東京都港区 畠山記念館
Hatakeyama kinenkan,Minatoku,Tokyo
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May 2016 柚原君子
撮影 Mar.6, 2016
所在地: 東京都港区白金台2-20-12
畠山一清氏は江原製作所の創立者。「即翁」と号する茶人であり、また宝生流の謡(うたい)をたしなんでいたため、収集した古美術品には茶道具と能楽関連のものが多くある。
1960(昭和35)年、科学技術振興のための畠山記念財団を設立。1964(昭和39)年には畠山記念館を設立公開。
しかし、派手な宣伝をして客を呼ぶことは茶人の精神に反するとして、開館記念展のポスターや所蔵品の図録も当初はなかった。
城郭を思わせる石垣と白壁の塀に囲まれた敷地は、1669(寛文9)年、江戸幕府から島津家に下付されたもの。
後に参議・外務卿となった寺島宗則氏の屋敷となったが、畠山一清氏がこの土地を1937(昭和12)年に買い取った。
敷地内には本館のほか、沙那庵、翠庵、明月軒、新座敷、浄楽亭、毘沙門堂などの建物があり、かつては隣接して料亭般若苑があった。
般若苑は奈良・般若寺の客殿を移築したもので、三島由紀夫の『宴のあと』のモデルとなったことで知られる。
現在は、茶道具・書画・漆芸・能装束などの国宝6件(林檎花図、煙寺晩鐘図など)、重文32件を含む約1300件の所蔵があり、季節ごとに作品を選んで展示されている。
(参考資料:Wikipedia、畠山記念館HP)
畠山記念館は当初はWikipediaにあるように、城郭を思わせるような白壁で全体が囲われていたかもしれませんが、現在は、敷地の一部は著名なS社S氏の白亜の地上4階・地下2階の豪邸となっています。
一角を周回してみましたが、警備員が常駐されていてちょっと重苦しい雰囲気になっています。料亭般若苑(奈良・般若寺の堂宇を移築)と、加賀藩の家老職であった元横山男爵旧邸の能舞台が、かつてはこの場所にあり、現在の畠山記念館との全体構築でした。
春浅い日でしたが畠山記念館展示の内容がお茶席にまつわるものでしたので落ち着いた年配のご婦人が多く見受けられました。
入り口は畠山家の紋が入った重厚な扉。奥に続く小径の右側は井戸が中央にある庭。想像していたよりこじんまりとしています。
となりの白亜の豪邸部分がまだ存続されていたら、きっとすごい庭園だったんだろうなぁ、と想像して奥に。
銅像は畠山氏と荏原製作所の基本となったタービンポンプ発明者の井口(いのぐち)氏。
江戸期島津家の敷地であった時は全体にして1万坪はあり、亀岡十勝と呼称される景勝地であったと、下記のような説明がされています。
『この林園は、寛文9年(1669)薩摩の島津家が幕府から一万坪の地を下付されたもので、26代藩主、重豪(しげひで)のとき隠居して別荘を営み、苑内の景勝を選んで亀岡十勝と称しました。ここに紀州大納言以下9名の文人諸侯および林 大学頭による七言律詩の詩碑が建てられたのは文化元年(1804)でした。明治維新の後、参議 寺島宗則の所有となり、明治13年6月9日、明治天皇が行幸して観能されたので、聖跡に指定されました。』
小径を進んだ左側に畠山氏の設計になる記念館があります。スリッパに履き替えて上がるシステム。
1階に和服姿の畠山一清氏像。2階の展示室は一部畳敷きで、床の間の掛け軸を座って拝見できるように配慮されています。
採光は自然な光になるように配慮されているとのことで、一般の展覧会よりもかなり暗いのですが、由緒ある茶器が並べられて、一品を入場者が見入る時間も長いようです。
20名以上の入館者でしたが、スリッパのためか靴音もなく、話し声はどこに吸収されるのかとても静寂の館内で驚きました。
壁にある掛け軸には程よい距離に観賞用の和風の長椅子が置いてあり、行き届いています。一番奥の暗い部屋にお雛様も一対ありましたが、雪洞の明かりだけでの鑑賞。
見入る人の影もきれいです。展示室撮影は全体NGでしたので、写真でお伝えできずに残念です。
庭に出て散策。複数の御茶室(浄楽亭・沙那庵・明月軒)があり有料で利用できるようです。
花はひっそりと小さな木の桜と椿一輪でした。
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