東京都板橋区 板橋七福神
7 Fukujin,Itabashiku,Tokyo
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Jan.2023 柚原君子
板橋区七福神
板橋区公式HPによると、板橋七福神は板橋の熊野町に住んだ彫刻師の田中金太郎氏が白木で製作して昭和12年頃に各寺に寄進したもので、いずれも高さ25cm程の福の神様たちだそうです。
七福神が見られる開帳日はお正月の7日までとのことでしたので、訪れた1月10日には拝観する事ができませんでした。
板橋七福神は都内でも長距離間にあって全長11㎞。歩いて3~4時間かかります。板橋七福神との名称ですが寿老人のある「能満寺」のみは練馬区にあります。なぜ区を跨いだのかは、能満寺の旧住所が「北豊島郡上板橋村字江古田新田」で、この上板橋村地域が戦後になって練馬区に組み入れられたから、ということになります。
というわけで板橋七福神ですが、練馬区となる西武池袋線「江古田駅北口」から歩き出します。
1,能満寺(のうまんじ)(寿老人)練馬区旭丘2-15-5
江古田駅北口を右に。日大を左に見て線路沿いに進み、初めての踏切を渡らずに左に折れてクリーニング阿倍と旭丘小学校の間の道に入り、一つ目を左に折れると能満寺の塀が見えてきます。
能満寺は元和年間(1615~1623)に創建された不動明王を本尊とする真言宗豊山派のお寺で、豊島八十八ヶ所霊場の第61番札所でもあります。
入口から山門までは長く、石ころやどんぐりの落ちているところを歩きます。お地蔵様などもありますが、かぶせられている毛糸の帽子も古く,全体にやや荒れている感じ。
参道に入る前の左側の小さな洞のお地蔵様は、元々同寺にあったものでは無く、千川上水が暗渠となったために同寺に移された通称千川地蔵(延命地蔵)というもの。また無住職の時代もあり寺にまつわる古文書は失われているそうです。
本堂左にあるのは説明板はありませんが大日堂。大日如来が祀られているところ。
仏教には詳しくありませんが、如来は本来は釈迦如来(釈迦)のことで地上で悟りを開いたただ一人の人です。如来はその他に阿弥陀如来、大日如来、薬師如来などがありますが、この方たちは宇宙や極楽浄土で悟りを開いた方々と言われているそうです。
本堂右のお花がたくさん載せられている水盤は美しかったです。
能満寺山門を出て左に。すぐの四つ辻を右に。そのまま道なりに行くとR420の大道路に出ますから左に。右側にサミットストア、明豊中、千早高校と見て進んで行きますが、千早高校の前の三叉路角に「千早庚申塔」。月と星に照らされた青面金剛像が祈り、足元に見ざる言わざる聞かざるの三猿がいます。近隣の方々のお世話でしょうかお花とお鏡餅が供えられています。
R420に戻って先の「要町三丁目」の交差点を直進して西光寺に向かいます。前方右手に見えてくる塔は東京都水道局の「水道タンク」です。正式名は「大谷口給水所ポンプ棟」。東京都水道局による「災害時 給水ステーション」という案内がシャッターに書かれています。
ポンプ棟の手前の信号を左に入っていくと西光寺です。
西光寺の開山は新編武蔵風土記稿によると、1654(承応3)年8月寂の宥音とされています。それより少し前の寛永年間(1624~1644)に、既にあった観音堂に当地の大野清右衛門が田畑を寄進して堂宇を建設したのが寺の始まりとも。いずれにしても古刹です。
聖観世音菩薩を本尊とする真言宗豊山派のお寺で、江戸時代には近くにある大谷口氷川神社の別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれていた寺)でもあり、豊島八十八ヶ所霊場の80番札所でもあります。
田植えの前に田に堆肥を蒔き、田の中の土を平均にかき回して行く作業を「代掻き(しろかき)」と言います。良いお米を育てるための大切な作業です。
その昔、大谷口村に信心深いお百姓さんがいて、田の代掻きを一所懸命にやりましたが、薄暗くなっても半分も終わりませんでした。疲れて田の縁に座り込んでいたら、どこからともなくお坊さんがやってきて、優しく話しかけると、またどこぞとなく消えていきました。お百姓さんは疲れてそのまま家に。朝起きて田に行ってみるとすっかり代掻きは終わっていて、田の脇から泥が点々とあるので、辿っていくと丘の上の小さなお堂の前に続いていたそうです。お堂を開けてみると中のお地蔵様は腰の辺りまで泥まるけであったそうで……という代掻き地蔵様(区内最古・板橋区登録有形文化財)が祀られているお寺でもあります。
また、明治3年にこの寺の中には一棟の寺子屋があり、子どもたちは勉学に励んでいましたが明治9年に上板橋学校が開設になり、子どもたちはそちらに移ってこのお寺の寺子屋は閉じられた、ともあります。
西光寺山門より左回りに塀を巡っていくと、区立大谷口上町けやき園のある五叉路に出ます。角にあるのは庚申塔。坂道は代掻き地蔵が元々あったといわれる坂道で,名称も「地蔵坂」です。
こちらの庚申塔はかなりきれいですが,年代は古く、よくぞきれいに保存されていると思える庚申塔です。建てた人は大野姓。田畑を寄進して西光寺の堂宇を当初に建てた人も大野姓。その頃より100年下った1738年建立とありますので御子孫または一族なのでしょうね。「武州豊島郡上板橋村大谷口
願主 大野仁兵衛」とも彫られています。江戸時代からずっとある庚申塔。何か不思議な気がします。
大谷口通りを坂道なりに下ったり登ったりして、信号三つ目の「整肢療育園前」の先の十字路を右折。右側に見えてくる板橋消防署小茂根出張所を過ぎて環七を通り越して,石神井川の橋を渡って、しばらく直進。突き当たった左側が「安養院」です。
3、安養院(あんよういん)(弁天様)板橋区東新町2-30-23
台橋通りに面する交差点の角に安養院はあります。寺伝には鎌倉時代(1192年~1333年)に北条時頼が持仏の摩利支天(まりしてん)を安置して創建。その後、戦により社殿などは灰燼に帰しますが江戸時代の1688年(元禄元年)に祐淳大比丘が再興し現在の山号に改められた真言宗豊山派のお寺とあります。本尊は阿弥陀如来。豊島八十八ケ所霊場第1番札所です。
境内の銅鐘は1802年鋳造。1943年に旧文部省より重要美術品の認定を受けたので戦時中の供出を免れています。銘文には1689(元禄2)年の旧鐘の銘が再録されています。
本堂に向かって右手の書院は千代田区麹町にあった旧前橋藩主家の松平基則伯爵の本邸より、明治34年に建造された本棟と書院棟を、1929(昭和9)年に移築したもので、板橋区登録有形文化財に指定されています。
多宝塔のある手前の太子堂に弁天様がいらっしゃるはずですが、中はよく見られません。やはりお正月に訪れないと七福神は見られません。本殿左右には見事な門松。南天の赤い実がきれいです。先を見通せるからでしょうかハスも飾ってあります。柑橘は本物。しばらく見とれました。
安養院の斜め前に石柱。説明板には「上板橋村役場跡」として以下のように書かれていました。
『江戸時代に川越街道の宿駅になっていた上板橋宿は、現在の弥生町・東山町・東新町・常盤台・南常盤台・桜川・上板橋・大谷口・大谷口上町・大谷口北町・向原・小茂根、そして練馬区の旭丘・小竹町を含む大きな村でした。明治5年(1872)の調査では、戸数405戸、人口は2367人でした。
明治22年(1889)の町村制施行にあたって、江戸時代の村をいくつか合併して新町村が編成されるのが普通でしたが、上板橋は単独で上板橋村となりました。役場は、当初安養院の玄関や境内の建物を使用していましたが、昭和2年(1927)にこの場場所に新庁舎を建築しました。以後、昭和7年(1932)に上板橋村が東京市に併合されるまでの5年間、ここに役場が置かれていました。石柱はその当時に門柱として使われていたものです。この役場跡は、平成14年(2002)度に「一町三村役場跡地」として、板橋町役場跡、志村役場跡、赤塚村役場跡とあわせて、板橋区の文化財に登録しました。
平成15年(2003)3月 板橋区教育委員会』
安養院を出て直進。左手三本目の道がYの字になっているので左側を取ります。住宅街を進んで行くと左にコモディイイダというスーパーマーケット。過ぎて更に進むと大きな通りに出ます。環七です。左に折れて川越街道と交わる信号の脇まで行くと長命寺。
お寺は高い石段の上にあるので、川越街道に面した方から登ります。この辺りの地名は東山町。急坂では有りませんが登ったり下ったりのイメージが多い地域です。伝承に過ぎませんが、1469年代の室町時代にこのお東山地区には豊島氏庶流とされる板橋氏の居城である板橋城があったと考えられています。
遺構は何も残っていませんし、特定もされていませんが、長命寺のある辺りから後方の常磐台近辺が小高い丘だったのでは?と坂の多さから少し小高い丘の上にお城が建っているところを想像してしまいます。
長命寺は「新編武蔵風土記稿」によると1670頃の創建。寺に現存する過去帳も1652(承応元)年から書き始められているそうで、江戸時代の初めには既にあったことがわかります。真言宗豊山派で本尊は薬師如来。豊島八十八ヶ所霊場の50番札所。
長命寺への石段を上がります。本堂や境内は広くはなく、本堂もごくありふれた感じです。本堂の中の写真を窓より撮らせていただきましたが、左側の黒い観音開きの中に木彫りの福禄寿様がいらっしゃるのかなぁ、と想像しました。
長命寺の石段を降りてそのまま信号を渡り、池袋東口行きのバスに乗り「熊野町坂上」で下車。バス停後方の信号を左に渡り直進。一つ目の信号が「南町」。過ぎてすぐ右側に西光院。
板橋七福神を白木で彫って熊野町に住む彫刻師の田中金太郎氏が奉納したと始めに記しましたが、第1番目に奉納されたのがこの西光院への大黒様だったそうです。真言宗豊山派への信心だったのでしょうか七福神が奉納されたのはすべて真言宗豊山派のお寺です。
西光院の創建ははっきりと解らないそうですが、過去帳によると江戸時代の初期にあたる1616(元和2)年以前ではないかと推定されています。本尊は阿弥陀如来。豊島八十八ヶ所霊場82番札所。
山門前には巨大な仁王像。筋骨隆々の空にそびえるくらい大きい仁王様です。本堂の左にあるのは薬師堂。1711年の正徳年間に松平尚庸が妻の眼病平癒のために建立したものだそうで、厨子入りの薬師如来像(秘仏)や、日光・月光菩薩立像、十二神将像などが祀られているそうですが、中を見ることは出来ません。
門前のスダジイは、樹齢400年と推定。本堂前の銀杏の大木も通称「乳」と言われる「垂乳根」がしっかり長く下がり,樹齢を重ねていることがわかります。
余談ですがこの垂れ下がっているのは英語でも「Chichi」と言われていて、「乳」は枝葉に変わったり先端が根に変化することもある「担根体」ではないかと(まだ確定はされていない)想像されています。(論:塚谷裕一教授:東京大学大学院理学系研究科・)
お乳の出ない人がこういう垂乳根の銀杏に祈るという風習が日本には多くあるようです。
これから山手通りに出て「高島平」方面へのバスに乗り「板橋区役所前」下車で観明寺に向かいます。
バスを降りて板橋区役所を抜けて旧中山道である仲宿の商店街に入っていきます。現在もにぎやかな商店街ですが、ここは中山道第一宿の「板橋宿」です。本陣跡碑や米屋であった当時の建物などが残っている場所です。新王子通りとの交差点「仲宿」を右手にいくと左側に「観明寺」。
江戸時代の『新編武蔵風土記稿』によると「新義真言宗、足立郡沼田村恵明寺末、如意山と号す、開山慶浄延宝5年10月27日化す」とあり、江戸時代初期の僧・慶浄の開山としているが、実際は中興とみられている」とあります(ウキペディアより)。
本尊は聖観世音菩薩(正観世音菩薩)。豊島八十八ヶ所霊場88番札所。
鎌倉時代の末期か室町時代の初期には開山されていた寺のようですが、開山その他は全く不明と板橋区教育委員会はさらなる時代考証が必要と述べています。
石柱門を入ると直ぐ左に庚申塔。1661(寛文元)年8月に造立されたもので都内では一番古い庚申塔。昭和58年度に板橋区の有形文化財指定を受けています。
本堂左は出世不動尊。成田山新勝寺から勘請したもの。よくみると本堂と不動堂は屋根も一緒で結びついた形です。「複合仏堂」とよばれる形態。昭和初めの建物ですので約100年くらいたつ本堂です。
参道の脇の社は稲荷神社。それらしき飾りも説明もありませんが、加賀藩下屋敷内に祀られていたものです。明治時代になって加賀藩下屋敷跡近辺(次の文殊院の先に流れる石神井川を右の王子方面に進むと小高い山があり、そこが加賀藩下屋敷跡)に陸軍造兵廠が建設された際、観明寺に遷座されたようです(朱塗りの小さな山門も)。
寺の壁の掲示板には「板橋七福神巡り」を案内する大きな絵図がありました。
観明寺を出て右に。仲宿の商店街を歩きます。かなりの人混み。それにこんな人も自転車も多い商店街の中を車までが走ります。右手に「ライフ」。その十字路を右折すると左側にあるのが文殊院です。
文殊院は江戸時代初期の1625(寛永2)年開山。板橋宿本陣名主であるの飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立されています。本尊は文殊菩薩。真言宗豊山派。豊島八十八ヶ所霊場18番札所でもありあます。
山門脇には延命地蔵堂があり、お正月のとても大きな松飾りが捧げられています。門をくぐると左に閻魔堂。かっと見開いた閻魔様の目と合います。
門の左には、足腰の守り神として知られる「子の権現」。そして、砂地の境内はいつも箒目が通っていてきれいです。
本堂右の渡り廊下をくぐると『お砂踏み巡礼の作法』の額がかかり、墓石に間に置かれた四国巡礼の石を踏んでいくと、四国遍路の御利益が戴けるとあります。
中山道の今ではにぎやかな商店街の一角にある文殊院です。静かに椿の桃色の花が咲いていました。
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