東京都板橋区 中仙道板橋宿
Nakasendo Itabashi shuku ,Itabashiku,Tokyo
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Oct.2013 柚原君子
板橋宿(日本橋寄りより、平尾宿、中宿、上宿の総称。約1.7キロ) 1603年(慶長8年)、徳川家康は江戸に幕府を開き交通網の整備を始めます。
慶長15年に出された継立荷物の賃銭の定書のなかに板橋宿の名が見られことから、その頃より宿駅の機能があったと推察されます。
1615年頃(元和)本格整備が行われ、宿場の西方に広がる御林(約12万坪)において大規模な鹿狩りが行われその地が、番場村(後の中宿)名主の飯田家に下賜されます。以後中宿を中心として開発や整備が進められていきます。
他方、中宿より日本橋寄りにある平尾村(のちの平尾宿)には家康の関東入国とともに移住してきた三河の国出身の豊田孫右衛門家があり、その子孫とされる豊田市右衛門が名主、問屋、脇本陣をつとめ「平尾の玄関」と呼ばれていたそうです。
また、中宿より京都よりの上宿には中世の武士豊嶋氏の出自である板橋市左衛門家があって名主、問屋、脇本陣をつとめていたそうです。
1831年頃には平尾宿、中宿、上宿を総称する板橋宿の家数は475軒。内訳は本陣一軒、脇本陣三軒、宿役人7軒、寺院10軒、百姓272軒、地借り58軒、店借り124軒。人口は2448人(男性1053人、女性1395人)。
宿場の大多数の住民は旅籠、茶屋、料理屋、居酒屋、髪結い、湯屋、遊女屋、質屋などの商売をしていたそうです。(板橋宿資料館資料より抜粋)
現在の板橋宿を歩くと、当時の面影が残り、行き交う古の人々のざわめきが聞こえるようです。
川越街道から分岐されている平尾宿を入り口としますが、中山道では一番高い山である浅間山を型どったモチーフの横に兎と月が添えられて出迎えてくれます。
遊女屋があったところはビルに建て替えられていて残念ですが、その遊女屋の唐破風玄関は板橋区立郷土資料館に展示されているそうです。
遊女屋があった前には観明寺があります。1661年に彫られた都内最古の庚申塔(青面金剛像)が現在もあります。
中宿のほうに進んで趣のある湯屋を通り過ぎると右側に細い道があり、脇本陣豊田家に出ます。
残念ながらマンションに建て替えられていて標だけが残っています。前方をみると「豊田駐車場」という空き地がありました。末裔でしょうか?
再び旧中山道に戻ると王子新道との交差点に出ます。ここが中宿。現在では下町らしい商店街になっていて八百屋物もお菓子も超激安です。
路地に奥まった店ものぞくことができて昔の面影が残ります。当時は馬をつないだかと思われるような楔のあとが土塀に残っていました。
中宿を過ぎると、「板橋区」の由来となった板の橋が目に入ってきます。下を流れるのは石神井川。桜の頃は綺麗かと思われます。
この板の橋を超えると上宿。平尾宿、中宿のような賑わいはなく、一般住宅が混ざります。
中宿のはずれにあるのが縁切り榎(現在ある地点より路地を一つ戻った左側にあったものを現在地に移植)。罪人が江戸払いされる場所。この榎より手前が江戸ということなのでしょうね。ちなみに榎は災厄の進入を防ぐ樹木として町外れや村外れに植えられてきたそうです。
板橋宿(板橋より日本橋側になる平尾宿、仲宿)
宿場時代馬つなぎ場であった遍照寺
板橋宿(板橋より京都側になる上宿)
旧中山道、板橋の宿から巣鴨「とげぬき地蔵」ウォーキング 1月中旬、都営地下鉄三田線で板橋の宿から巣鴨「とげぬき地蔵」まで半日、ウォーキングをした。
日中も寒い日であったが、好天で、歩いている間寒さを感じなかった。
このコースには旧中山道沿いの昔の風情を遺す「板橋」、宿場のにぎわい再現に力を入れる商店街、創業100年を越す「亀の子束子(たわし)本社」など、随所に見所がある。
いくつかの商店のガラス戸が、木枠で素通しの引き戸になっているのに、思わず足を止めてシャッターを押した。
このエリアは、中山道という旧街道を資産と考え、そのおもかげを何とか遺そうと努力している結果、大手小売が出ていないのも好ましい。
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