東京都北区 赤羽
Akabane, Kitaku, Tokyo
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May 25,2021 柚原君子
1,稻付城址 静勝寺
所在地:北区赤羽西1-21-17
東京都指定文化財
赤羽駅の近く。岩槻街道より少し奥まったところにある小高い場所。一帯は武蔵野台地で三方が崖のようになっています。時間に置き去られた静かな一角に緑の木立深い急な階段があります。階段脇石碑に「都旧跡 稲付城跡」と刻まれています。太田道灌が築城した稲付(いなつけ)城跡。石段を登ると静勝寺。山門の横に説明版。
『稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。道灌の死後、この城は孫の資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資(やすすけ)は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。明暦元年(1655)に道灌の子孫資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。(平成13年3月 北区教育委員会)』
江戸城と岩槻城を中継するための山城であった稻付城。太田道灌は室町時代の武将で江戸城を築いたのは有名ですがその他にも岩槻城、川越城などを築き、和歌も詠み文武両道に優れた武将でした。太田氏は、代々扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の家宰(かさい)という主君に代わって主家を取り仕切る職を務める家柄だったのですが、あまりにも優秀であったがゆえに主君の上杉に恐れられて殺されています。
今は静勝寺があるばかりの城址ですが、道灌堂もあります。道灌の風貌を彷彿とする座像(道灌の死の200年後に作られてもの)が修められて都の有形文化財となっています。
2,普門院及び道灌山稲荷
所在地:北区赤羽西2-14-20
道灌山稲荷
普門院の門前にある道観山稲荷社では、2月の立春後の最初の午の日に初午祭が催されます。その際に餅を搗き「稲付千本杵餅練唄」と、搗く際に唄われる「稲付千本杵餅搗唄」という作業歌が披露されます(平成8年1月23日に北区指定無形民俗文化財に指定)。
当日は保存会の役員が祭半纏で、「ヤーレ ヤーレ ヤーレ ヤーレ めでた めでたの
若松さまよ」といった餅練唄の独特の節回しでゆったりとしたテンポの唄声と手拍子が会場に響き渡るそうです。
1回目はベテランが唄い、2回目は若手が唄を披露。唄い手によって、リズムや音程が変わり、唄にそれぞれ深みが出て、歴史を感じることができる。「サノサー
わたしゃ飛び入り ドッコイサノサー めを
掛けたまえ」と餅搗唄に変わると、今年は新型コロナウイルスの影響で実際に餅を搗くかわりに、3人の搗き手が餅を搗いている表現を演出。コロナ禍でも、江戸時代から続く歴史を地域の人たちに披露し、伝統を継承した。
『稲付千本杵餅練唄』はよく練れるようにゆっくりとしたテンポで唄われる。祝儀ものは決まって唄われるが、即興で家族や自分の気持ちを唄うこともある。
『稲付千本杵餅搗唄』は34番まであり、リズムよく搗けるよう、手拍子を打ちながらのテンポの良い節回しになっている。最後に「すっとこねたら、あんもにしょ(意味:つきあがったら、あんこもちにしましょう)」と、威勢よく掛け声をされるそうです(北区役所HPより抜粋)
普門院(旧足立郡川口宿錫杖寺末、妙覚山普門院蓮華寺)
竜宮城を思わせるような山門が目に付きます。開基は不詳としながらも1307(徳治2年)。1649(慶安2)年には14石2斗の朱印状を拝領、近隣に末寺東曜山真性寺、五智堂を擁していた、とあります。ブッダガヤの寺院を模した納骨堂があります。鐘楼、延享5年鋳造小さいけれども静かな境内です。
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