JAPAN GEOGRAPHIC
東京都中央区 銀座
Ginza,Chuoku,Tokyo
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明治以降の文化が至る所に |
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Dec.18,2018 柚原君子
丸の内、銀座、汐留クリスマス
1.丸ビル
2,JPタワー
3,JPタワー屋上庭園から東京駅
4,三菱一号館絵画館広場
5,マリオンから銀座四丁目交差点
例年ですとソニービルには縦型のツリーが映し出されているのですが、今年はビルそのものが解体されて無し。2年後くらいにソニービルは建つ予定だそうですが、現跡地は広場になっていてラジオ番組のイベントが行われていました。銀座はハンバーグの名店が多い。不二屋横の「数寄屋バーグ」はすごく狭い店内ですが、四級五級クラスの牛肉のハンバーグは絶品です。
6,丸の内グローバルスタイルツリー&ザ・ペニンシュラホテル
グローバルスタイルツリーは引き締まったサンタさん(らしき)がピリッと寄り添うツリーです。ザ・ペニンシュラホテルは入口の屋根にも可愛いサンタさんが。あまりにも高級ホテルでドアマンも直立!中にも可愛いクリスマスツリーがありましたが、ロビーに入る勇気はありませんでした。車寄せ前にはまゆ玉のようなものがツリーに形作られていました。後日PCに紹介されていた映像はいろいろな色のまゆ玉になっていました。まゆ玉ツリーの横には茶色のベアーや動物たち。かわいいクリスマスという感じのザ・ペニンシュラホテルでした。
7,和光〜山野楽器〜日産ビル
和光のシロクマは毎年見とれてしまいます。ぼんやりした目が癒やし系でゆったりと座る姿に日常のストレスが解消されそうです。山野楽器は昨年と同じ。本物のもみの木のようですね。ミキモトはツリーらしくないものがwindowに装飾されていましたが、あとでネットで見たらそれもツリーだった様子。1枚パチリと撮っておけばよかった、と後悔。
和光向かいの日産は江戸切り子のデザインビル。日産日産と連日ゴーンさんニュースですがクリスマスはガラス窓に映し出される雪の結晶の変化です。ビルの中の光をいつもより少し落として下されば見やすいのになぁ、と思いました。
8,鳩居堂〜TASAKI真珠
鳩居堂のウィンドーは既にお正月模様。いつもそう。来年の干支の猪さんがいました。
フェンディーは訳が分らないデザインのツリーです。ちょっと不気味。どのような意図か訊いて見たい……。TASAKI真珠は真珠で飾られたツリー。シンプルですが総額いくらになるのかと計算しつつ(笑)向かいのヤマハへ。ヤマハは檜のチップのツリー。とても良い香りがしました。装飾は松ぼっくりのみ。スワロフスキーはきれいなツリーでしたが撮影ごめんなさいで、没にしました。残念!
9,銀座町並み通りのイルミネーション
今年は汐留カレッタまで足を伸ばす予定にしたので、銀座のそれぞれの通りのクリスマス飾りはパスして撮れるところだけにしました。クリスマスの頃の銀座の通りはそれぞれのカラーがあっていいものです。
10,カレッタ汐留
11,カレッタ汐留ビル46F展望台より夜景
Dec.25,2017 柚原君子
Nov.10,2016 柚原君子
Sep.2016 柚原君子
Apr.15,2015 瀧山幸伸 source movie
Jan.2015 柚原君子
1、ヨネイビルディング
東京都選定歴史的建造物
所在地:東京都中央区銀座二丁目8番20号
設計者:森山松之助 建設年月日:1930(昭和5)年
構造・規模:木造一部SRC造6階建
概要:調和性を重視した「ストリートアーキテクチャー(ストリート建築術)」の一例。
1920年代から昭和初期まで、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象を取り入れたモダンガールやモダンボーイと呼ばれる先端的な男女が、銀座を闊歩していた頃に建築されたオフィスビル。1階の外壁は、建築当時の状態をよく残していて、中世ロマネスク風の意匠で、ラセン模様の柱をとつつけた大小のアーチ窓が石張りの重厚な壁面に軽快な印象を与えている。全体に調和性を重視した意匠で、突出したー直線の帯状の装飾により輪郭をきっちり枠どりしている。(「東京都生活文化局」HPより一部引用)
丁度工事中で全体像がすっきりとは撮れませんでした。時折着物姿の女性が通りますととても絵になるビルでした。入り口踊り場附近より少しだけ内部を撮らせていただきました。
2、鈴木ビルディング・近辺の家
東京都選定歴史的建造物
所在地:中央区銀座一丁目28番15号
設計者:新定蔵・山中設計事務所 建設年月日:1929(昭和4)年
構造・規模:RC造5階建
概要:所在地は江戸時代は芝居小屋が多く立つていた町で、戦後間もなくは木挽町と呼ばれていたところです。近くに歌舞伎座や新橋演舞場、少し離れていますが新富座(現在の京橋税務署あたり)などがありましたので、公演会や稽古場に貸し出せるように二階に広い舞台のある貸席建築となっていて、当初は「甲子屋倶楽部」という歌舞伎の練習場だったそうです。建築時の三階は住居だったようですが、現在はスタジオや稽古場などの賃貸になっています。ビルの中に階段が二ヶ所設置されてあり、内部は複雑です。外見は4つの馬蹄形をもつ銅版葺きの屋根。縦長の出窓や丸窓などが取り入れられてあり、一階円柱の幾何学的レリーフなど「うっ!」と思うようなデザインです。アールデコ調のタイル張りなど、内部の壁に用いられている布目タイルなども特徴的です。山中節治が兄・関根と共同設計を手掛けた、函館海産商同業組合事務所(大正9年築)などとも相通じる味があるそうです。この界隈にはその他にも味のある一戸建てが多く、つい写真を撮ってしまいました。鈴木ビルディングのすぐお隣の家も、昭和ロマンのような風情があります。また少し離れた家にも「木挽町」という昔の町名のプレートが残っている古い家もありました。表通りに出たら、古風な喫茶店の家もありました。見上げると、元はお茶を売るお店であった表札が残っていました。銀座の最先端のビルの脇に古風な家という景観が多くあり町歩きを楽むことができます。
3、舞踊足袋処 大野屋総本店
東京都選定歴史的建造物
所在地:東京都中央区新富2-6-13
東京都選定歴史的建造物に登録された年月日は2014年4月。まだ最近のことです。200年前の江戸時代、安永年間(1772-1780年)に初代 福島美代吉が三田に装束仕立屋として創業したのが始まりです。1849(嘉永2)年に現在の中央区新富町に移転して160余年が経過しています。現在の建物は1924年の関東大震災後すぐに建てられたもので、その後の戦災は免れ、数少ない戦前の町家建築として貴重なものとなっています(1955年頃改修有り)。
構造は木造二階建、切妻造桟瓦葺で重厚な甍棟を積んでいます。一階は店舗として、二階で足袋製造を行っているそうです。上下階とも軒が高く、外壁はささら子下見板張。二階窓は出桁造としています。江戸の町割りそのままの間口で作られた、典型的な町家店舗建築の様式です。
「舞えば足もと、語れば目もと、足袋は大野屋総本店」という唄が残っているそうです。
歌舞伎役者、舞踊家、能役者、茶道家や演歌歌手、花柳界などがお客様で、既成品からオーダーメイドで仕上げまでを行う特別誂え品の足袋などを扱う商店で、5代目の福島福太郎氏が開発された、足を美しく見せる「新富形」という足袋が特長だそうです。
4、三吉橋
昔の築地川に架っていましたが、川が埋め立てられて高速道路になってしまったので現在は陸橋になっています。
徳川家康が入場した頃の江戸城は海岸の淵にあったといいます。そしていたるところ葦の湿地であったそうです。江戸城完成時の市民30万人から江戸最盛期には居住区は三倍となり人口も130万人となります。関東に唯一あった塩の生産地である行徳と結ぶために、まずはじめに小名木川、新川の運河が作られます。その後も江戸市民の生活を支える為に、市街地の造成、埋め立て、掘割、運河造成が繰り返されていきます。江戸の運河は平坦な地では直線に、台地内では地形の谷を利用しているので曲線状になっているそうです。
銀座1丁目2丁目の境に掛る三吉川も複雑に曲がる築地川(江戸時代の初期に築地の埋立てが行われた際に造られた堀割り)の上に架けられた橋です。
説明板には「この橋は築地川の屈曲した地点に楓川と結ぶ水路(楓川、築地川の連絡水路)が開削され、川が三つ又の形となったところに、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年12月に三つ又の橋が架けられました。ここに川が存在し、人々の暮らしも川中心に営まれ、川筋を酒、荷物船が通った情緒ある風景も今は埋め立てられて、高速道路と化し陸橋となりました。平成4年に鈴蘭灯などを当時のままに復元して一部撤去されていた歩道も復元しました」とあります。1962(昭和37)年に 「築地川」が埋立てられて高速道路になる以前は、眺めのよさや珍しい形の橋として東京の名所であったそうです。
高速道路に落下するものを防ぐためでしょうか、橋の欄干にしては少し高さのありすぎることが少し残念に思えます。
5、ブルガリ・シャネル・デビアスビル
銀座松屋の対面にあるブルガリの今年のデザインが目を引きました。斜め向かいのシャネルビルに写りこむ角度もきれいです。ブルガリからプランタンに抜ける道路に面して右側にあるのがデビアスビル。曲面がきれいで眩暈がしそう。設計は光井純氏。多くの受賞歴のある方です(ULI
AWARD for Excellence/愛宕グリーンヒルズ 2003年受賞。 AIA CONNECTICUT DESIGN AWARD/国立国際美術館 2005年受賞。
BCS賞/日本橋三井タワー 2005年受賞。 グッドデザイン賞/オーバルコート大崎2001年、青山パークタワー2002年、東京国際空港(羽田)第二旅客ターミナルビル2004年、日本橋三井タワー2005年、パークタワー品川ベイワード2006年、三井ガーデンホテルプラナ東京ベイ2007年、パークシティ浜田山2010年受賞※受賞に関する参考資料:ウィキペディア)
Dec.2011 野崎順次
銀座夜景
(Night View of Ginza, Chuoku, Tokyo)
撮影日: 2011年12月20日プランタン、マロニエ道、松屋、和光、少し松坂屋方面に行ってから戻り、阪急方面へ。
宝くじ売り場の人だかり。
Sep.2011 柚原君子
金春通り
Konparudori
所在地:東京都中央区銀座8丁目
人一人がやっと通れるような路地を抜けると、銀座の柳が見える明るい通りに出ますが、ふと振り返ると路地の奥に人が入っていくところ。板前さんや仲居さん、宅急便のお兄さん、着流しのおじさん……華麗とバタ臭さが細い絹糸で仕切られているようなそんな雰囲気が銀座には所々見られますが、この金春通りもその一つです。
江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことから「金春通り」(こんぱるどうり)と名付けられています。
江戸時代、能役者たちは幕府直属として土地や俸禄を与えられて守られていました(身分としては幕府御用達の町人)。金春・観世・宝生・金剛の四家があり、その中でも最も歴史のあったのが金春家と言われています。
明治政府は、江戸時代に火事が多かったことからその用心のために、当時の国家予算の4%に匹敵する費用を投じて、銀座に延べ約10kmにわたる煉瓦街を造り上げます。関東大震災で焼失して現在では残っていませんが、一部の遺構が昭和末期に発掘されて両国にある江戸東京博物館に保存されています。それを記念して金春通りには小さな煉瓦造りの家と説明の碑があります。
細い路地と御稲荷さんもある能役者の住む「金春」は幕府直属ではありましたが、身分は町人でしたので、芸事の関連で芸者さんも住むようになり江戸芸者の草分け的存在となる「金春芸者」も仕事として成立するようになり、昭和40年頃までは花街としても栄えた場所です。
金春通りにある銘板の色は青色に緑がかった色で、「金春色」といわれて、芸者衆の間で流行した色だそうです。
毎年8月7日には「能楽金春祭り」が行われて路上で金春流宗家が自ら能楽を舞う姿が見られます。当日の夕方頃には着席券も配布されるようです。お出かけしてみてください。
May.2010 撮影:柚原君子
銀座 三原橋
Ginza Miharabashi
「途中入場できます」
今時の映画館は座席の予約をしてから出かけるのが普通。そのシステムのない映画館は開始時間前に行くと通路や階段脇に並ばされる。並んでいると分厚い扉の奥から音楽が漏れてきて、クライマックスの盛り上がり感が伝わってくる。いづれにしても入れ替え制なので途中では入れないようになっている。それなのに、<途中から入れます>の看板を銀座三原橋地下道の映画館で見た。へぇ、今時珍しい看板!思わず写真を撮ってしまった。三原橋の下が通路になっていて飲食店や床屋さんや映画館があるなんてそれだけだって珍しいのにね。しかし閑散とした様子でした。
昔の映画館。ほとんどどこも混んでましたね。人々がお正月のお飾りのように三段重ねになって観ている状態でしたよ。座頭市なんか観ている人達もみんな斜め上白目むいていて、子供心に怖かったです。通路にも人がしゃがみこんでいて、すごいきゅうくつ感。消防法なんてどこ吹く風。人ごみ疲れているのに、一本目が終わるとキョロキョロして席を探さなければいけない。なんせ三本立てなので。いやはや、かなりの体力がないと映画は観られなかった昔。でもね、何か懐かしいです。人と人との間がそれほど離れていなくって、あったか感がありました。それになによりも数少ない娯楽に貪欲でしたから、根性こめて映画を観ていたものでした。
祖母が大川橋蔵と三波春夫の大ファンで(けっこう面食いじゃん)、真っ白に顔を塗った(と、当時小学生だった私は思った)三波春夫のチャンチキオケサと俵星げんばの♪槍を蹴立ててサクサクサク!なんて場面を小学生の身で歌舞伎座ぶよく行きました。(俵星現場の朗局長のところも含めて全部歌える子どもでした。
その関係で初めて見た映画は大川橋蔵の『雪之丞変化』←誰か知っている人いますか(笑)。大川橋蔵の女形は子供心にもきれいだなぁと思った。この映画も通路に人があふれ、祖母の傍らで立って観たことも多かったです。
父は私たち子ども三姉弟妹を浅草六区街によく連れて行ってくれました。映画が混んでいると父の膝に弟と妹が順番に座り、アイスクリーム売りがくると買ってくれました。映画が終わると、父は洋画が好きだから字幕が読めない私たちは連れて行かれないと、私と弟と妹を三人セットで歩いて家に帰るようにいつも言いましたが、大人になって考えてみると、父はストリップショーを観にいったのに違いないと、確信を持っています。ところで、映画が終わると出演者や関係各位の字幕がどんどん流れ出ます。邦画は読めるので、へぇ、撮影地は矢張りあそこだったのね、まぁ、何とかホームの方々が協力されたのね、と撮影の背景を楽しみながら余韻に浸ります。洋画の場合はほぼ確実に読めないので(笑)、読む振りしながら音楽の余韻をひたすら楽しむことにしています。
映画を観る流儀としてそれらが全て終わってから、ぼーっと灯りがついてからさてと席を立つのが映画を観るマナーだと思うのだけれど(そういう楽しみを持っている人の邪魔をしないように、まっ静かに座ってとも角明るくなるのを待つ。途中でドタバタ帰るんじゃないよ、と……思うのだけれど。いつでも入れますの映画館は……どうなっているんだろうか……。
銀座三原橋下南側入り口附近
頭上は三原橋、晴海通り
銀座三原橋下北側入り口附近
晴海通りより
Nov.2010 瀧山幸伸
銀座からくりモニュメント
Apr.2010 撮影:柚原君子
Nov.2009 撮影:柚原君子
日曜日の銀座ソニービルのクリスマスカラーです。
遠景の三越の大画面にもクリスマスツリー。
ダブルクリスマスツリーでした。
銀座を歩く人々の足の速さが少し気になりました。
銀座といえばそぞろ歩きです。そぞろ歩きしなければ、衝動買いはできません(笑)。
足早なのが景気悪いことの現われなのかしら……。
銀座ソニービル
並木通り
ミキモト クリスマスツリー
June 2007 撮影:柚原君子
May 2006 撮影:瀧山幸伸 source movie
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