東京都中央区 銀座
Ginza,Chuoku,Tokyo
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Dec.13,2022 柚原君子
Jan.2021 柚原君子
銀座のレトロビル
1,奥野ビル(旧銀座アパートメント)
所在地:東京都中央区銀座1-9-8
日本を代表する華やかな通りの銀座。京橋から新橋に向かう中央通りは、江戸時代からのメインストリートです。現在は東銀座にある歌舞伎座もその元になる中村座はこの近辺にあったものですし、京橋は江戸から京に向かう橋という意味もあります。その京橋の首都高をくぐって銀座一丁目を左折して三本目をさらに左折したところに『奥野ビル』はあります。
一つのビルに見えますが、実は二つのビル合体。左の本館は1932(昭和7)年竣工。右本館の2年後に完成した関東大震災後の復興事業の建物です。昭和の建物がそのまま残っている貴重なビルで、三代目となるオーナが現状のまま維持するという表明を出されたのは最近のことです。
旧名は『銀座アパートメント』とあるように外観を見ると、見事にアパートメントの様相です。しかも窓の外側に植物が飾れるような空間が設けられていて、植物の緑が所々に見られ、パリのアパートメントの印象でもあり、とてもモダンです。最上階は住居。1階から6階までは貸店舗および貸室となっていて、主にアトリエやギャラリー、美容室、メガネやさんなどが入っています。
アパートの部屋数は70室。一つ一つが本当にかわいい小さなお部屋です。トイレは階段の奥に各階ありますし、建設当時から奥野ビルは当時の最先端の技術を集めて作られていて、全館暖房、地下には住人専用の共同浴場、屋上には洗濯室と談話室までもあったそうです。高級に暮らせる人々が優雅に暮らしていた雰囲気です。
エレベータは手動式でアコーディオンドアーを開けて更にエレベータのドアーを手動で開けて閉めてやっと動き出す、というもの。二人くらいしか乗れない小さいものですが高級感があります。階を示す文字盤もとてもレトロです。廊下のコンクリートは人の歩く真ん中がすり減って黒々としています。各室のドアやガラスも趣があり、所々のギャラリーに、展覧会開催おめでとうのお花が届いている華やかさとそれでいて人のいない狭い通路の風景が、ビルの中にいるのではなく、どこかの路地裏にいるような錯覚さえ覚えます。
奥野ビルは各紙に紹介されていますし、2021年2月に「美の巨匠」でも放映されたとのことです。それらによると、かつてここは文化・芸術の情報発信地であり、仕事場にしていた著名人は美術監督の吉田謙吉、日本人女性歌手第一号・佐藤千夜子、詩人・西條八十、小説家・菊池寛、映画監督・溝口健二、女優・田中絹代などそうそうたるメンバーであったそうです。
奥野ビルは初代の治助さんが部品工場をこの土地に建てましたが関東大震災で被災したので工場を移転。跡地を活用するために不動産経営としてアパートを建てることにしたそうです。震災にも耐えられるように当時まだ珍しかったエレベーター付き鉄筋のアパートメントを。
設計者は治助さんの友人でもある川元良一氏。青山同潤会アパート・九段会館・旧丸ビルなどを作った建築家です。昭和の香りと共にレトロでモダンで芸術の香り満載の奥野ビル。
奥野家三代目さんがこのままでビルの維持をされるそうです、と喜ばれていた画廊主の嬉しそうな言葉をお聞きして、何故か私もホッとしてビルを出ました。
EOS 6Dで撮影
2,酒造秩父錦(さかぐらちちぶにしき)
所在地:東京都中央区銀座2-13-4
昭和初期の建物。氷室、甘味所、居酒屋、内装業などに変化してきた建物ですが、現在は秩父錦のお酒の販売元がアンテナショップの形態で、お酒を出すお店となっています。見ていてとても落ち着いた気分がする建物です。左右シンメトリーの安定さでしょうか。ウィンドーも2階の戸袋も左右対称。デンと構えた看板の重厚さと瓦屋根まできれいに見える木造の出桁造り。町家風と言われています。江戸時代の両替商の大店と言われてもそうだと思ってしまう店構えです。ウィンドーの中が少し荒っぽいのが残念です。
お店の中に入ると創業当時は氷屋(氷室)だった写真が掲げてあるそうで、神棚のある座敷も残っているとのことで、呑めない私ですが何か戴いて帰ろうと思って出掛けたのですが、お休みとのこと。お向かいの八百屋さんに聞いたら「コロナであまりお客さんが来てくれないから、1週間に1回か2回くらいしか開けていないみたいよ」と教えてくださいました。ここでもコロナ禍ですね。残念。
3,教文館・聖書館ビル
所在地:東京都中央区銀座4-5-1
キリスト教が禁教でなくなった明治の初め、アメリカから宣教師たちがやってきて布教に動きます。賛美歌本や布教に必要な本をまとめて印刷製・販売するために作られたのが教分館です(布教活動中心の頃は『日本美以教会』)。横浜の事務所から築地に移転、さらに銀座内をあちらこちら移転した後に現在の銀座四丁目に落ち着きます。当時の煉瓦作りのビルは銀座の中でも華やかに目をひく建物であったそうです。1階を店舗として2階から上を事務所・倉庫。そして最上階は職員の宿舎になっていたそうで、一丸となって洋書、伝道文書を販売していた様子がわかります。洋書輸入販売はその伝統を誇り、特に、宗教、神学、文学、社会関係に秀でて、さらに学校図書などの固定客もあり、宗教関連のみならず幅広い顧客で銀座に教養有る彩りを添えることになります(社記より抜粋)が、1923(大正12)年の関東債震災で煉瓦ビルは消滅してしまいます。
現在のビルは1933(昭和8)年に建ったもので、アントニン・レーモンドの設計でアール・デコ様式の建築。ビル再建には、米南メソジスト教会宣教師でもあるサミュエル・ウェンライト博士が米国に献金を募り、関係各機関と調整した、と社記に説明されています。
改修を繰り返していますので現在では松屋道り側入口から入った正面のフロアの左側の壁にその文様が残されています。また隣接する敷地には日本聖書協会が所有する「聖書館ビル」が建っていて、フロアを共有しているために階段もトイレもエレベーターも仲良く二つ並んでいて、あたかも一つのビルのようになっています。左右どちらの階段から上がってもどちらのビルにも行かれます。階段やトイレなど時代の趣が残されています。
入口の回転ドアは現在は使われていませんが、銀座では一番古いといわれているそうです。ビル内に「エインカレム」や「ナルニア国」などの特色有る階層を設けて、小さな子どもたちが訪れやすい楽しみな空間を作り、バブルの崩壊や出版業界の不振を乗り切ってきた教分館です。クリスマス時期には必ず私もいろいろなプレゼントを求めて訪れる場所です。
4、東急プラザ銀座ビル
所在地:東京都中央区銀座5-2-1
JR有楽町駅から徒歩5分。銀座中央通りから日比谷寄りに多少外れてはいるものの、数寄屋橋の中央である晴海通りと外堀通りの角、エルメスと不二家と日動画廊のある交差点脇に『東急プラザ銀座ビル』あります。
東急プラザ銀座ビルは冠に名のあるとおり、東急不動産が2007年に東芝から1610億円で買い取り、工期5年、旧テナントの調整などを含めて合計1800億円をかけて開業に至ったビルです。
設計は聖路加国際病院、NHKセンタ-、ポーラ美術官などを手がけた「日建設計」。
施行は「清水建設」。2016(平成28)年完成。
日本の伝統である『江戸切り子』を光の器としてデザインし、伝統と革新というコンセプトを元に建てられています。ビル全体が切り子のガラス状で、夕日にも朝日にも映え、雲の流れも映し、見る角度により、様々な銀座の風景を写しだしています。もちろん夜景にも映えて、どこからみても美しいビルです。
向かい側にエルメスのビルがありますが、屋上にエルメスマークである旗を翻す騎士を間近に見られるのもこのビルのおもしろいところです(エレベーターで上がっていく都度に近づいてきます)。
屋上には庭園があって四季の花が咲き、食事の出来るテーブル椅子などが置かれて自由に出入りできます。周囲はガラスで覆われていろいろなものが落下しないようになっていますが、空は抜けていますので風の通りも良く季節のさわやかさが感じられます。皇居のお堀、新幹線、高速道路なども見下ろすことが出来ます。
6階の「KIRIKO LOUNGE
は大きな吹き抜けに天井から江戸切り子のモニュメントがぶら下がり東急文化村と連携して音楽や伝統芸能.アートなどたくさんのイベントが行われる空間であったようです。現在は上質のソファーやテーブル椅子が置かれ、一人で本読む人、PCでリモートしている人、軽食持ち込みで食事をしている人などの姿が見られます。しかし、2021年2月現在「KIRIKO
LOUNGE」部分は改築中のために閉鎖されていて、少し残念です。
ビル内にある食事処は銀座にしてはリーズナブルなお値段で、不二家、日動画廊側に大きく窓が開けていて、ゆったりと食事をすることが出来ます。また、各フロアに椅子があり銀座散策で疲れた日にはゆっくりと腰掛けることが出来ます。
買い物だけで成り立つのは難しい時代と判断して文化の発展、憩いなどの分野に力を注ぐ東急プラザ銀座。おりしもコロナ禍で人の姿はまばらでしたが、収束の暁には再び銀座の憩いの拠点になるのだと思います。
5、Daiwa銀座ビル(旧リッカー会館)
所在地:東京都中央区銀座6-2-1
泰明小学校の向かい側にあるビル。1963(昭和38)年、リッカーミシンの本社ビル、リッカー会館として竣工されています。リッカーが破綻した後の1989年以降は「ダイエーOMCビル」の名称のテナントビルに。ステンレスの縦線とガラス窓の並びが美しいです。
銀座地区の初期の高層オフィスビルで、西日の当たる方角に開放がほとんどなので当時はまだ珍しかった建物外壁の一部/全面をガラスで2重に覆うダブルスキンカーテンウォール建築が施されています。ダブルスキンカーテンウォールとはその空間を空気層として利用することにより夏期冬期の熱量の減少過多の調整が出来る、環境配慮型外装システム。
竣工年の 1963(昭和38)
年には日本建築学会賞を受賞。2002(平成14)年にリニューアル完成。角地のこともあり交差点対角からみても縦ラインがとても美しいビルです。ちなみに銀座ワコー(旧服部時計店)と同年の建設です。
6,交詢ビル
所在地:東京都中央区銀座6‐8-7
建物の最も目につく正面のデザインをファサードといいます。建物が古くなり立て替えを余儀なくされる場合、このファサードを無くすことで地域の景観や歴史的損失がある場合、ファサードを残してビルを新しく建て替えることがあります。これをファサード保存といいます。歴史的建設の保存という意味で地上より何階かを残してその上にビルを積み上げる方法もありますが、交詢ビルの場合は正面デザインを残すのみとなっています。
ファサード以外は現代的ですので、大正モダンのどっしりとした重みのファサードが、建物にうまくマッチしているのかどうかは素人の私にはよくわかりませんが、一部分でも残っているのはありがたい感じがします。ファサードは左右対比のバランスも良く、ステンドグラスなどとても美しく日に映えて輝いています。歴史的な重みが充分に保存されていて嬉しいな、と思います。ビルの中からのステンドグラスも見てみたい気がしましたが、「見ることはできない」というビル側の返答でした。
ファサードがあった元の建物が完成したのは1929(大正4)年。設計は銀座電通ビル、日本橋三越本店などを手がけた横河民輔氏(横河工務所)の長男である横河時介氏。建設は清水組。
交詢ビルの交詢とは1880年(明治13)年、福澤諭吉を中心に設立された日本最初の社交クラブ『交詢社』のことで、名称由来は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」から来ています。
自由民権運動や護憲運動の拠点になったことでも知られている交詢社。明治後年からは『紳士録』などの出版でも知られています。建て替えられて現在の『交詢ビル
DININGS &
STORES』の姿になったのは2004(平成16)年。ファサードを供えた新しいビルは地上10階建てで、高級料理店やバーニーズ・ニューヨークなどがテナントに入っています。ドアマンが控えているファサードをくぐって入って行くには、普通の銀座散策では少し敷居が高い気がします。
7,電通銀座ビル
所在地:東京都中央区銀座7-4-17
日動画廊と東急銀座ビルのある外堀通りを新橋方面に向かった西銀座六丁目の角にあるレトロな建物が『電通銀座ビル』です。電通の前身である日本電報通信社の本社ビルで建設年月日は1934(昭和9)年。設計は銀座交詢ビル、日本橋三越本店などを手がけた横河民輔氏(横河工務所)。アメリカで鉄骨建設を学び日本の鉄骨建築の先駆者といわれた人物です。
ビルの正面には当時の社章の五芒星がくっきりとあります。その下の化粧庇の左右にあるレリーフは広目天と吉祥天。電通初代の光永星郎社長のアイデアで、広目天は、通常ならざる目を持ち千里をも先を見通す神様。つまり、情報の神様ということで東大寺戒壇院の四天王の一つ広目天様を参考にして彫刻されています。また吉祥天は美と豊穣の神様であることから、双方共に広告業界にふさわしいとして配されたそうです。
彫刻の作家は畑正吉氏(1882-1966)。畑正吉氏は教壇に立つ教育者であるとともに、造幣局
賞勲局で文化勲章やメダルのデザインも手掛け、また趣味である能面を打っている彫刻家でもあります。
ビルは鉄骨建築に大型の窓が取り入れられる構造がすすみ、シカゴ窓と呼ばれる左右に換気用の上げ下げ窓を持つ大型ガラスが取り入れられているのも特色です。全体丸みを帯びた感じで、正面入口で見上げると昭和の風が吹いてくるようでした。
コロナの時期だからか警備の問題からか、エレベータホールにあるモザイクタイルを撮りたかったですが、警備員にNGと言われました。残念です。
8、丸嘉ビル
東京都中央区銀座7-7-1
交詢社ビルの対面にあります。銀座にしては小さくてしかも可愛い感じのビル。高さも三階建て。レリーフは三つありますが、全て文様がちがいます。なにを表しているのでしょうか。間近にレリーフをみることもできて、住まいと商店が一緒であった庶民の生活風景を彷彿とさせる当時の名残りのビルです。竣工は1929(昭和4)年。
設計は森山松之助氏(1869-1849)。台湾が日本の統治下であった時期に台湾の官公庁をたくさんでかけた設計者です。帰国してからは商業ビルを主に。銀座ではヨネイビルディングの設計も。その他には渋谷区の久邇宮邸(聖心女子大学パレス)、現存しませんが墨田区の両国公会堂などの作品があります。
9、第一菅原ビル(旧菅原電気商会ビル)
中央区銀座7-7-11
「椿屋珈琲店」の店舗が入っています。お客様として入店すれば中の造作も見ることが出来ます。枠取りをした窓を規則的に並べたモダニズム(歴史的意匠を重んぜずに工業生産による材料の鉄・コンクリート、ガラスを用いて合理的な造形理念に基づく近代建築のビルの総称)と呼称されるビルです。
6階にあたる最上階は建て増しのようですが、5階、4階に当時のスクラッチタイルがみえて昭和の趣があります。入口は丸窓と縦長の明かり取るガラス窓、さらにその上に小さな丸窓とアクセントがちょうど良い感じです。「椿屋珈琲店」に入っていく階段、内部の窓などが当時のままに残されています。
現在は菅原ビルの名称ですが当初は『旧菅原電気商会』の社屋として、1934(昭和9)年に建てられています。
昭和初期にはそれまで各商店で買い物をしていた消費者は大きな百貨店に流れるようになり、立地の良い戸建の商店は、狭小地でもこぞってビルを建てて収益性を求めた時代にはいっていきます。この菅原電気商会もその時期にビルに。
設計は小野田セメント本社、国の登録有形文化財になっている安藤家住宅・日本民藝館本館などの作品がある吉田享二氏。施行は戸田組。
10,静岡新聞・静岡放送東京支社ビル
所在地:東京都中央区銀座8-3-7
メタポリズムという言葉があります。新陳代謝という意味ですが、建築・都市計画の用語になったのは、1960年の川添登,菊竹清訓,槇文彦,黒川紀章,大高正人などによって、世界デザイン会議のために結成されたグループ
が開始した建築運動が始まりでメタポリズム建築といわれるようになります。
社会の変化や人口移動などによって有機的に変化させていく建築物で都市を造っていくということが核になっています。提案されたプロジェクトとしては菊竹清訓氏の海上都市,塔状都市,黒川紀章氏の空間都市,農村都市,槇文彦・大高正人両氏の新宿副都心計画などがあります。
銀座の新橋寄りに、樹木の枝の上に箱を乗せたような静岡新聞・静岡放送東京支社ビルがあり、その斬新さというか異様さというか、見上げて通る人が多いです。設計は丹下健三氏。
ビルは濃い茶色の円筒形のコアから箱状のオフィスが張り出す独特な形状です。当初の予定では当ビル建築以前に、築地においてコアを林立させて箱状に張りだした「オフィス」をいくつも連結させて、立体的な築地再発計画であったそうですが、依頼主の急逝により中止になってしまい、静岡新聞・静岡放送東京支社ビルはその構想の基としてただ一つ残っている貴重なビルなのです。
五叉路の突角にあるビルなので、遠く離れていても美しい全景が見られるビルです。箱状のオフィスは少し不安定に見えなくもないですが、もしこれが築地再開発に使われていたら、壮大な面白さだっただろうと、少し残念です。
11 泰明小学校
Aug.25,2020 柚原君子
銀座・京橋・有楽町・一石橋を歩く
江戸、東京の町は、江戸城の内堀、外堀を中心として川(運河)などを掘削してどんどん町を広げていった経緯があります。江戸の華といわれた火事が多かったこともあり、深川の埋め立て地に仮設住宅をつくり、焼けた町ごと引っ越しをさせておいて、江戸市中に家並みが揃ったら町ごと戻した、ということもあったそうです。
山手は坂名で下町は橋名で覚えるという言葉も残っています。
銀座、有楽町は都会というイメージですが、下町の川の多い、海に近いそんな場所です。
有楽町交通会館の銀座側に並ぶ銀座ナインは外堀川があった所です。埋め立てられた跡ですから橋のあった所は道路として残り、皇居の方面に向かう高架橋や交差点には川のなごりであるそれぞれ橋の名前が残っています。
東京駅から新橋駅方面に向かっては、一石橋→呉服橋→八重洲橋→鍛冶橋→有楽橋→新有楽橋→丸の内橋→数寄屋橋→新幸橋→土橋→難波橋→新橋となります。
また
鍛冶橋と有楽橋の中間辺りからは外堀川から分岐した京橋川がかつては流れていて、比丘尼橋(城辺橋)→紺屋橋→京橋→炭谷橋→白魚橋となっています。
どちらも埋め立てられていますので、その痕跡は地名や親柱跡などのみです。
酷暑のこの夏、短時間でしたが、そんな背景のある場所、銀座四丁目三越より、京橋、有楽町方面へと歩いてみました。
1,銀座中央通り
新型コロナ渦でライオン君が三越のブランドマスクマスクをしています。ちょっと年寄りくさいライオンになっています(笑)銀座を歩く楽しみはウィンドー。ミキモトと和光にいつも目を奪われます。
2,京橋界隈
三越から京橋方面に。高速道路の下が京橋川の流れていたところ。銀座中央通りは日本橋を始発点とした東海道で、京橋は京都に登って行く最初の橋との意味。日本橋と同時に1603(慶長8)年にかけられた公儀橋。ています。
江戸時代はもちろん木橋ですが、1875年(明治8)年、石造りのアーチ橋に架け替えられ、さらに1901年(明治34)年、幅18mの鉄橋に架け替えられます。
そして1959年(昭和34)年、東京高速道路敷設のために京橋川は埋め立てられ、橋の欄干の親柱のみ記念碑として残されました。
京橋の親柱(所在地:中央区銀座1丁目2番先)
親柱二基は1875年にアーチ橋に掛け替えられた時の物で今から145年も前の物です。高速道路橋架の京橋側と銀座側にそれぞれあります。説明版は郡座側の交番の横。親柱は江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、詩人の佐々木支陰
の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名がそれぞれ彫られています。交番の脇にあるのが「きょうばし」。丁寧な説明版付きですが、対となる「京橋」の親柱は斜め反対側になり(交通博物館のまえの植え込みの中)見落としがちです。
交番の反対側にはガス灯の付いた親柱が残されています。1922(大正11)年の道路拡張工事でアール・デコ風で、当時の銀座の様子の一端を表しています。いずれも中央区民文化財。親柱の横の交番は京橋の親柱をデザインとした煉瓦色の可愛い尖り屋根です。
交番の先の首都高架橋を挟んだ向こう側には「京橋大根河岸市場」の碑と「史跡江戸歌舞伎発祥之地」の二つの碑があります。
「京橋大根河岸市場」は京橋川を利用して青物売り場が1664(寛文4)年に設けられています。初めの頃は大根の入荷が多かったところからこのように呼ばれましたが、明治になってからは「京橋青物食物河岸」といわれて、八重洲、銀座方向にも広がる大規模なものになり、扱い品も魚類、乾物などたくさんの種類になっています。大正時代の関東大震災では大きな被害を受けていますが復興して、問屋68軒、仲買人105名で昭和の初めに築地市場と合併するまで続いています。
「歌舞伎発祥の地の跡碑」は歌舞伎座を模した形で左右に役者姿が彫り込まれた立派な物。
『寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に
猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し 斯石を鎮め
国劇歌舞伎発祥の地として永く記念す。昭和三十一年七月 江戸歌舞伎旧史保存会』(碑文全文)
歌舞伎は1603(慶長8)年に 出雲阿国が
京都で“歌舞伎踊り”をしたのが始まりですが、“女歌舞伎”は 風俗を乱す という理由で禁止となり, 歌舞伎は 男役者のみで 演ぜられる芝居となります。
江戸歌舞伎はその20年後の1624(寛永元)年。地理的には現在の日本橋三丁目辺りになりますが、江戸初期には運河が通っていて、中橋がかかり一帯は中橋広小路と呼ばれていた場所。運河はその後に埋め立てられて火除地となり、中橋広小路で初代中村勘三郎が興行を催したのが江戸歌舞伎の始まりです。碑文は英文でも記してあります。
3,有楽町駅前
銀座中央通りから有楽町方面に歩きます。
沖縄、福井、高知などのテナントショップがあり、旅行のできないコロナの今年の夏は、旅行に行ったつもり、あるいはふるさとに帰ったつもりの買い物客で賑わっています。沖縄テナントショップの前の信号は「有楽橋」。外堀川に架かっていた橋名です。
有楽町の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎(おだうらくさい)(長益(ながます))説が有力です。この辺りに屋敷があった、または屋敷の後が原っぱでそこを有楽が原と呼んだからとも言われています。しかし研究者によると古書や江戸図に織田有楽斎の屋敷があったという確証はないそうですが、なぜか江戸時代中期の頃からは有楽ヶ原と絵図に地名がでているそうです。織田有楽斎というと京都の茶人のイメージですが、どのような経緯があったのでしょうか。
有楽町の正式な町名は1872年(明治5)年からです。
有楽町駅前の広場は南町奉行所があった場所。
2005年に開始された発掘調査により、出てきた石組下水溝の一部と共に説明板がありますが、あまりにも下の方にあり、読むのに苦労します。以下全文です。
「東京都指定旧跡 南町奉行所跡
江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員2名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務していました。
南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年(2005)の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。」
江戸城である皇居がもう目の前です。大岡越前守忠相のテレビドラマが思い出されます。江戸城に近いほど重鎮たちの大名屋敷が多くあり江戸幕府が長く続いた名残の多い、有楽町、銀座界隈の散歩でした。
4一ツ橋
大正時代に架けられた橋。高速道路の下で、あまり目立ちませんが、大正浪漫にあふれています。この辺りは江戸でも人通りの多い場所で、迷子も多かったそうです。子どもがいなくなると、姿形・名前を書いた紙を貼り付けておく柱(石柱?)がこの辺りにあったそうで、跡碑があるはずですが工事中のこともあってかみつけられませんでした。残念。川の護岸に一橋御門の一部の石垣が残されています。一ツ橋は日本橋川と小石川が合流する、一つになる場所の意味で、江戸時代の御三卿である一橋家との関連はありません。
5,京橋のビル群の中にあった国立映画
こんなところにこんな良い映画館があり驚きました。
5,マリオンから銀座四丁目交差点
例年ですとソニービルには縦型のツリーが映し出されているのですが、今年はビルそのものが解体されて無し。2年後くらいにソニービルは建つ予定だそうですが、現跡地は広場になっていてラジオ番組のイベントが行われていました。銀座はハンバーグの名店が多い。不二屋横の「数寄屋バーグ」はすごく狭い店内ですが、四級五級クラスの牛肉のハンバーグは絶品です。
6,丸の内グローバルスタイルツリー&ザ・ペニンシュラホテル
グローバルスタイルツリーは引き締まったサンタさん(らしき)がピリッと寄り添うツリーです。ザ・ペニンシュラホテルは入口の屋根にも可愛いサンタさんが。あまりにも高級ホテルでドアマンも直立!中にも可愛いクリスマスツリーがありましたが、ロビーに入る勇気はありませんでした。車寄せ前にはまゆ玉のようなものがツリーに形作られていました。後日PCに紹介されていた映像はいろいろな色のまゆ玉になっていました。まゆ玉ツリーの横には茶色のベアーや動物たち。かわいいクリスマスという感じのザ・ペニンシュラホテルでした。
7,和光〜山野楽器〜日産ビル
和光のシロクマは毎年見とれてしまいます。ぼんやりした目が癒やし系でゆったりと座る姿に日常のストレスが解消されそうです。山野楽器は昨年と同じ。本物のもみの木のようですね。ミキモトはツリーらしくないものがwindowに装飾されていましたが、あとでネットで見たらそれもツリーだった様子。1枚パチリと撮っておけばよかった、と後悔。
和光向かいの日産は江戸切り子のデザインビル。日産日産と連日ゴーンさんニュースですがクリスマスはガラス窓に映し出される雪の結晶の変化です。ビルの中の光をいつもより少し落として下されば見やすいのになぁ、と思いました。
8,鳩居堂〜TASAKI真珠
鳩居堂のウィンドーは既にお正月模様。いつもそう。来年の干支の猪さんがいました。
フェンディーは訳が分らないデザインのツリーです。ちょっと不気味。どのような意図か訊いて見たい……。TASAKI真珠は真珠で飾られたツリー。シンプルですが総額いくらになるのかと計算しつつ(笑)向かいのヤマハへ。ヤマハは檜のチップのツリー。とても良い香りがしました。装飾は松ぼっくりのみ。スワロフスキーはきれいなツリーでしたが撮影ごめんなさいで、没にしました。残念!
9,銀座町並み通りのイルミネーション
今年は汐留カレッタまで足を伸ばす予定にしたので、銀座のそれぞれの通りのクリスマス飾りはパスして撮れるところだけにしました。クリスマスの頃の銀座の通りはそれぞれのカラーがあっていいものです。
1、ヨネイビルディング
東京都選定歴史的建造物
所在地:東京都中央区銀座二丁目8番20号
設計者:森山松之助 建設年月日:1930(昭和5)年
構造・規模:木造一部SRC造6階建
概要:調和性を重視した「ストリートアーキテクチャー(ストリート建築術)」の一例。
1920年代から昭和初期まで、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象を取り入れたモダンガールやモダンボーイと呼ばれる先端的な男女が、銀座を闊歩していた頃に建築されたオフィスビル。1階の外壁は、建築当時の状態をよく残していて、中世ロマネスク風の意匠で、ラセン模様の柱をとつつけた大小のアーチ窓が石張りの重厚な壁面に軽快な印象を与えている。全体に調和性を重視した意匠で、突出したー直線の帯状の装飾により輪郭をきっちり枠どりしている。(「東京都生活文化局」HPより一部引用)
丁度工事中で全体像がすっきりとは撮れませんでした。時折着物姿の女性が通りますととても絵になるビルでした。入り口踊り場附近より少しだけ内部を撮らせていただきました。
2、鈴木ビルディング・近辺の家
東京都選定歴史的建造物
所在地:中央区銀座一丁目28番15号
設計者:新定蔵・山中設計事務所 建設年月日:1929(昭和4)年
構造・規模:RC造5階建
概要:所在地は江戸時代は芝居小屋が多く立つていた町で、戦後間もなくは木挽町と呼ばれていたところです。近くに歌舞伎座や新橋演舞場、少し離れていますが新富座(現在の京橋税務署あたり)などがありましたので、公演会や稽古場に貸し出せるように二階に広い舞台のある貸席建築となっていて、当初は「甲子屋倶楽部」という歌舞伎の練習場だったそうです。建築時の三階は住居だったようですが、現在はスタジオや稽古場などの賃貸になっています。ビルの中に階段が二ヶ所設置されてあり、内部は複雑です。外見は4つの馬蹄形をもつ銅版葺きの屋根。縦長の出窓や丸窓などが取り入れられてあり、一階円柱の幾何学的レリーフなど「うっ!」と思うようなデザインです。アールデコ調のタイル張りなど、内部の壁に用いられている布目タイルなども特徴的です。山中節治が兄・関根と共同設計を手掛けた、函館海産商同業組合事務所(大正9年築)などとも相通じる味があるそうです。この界隈にはその他にも味のある一戸建てが多く、つい写真を撮ってしまいました。鈴木ビルディングのすぐお隣の家も、昭和ロマンのような風情があります。また少し離れた家にも「木挽町」という昔の町名のプレートが残っている古い家もありました。表通りに出たら、古風な喫茶店の家もありました。見上げると、元はお茶を売るお店であった表札が残っていました。銀座の最先端のビルの脇に古風な家という景観が多くあり町歩きを楽むことができます。
3、舞踊足袋処 大野屋総本店
東京都選定歴史的建造物
所在地:東京都中央区新富2-6-13
東京都選定歴史的建造物に登録された年月日は2014年4月。まだ最近のことです。200年前の江戸時代、安永年間(1772-1780年)に初代 福島美代吉が三田に装束仕立屋として創業したのが始まりです。1849(嘉永2)年に現在の中央区新富町に移転して160余年が経過しています。現在の建物は1924年の関東大震災後すぐに建てられたもので、その後の戦災は免れ、数少ない戦前の町家建築として貴重なものとなっています(1955年頃改修有り)。
構造は木造二階建、切妻造桟瓦葺で重厚な甍棟を積んでいます。一階は店舗として、二階で足袋製造を行っているそうです。上下階とも軒が高く、外壁はささら子下見板張。二階窓は出桁造としています。江戸の町割りそのままの間口で作られた、典型的な町家店舗建築の様式です。
「舞えば足もと、語れば目もと、足袋は大野屋総本店」という唄が残っているそうです。
歌舞伎役者、舞踊家、能役者、茶道家や演歌歌手、花柳界などがお客様で、既成品からオーダーメイドで仕上げまでを行う特別誂え品の足袋などを扱う商店で、5代目の福島福太郎氏が開発された、足を美しく見せる「新富形」という足袋が特長だそうです。
4、三吉橋
昔の築地川に架っていましたが、川が埋め立てられて高速道路になってしまったので現在は陸橋になっています。
徳川家康が入場した頃の江戸城は海岸の淵にあったといいます。そしていたるところ葦の湿地であったそうです。江戸城完成時の市民30万人から江戸最盛期には居住区は三倍となり人口も130万人となります。関東に唯一あった塩の生産地である行徳と結ぶために、まずはじめに小名木川、新川の運河が作られます。その後も江戸市民の生活を支える為に、市街地の造成、埋め立て、掘割、運河造成が繰り返されていきます。江戸の運河は平坦な地では直線に、台地内では地形の谷を利用しているので曲線状になっているそうです。
銀座1丁目2丁目の境に掛る三吉川も複雑に曲がる築地川(江戸時代の初期に築地の埋立てが行われた際に造られた堀割り)の上に架けられた橋です。
説明板には「この橋は築地川の屈曲した地点に楓川と結ぶ水路(楓川、築地川の連絡水路)が開削され、川が三つ又の形となったところに、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年12月に三つ又の橋が架けられました。ここに川が存在し、人々の暮らしも川中心に営まれ、川筋を酒、荷物船が通った情緒ある風景も今は埋め立てられて、高速道路と化し陸橋となりました。平成4年に鈴蘭灯などを当時のままに復元して一部撤去されていた歩道も復元しました」とあります。1962(昭和37)年に 「築地川」が埋立てられて高速道路になる以前は、眺めのよさや珍しい形の橋として東京の名所であったそうです。
高速道路に落下するものを防ぐためでしょうか、橋の欄干にしては少し高さのありすぎることが少し残念に思えます。
5、ブルガリ・シャネル・デビアスビル
銀座松屋の対面にあるブルガリの今年のデザインが目を引きました。斜め向かいのシャネルビルに写りこむ角度もきれいです。ブルガリからプランタンに抜ける道路に面して右側にあるのがデビアスビル。曲面がきれいで眩暈がしそう。設計は光井純氏。多くの受賞歴のある方です(ULI AWARD for Excellence/愛宕グリーンヒルズ 2003年受賞。 AIA CONNECTICUT DESIGN AWARD/国立国際美術館 2005年受賞。 BCS賞/日本橋三井タワー 2005年受賞。 グッドデザイン賞/オーバルコート大崎2001年、青山パークタワー2002年、東京国際空港(羽田)第二旅客ターミナルビル2004年、日本橋三井タワー2005年、パークタワー品川ベイワード2006年、三井ガーデンホテルプラナ東京ベイ2007年、パークシティ浜田山2010年受賞※受賞に関する参考資料:ウィキペディア)
銀座夜景
(Night View of Ginza, Chuoku, Tokyo)
撮影日: 2011年12月20日
プランタン、マロニエ道、松屋、和光、少し松坂屋方面に行ってから戻り、阪急方面へ。
宝くじ売り場の人だかり。
金春通り
Konparudori
所在地:東京都中央区銀座8丁目
人一人がやっと通れるような路地を抜けると、銀座の柳が見える明るい通りに出ますが、ふと振り返ると路地の奥に人が入っていくところ。板前さんや仲居さん、宅急便のお兄さん、着流しのおじさん……華麗とバタ臭さが細い絹糸で仕切られているようなそんな雰囲気が銀座には所々見られますが、この金春通りもその一つです。
江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことから「金春通り」(こんぱるどうり)と名付けられています。
江戸時代、能役者たちは幕府直属として土地や俸禄を与えられて守られていました(身分としては幕府御用達の町人)。金春・観世・宝生・金剛の四家があり、その中でも最も歴史のあったのが金春家と言われています。
明治政府は、江戸時代に火事が多かったことからその用心のために、当時の国家予算の4%に匹敵する費用を投じて、銀座に延べ約10kmにわたる煉瓦街を造り上げます。関東大震災で焼失して現在では残っていませんが、一部の遺構が昭和末期に発掘されて両国にある江戸東京博物館に保存されています。それを記念して金春通りには小さな煉瓦造りの家と説明の碑があります。
細い路地と御稲荷さんもある能役者の住む「金春」は幕府直属ではありましたが、身分は町人でしたので、芸事の関連で芸者さんも住むようになり江戸芸者の草分け的存在となる「金春芸者」も仕事として成立するようになり、昭和40年頃までは花街としても栄えた場所です。
金春通りにある銘板の色は青色に緑がかった色で、「金春色」といわれて、芸者衆の間で流行した色だそうです。
毎年8月7日には「能楽金春祭り」が行われて路上で金春流宗家が自ら能楽を舞う姿が見られます。当日の夕方頃には着席券も配布されるようです。お出かけしてみてください。
銀座 三原橋
Ginza Miharabashi
「途中入場できます」
今時の映画館は座席の予約をしてから出かけるのが普通。そのシステムのない映画館は開始時間前に行くと通路や階段脇に並ばされる。並んでいると分厚い扉の奥から音楽が漏れてきて、クライマックスの盛り上がり感が伝わってくる。いづれにしても入れ替え制なので途中では入れないようになっている。それなのに、<途中から入れます>の看板を銀座三原橋地下道の映画館で見た。へぇ、今時珍しい看板!思わず写真を撮ってしまった。三原橋の下が通路になっていて飲食店や床屋さんや映画館があるなんてそれだけだって珍しいのにね。しかし閑散とした様子でした。
昔の映画館。ほとんどどこも混んでましたね。人々がお正月のお飾りのように三段重ねになって観ている状態でしたよ。座頭市なんか観ている人達もみんな斜め上白目むいていて、子供心に怖かったです。通路にも人がしゃがみこんでいて、すごいきゅうくつ感。消防法なんてどこ吹く風。人ごみ疲れているのに、一本目が終わるとキョロキョロして席を探さなければいけない。なんせ三本立てなので。いやはや、かなりの体力がないと映画は観られなかった昔。でもね、何か懐かしいです。人と人との間がそれほど離れていなくって、あったか感がありました。それになによりも数少ない娯楽に貪欲でしたから、根性こめて映画を観ていたものでした。
祖母が大川橋蔵と三波春夫の大ファンで(けっこう面食いじゃん)、真っ白に顔を塗った(と、当時小学生だった私は思った)三波春夫のチャンチキオケサと俵星げんばの♪槍を蹴立ててサクサクサク!なんて場面を小学生の身で歌舞伎座ぶよく行きました。(俵星現場の朗局長のところも含めて全部歌える子どもでした。
その関係で初めて見た映画は大川橋蔵の『雪之丞変化』←誰か知っている人いますか(笑)。大川橋蔵の女形は子供心にもきれいだなぁと思った。この映画も通路に人があふれ、祖母の傍らで立って観たことも多かったです。
父は私たち子ども三姉弟妹を浅草六区街によく連れて行ってくれました。映画が混んでいると父の膝に弟と妹が順番に座り、アイスクリーム売りがくると買ってくれました。映画が終わると、父は洋画が好きだから字幕が読めない私たちは連れて行かれないと、私と弟と妹を三人セットで歩いて家に帰るようにいつも言いましたが、大人になって考えてみると、父はストリップショーを観にいったのに違いないと、確信を持っています。ところで、映画が終わると出演者や関係各位の字幕がどんどん流れ出ます。邦画は読めるので、へぇ、撮影地は矢張りあそこだったのね、まぁ、何とかホームの方々が協力されたのね、と撮影の背景を楽しみながら余韻に浸ります。洋画の場合はほぼ確実に読めないので(笑)、読む振りしながら音楽の余韻をひたすら楽しむことにしています。
映画を観る流儀としてそれらが全て終わってから、ぼーっと灯りがついてからさてと席を立つのが映画を観るマナーだと思うのだけれど(そういう楽しみを持っている人の邪魔をしないように、まっ静かに座ってとも角明るくなるのを待つ。途中でドタバタ帰るんじゃないよ、と……思うのだけれど。いつでも入れますの映画館は……どうなっているんだろうか……。
銀座三原橋下南側入り口附近
頭上は三原橋、晴海通り
銀座三原橋下北側入り口附近
晴海通りより
Nov.2010 瀧山幸伸
Apr.2010 撮影:柚原君子
日曜日の銀座ソニービルのクリスマスカラーです。
遠景の三越の大画面にもクリスマスツリー。
ダブルクリスマスツリーでした。
銀座を歩く人々の足の速さが少し気になりました。
銀座といえばそぞろ歩きです。そぞろ歩きしなければ、衝動買いはできません(笑)。
足早なのが景気悪いことの現われなのかしら……。
銀座ソニービル
並木通り
ミキモト クリスマスツリー
June 2007 撮影:柚原君子
May 2006 撮影:瀧山幸伸 source movie
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