに発して、神様に正当性を誇示した、とものの本にはあります。合戦の後に勝った方があげるのが「勝鬨の声」というわけだそうです。
ちなみに、鏑矢を発する時のブーンという音は邪悪を祓うと古来より考えられていて、戦の場を清めるためにも射られたそうです。所在地:東京都中央区の隅田川、晴海通りに架かる橋。
形態 : 長さ240メートルの可動橋(跳飛橋)。可動部はシカゴ型双葉飛開橋、固定部はソリッドリブタイドアーチ橋(ソリッドは固体または堅固、リブは助骨の意味)。
着工:1933年(昭和8年)6月。竣工:1940年(昭和15年)6月。
跳開歴史:1940年の開通より1953年頃までは1日に5回、1回につき20分開いていた。
高度経済成長で道路交通量が増大したことや、また上流に佃大橋ができて積荷の航行が乾倉庫にほぼ限定されたために、勝鬨橋の開閉回数は年100回を下回るようになった。
1967年最後の跳開。その後は年に1度試験跳開。1970年11月29日を最後に跳開停止。1980年には電力も停止された。
1.豊洲→銀座方面に向かって・正面より
2.豊洲→銀座方面に向かって・左側より
3.豊洲→銀座方面に向かって・右側より
4.銀座→豊洲方面に向かって・正面より
5、銀座→豊洲方面に向かって・左側より
6、銀座→豊洲方面に向かって・右側より
7、隅田川テラス月島側より
隅田川テラス月島側、南より
隅田川テラス月島側、北より
8、隅田川テラス築地側より
9、勝鬨橋周辺風景、佃の渡し・湊・月島・古家屋
10、夜景(聖路加タワーより)(2007年6月分)
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