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東京都千代田区 学士会館

Gakushikaikan,Chiyodaku,Tokyo

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Sep.1,2020  柚原君子

学士会館(登録有形文化財) 「東京大学発祥の地」

所在地:東京都千代田区神田錦町3-28

鉄骨鉄筋コンクリート造地上4階地下1階建、建築面積1839㎡ 

施行は戸田建設(当時の戸田組の社長が東大卒の縁で)

『ホール,サロン,宿泊施設などの機能を持つ。SRC造による関東大震災後の復興建築で,玄関の半円大アーチやスクラッチタイルの外観,窓廻り2・3層の直線基調と4層の曲線基調の対比などに特徴がある。設計は佐野利器と高橋貞太郎(増築部は藤村朗)。

学士会館は、関東大震災後に建築された震災復興建築となります。外壁が昭和初期に流行したスクラッチタイルで覆われた4階建ての旧館は1926(大正15)年6月に着工、1928(昭和3)年5月20日に開業いたしました。総工費は約106万円。関東大震災の教訓をいかした、当時では極めて珍しい耐震・耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造りとなっています。建築推進の中心となったのは、日本の耐震工学を確立した佐野利器氏。設計者は彼の門下生でもあり、 日本橋高島屋や帝国ホテル新館などを手掛けた高橋貞太郎氏です。旧館を尊重するかのように一歩後退して建つ5階建ての新館は、1937(昭和12)年9月20日に増築開業いたしました。総工費は約60万円。設計者は藤村朗氏です。学士会館の地盤の基礎には約1300本の松杭が打ち込まれていますが、近年行われた松杭の調査では腐朽は全く見られませんでした。その際、切り出された松杭の一部は、現在会館1階の談話室に展示されています。斬新、かつモダンで重厚な雰囲気は、85年以上を経た今も大事に継承されており、2003(平成15)年1月、国の有形文化財に登録されました。』(学士会館HP 全文転載)

学士会館の正面入口はまろやかなアーチ状。入口左横には戦時中の金属供出で失われた大灯籠が平成15年に復元されて鈍い蒼さで立ち、昭和初期の建物により一層のレトロ感を添えています。交差点を渡った位置から見ると、後方の増築部分が隠れ、建設当時の姿そのままになります。

設計と構造は鉄筋コンクリート構造の確立者・東京帝国大学[東大]建築学科の教授である佐野利器氏、デザインは高橋貞太郎氏が手がけていますが、デザイン・コンペティション(コンペ)における一等当選の作品が元になっているといわれています。

※スクラッチタイルとは、縦方向に櫛で削ったような溝を刻んだタイル

※高橋貞太郎氏のスクラッチタイル他作品は、東京都近代文学博物館、日本橋高島屋

昭和初期は、宿泊施設、食堂、集会室、談話室等のある建物に、一定の条件を備えた人々が交流の場として集う社交クラブができはじめた頃で、当時の学士会館を紹介した建築学会発行の雑誌には「帝国大学卒業生のみを会員とし、其全般の 交驩こうかん 集会其他の中央機関たらんとする目的で生れた会館。通常の実業家或は一部資産家のみの組織する単純な社交倶楽部とは自ら趣を異にする。簡素質実は常に全体の設計に考慮された事であるが、然かも端麗にして、冒し難き気品を有し、会員が社会に対して恃すべき態度其のものを会館の外貌として居るので、古典建築の有する雅味と、荘重と、近代建築の有する気品と明快と、此の四つの要素が調和されて、新会館の様式が生れ出たのである」と、特定の人々が集う場として説明されています。

建物の中に入るとすぐ目に付くのは柱。何かしらのデザインかと思いますが、実はテラゾーという人造石を鋲で止めたものです。これは当時のオーストリア・ウィーンの建築に見られた流行で、クラシカルな柱を抽象化して表現した、二〇世紀初頭のハイカラなデザインとみられます。

地下に通じる階段もレトロ。床屋さんがあるようで人の話し声がするので営業中のようです。最上階には現在でも会員の方のみが利用できる談話室などが現存しています。

階段の大理石、カウンターのある前の柱の株のタイルもきれいです。

踊り場やトイレ前のステンドグラスは洒落ています。中でもテレビドラマ『半沢直樹』の撮影にも使われた2階にある大きな会議室は荘厳ともいえる造りで、鹿鳴館の繰り広げられる舞踏会も想像できる程の豪華さで圧倒されます。

1階には営業中のレストランが二軒あり、ランチ時に利用しましたが、美味しいお料理屋さんでした。またロビーにはお弁当屋さんが出るなど、近隣のオフィスからの出入りもあり、若干薄暗いとは言え建設より80年以上も経っている建物が生き生きと動いている感がありました。

正面玄関左植え込みには「東京大学発祥の地」 の石碑があります。

『我が国の大学発祥地

当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。すなわち、明治10年(1877)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。創立当所は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられていた。明治18年(1885)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年までに本郷への移転を完了した。したがって、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。明治19年3月東京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の6分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名づけられた。更に、明治30年(1897)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。爾後明治40年に東北帝国大学、明治44年に九州帝国大学、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪帝国大学、昭和14年に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正13年に京城帝国大学、昭和3年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。昭和22年(1947)に至って、右の7帝国大学はそれそれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。明治19年7月創立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当たっている。平成3年(1991年)11月 学士会』(全文掲載)

また、同じ並びに同志社大学の創立者である新島襄の石像も。この近辺には上州(群馬)安中藩江戸屋敷があり新島襄がそこで生まれているので、という記念碑でした。

 

                                                                                                      

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