落語「黄金餅」の舞台を歩く 「城下町東京」の今昔 江戸から現代までの街並変遷
台東区上野から港区白金高輪まで 古地図に忠実に考証ウォーキング by 坂学会 http://sakagakkai.org/
Rakugo story location tour,Tokyo. From Ueno,Taito to Shirokane Takanawa,Minato.
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時代と地図の考証をしながら落語の舞台を歩く。城下町江戸から現代までの変遷と対比が面白い。 |
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その1 source movie その2 source movie その3 source movie 写真は、クリックすると原寸(1280x720pixel)で表示されます。
2004年3月初旬、街歩き仲間が上野駅に集まった。坂学会、日本街並学会の主要メンバーだ。歴史・地理学者、落語好き、都市開発関係者、タウン誌編集長など、テレビに登場する人もいて、町歩きの達人ばかりだ。江戸の街並はどうだったのだろうか。土地利用(道路や建物)はどう変わったのだろうか。ランドマークとなる建物を全ての辻で検証してみよう。街の人気と地価が相対的にどのように変動したのだろうか、昔の人気スポットを知り未来を占ってみたい。等々、落語「黄金餅」(末尾参照)に描かれたルートに忠実に現代の東京を歩いて、「城下町東京」を貪欲に見てみようという風変わりなフィールド調査である。黄金餅には、下谷山崎町から日本橋、新橋、愛宕、麻布経由古川橋までの道を夜中に棺桶を担いで歩く様が描かれている。何しろ相手が落語である。出発点はどこか、終点はどこか、何がフィクションで何が事実か、など、謎は多い。歴史地理学者と坂の会代表は、この日のために2週間以上準備とルート考証を行った。準備した地図は、明暦3年(1657)版、安永8年(1779)版、安政6年(1858)版、江戸切絵図などである。落語の時代に近い地図として主に安永8年版の地図を利用した。なお、江戸の土地利用の変遷については、磯谷の論文を参考にした。(末尾参照)
現代版地図は国土地理院数値地図1/2500を利用した。
上野駅に12時に集合し、落語に描かれた当時のルートの解説、定説となっているルートの間違いの指摘。今日のルートの確認などのブリーフィングを済ませる。落語の定説では「三橋」(アブアブ付近)と「三枚橋」(アメヨコ、JRの東側、不忍池から流れ出る川にかかっていた)とを混同しているので、今回は忠実に「三枚橋」のルート(アメ横を抜けるルート)を選択した。
上野駅から出発点までの途中に銅版で覆った看板建築の趣ある建物を発見した。古い建物への住人の愛着が伝わってくる 。このような古い建物が江戸東京たてもの園に移築保存されている。
【参考】 今回順路の周辺にかつて存在し、江戸東京たてもの園に移築または復元された建物
*江戸東京たてもの園については別途レポートする
出発点は下谷山崎町の長屋だ。その場所は確定していない。今回、江戸時代の地図と照らし合わせて、長屋風の建物があったように思われる台東区東上野4-20付近とした。東京メトロ銀座線車両基地のすぐそばである。かつての長屋らしい細い路地が現存する。
改めて見ると上野駅は美しい。高速道路がこの付近の景観にダメージを与えている。駅の背後には緑豊かな上野の森。都心にありながら自然を感じさせる貴重な公園だ。
歩道橋の脇を御徒町へ入る。御徒町は当時の町屋の道割りとさほど変わらないが、商店がびっしり集まっており、アジア、特に韓国の市場と共通する雰囲気を漂わせている。不忍池から流れ出る川も三枚橋(上野6-4付近)も今は無い。
春日通りに突き当たったところが加藤家の屋敷付近だ。そこを右折しJRのガードをくぐって松坂屋へ。この付近は松坂屋がランドマークとなっている。ここは鳥居家の屋敷付近だ。松坂屋と上野広小路亭が対面する上野広小路の交差点を左折し堀家の屋敷を過ぎ中央通り沿いにまっすぐ歩く。
上野広小路から末広町、秋葉原へ。この町の風貌が変わりつつある。青果市場再開発の秋葉原クロスフィールドがこの付近のランドマークとなった。秋葉原の駅前も整備され、常磐新線も入る予定で、IT関連ではアジア全般を商圏にしているとも言える国際的な街だ。週末の歩行者天国は若者やアジアからの富裕客が多く、ある意味で銀座よりも活気がある。ますます発展するだろう。
秋葉原を越えると神田川にかかる万世橋。筋違御門があったところだ。川沿いにレンガ積みの中央線万世橋駅の名残が伺える。今は交通博物館となっているが、移転後にどのような施設が現れるのか楽しみだ。須田町は市電のターミナルでもあり、大いに栄えた。小川町側の三角地帯には今でも藪蕎麦、松屋ほかおいしい食べ物屋が繁盛している。その賑わいが復活してほしいものだ。須田町交差点付近には老舗の洋服店など特徴ある建物が多い。
交通博物館
江戸東京たてもの園に保存されている市電
神田駅のガードをくぐると今川橋。今川焼発祥の地だ。 今川橋が神田堀(神田八丁堀、龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681-83)。橋名の由来は、当時の名主今川氏から。この橋は日本橋から中山道に通じる重要な橋だった。神田堀は現在の千代田区神田、中央区日本橋地区の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流であった。昭和25年龍閑川は埋立てられ今川橋も撤去された。今ではその面影も無い。江戸時代末期頃この付近には陶磁器を扱う商家が立ち並び、たいそう賑わった。現在の神田は週末非常に寂しい。千代田区は丸の内や秋葉原に力を入れているので神田を見捨てているのであろうか。駅周辺の雑然とした雰囲気をなんとか整備してほしい。
この先は日本橋地区。オランダ商館長が江戸参府時に滞在した長崎屋跡や時の鐘跡がある。ここを過ぎ、国道との交差点を越えると三井の本拠地だ。十軒店の隣に三井ビルの新館が大きく現れ、この付近ののランドマークとなった。その隣には三井本館、三越と続き、その先には三越新館、さらに日本橋をまたぐ高速道路越しに、白木屋・東急デパートから変身したコレド日本橋が地区のランドマークとして目立つ。古い建物と新しい建物が違和感なく共存している。この地域は江戸初期ウィリアムアダムスに与えられた安針町やヤンヨーステンの八重洲など、江戸初期から和洋両面の雰囲気を持った町であった。今はその名残やフィーチャリングが全く無いのは寂しい。今はその名残やフィーチャリングが全く無いのは寂しい。長崎出島復元プロジェクトのような活動資金が欲しい。 日本橋地区はロンドンのシティと対比して考えると面白い。中央銀行があり金融の拠点であり、Cityの大火と明暦の大火、ロンドンブリッジと日本橋など、江戸東京の特別な場所として大切に扱いたい「City in the City」だ。 宰相アスキスを輩出したシティオブロンドンスクールに対し、日本橋は教育機能が弱かったが、早稲田の日本橋校がどのように機能するか楽しみだ。
「日本橋」は最初に建造されてから400年になり、その間何回も架け替えられているが、今が最も虐げられているように思える。その上を走る高速道路の威圧感によるものであることは万人の認めるところだ。解決策は、高速を持ち上げ橋の景観を取り戻す、あるいは高速を地下に移設するなどの方法があろう。高速を持ち上げれば景観はかなり改善されるが騒音はあまり改善されない。それでは日本橋にたたずみ川を眺めるなどの都市の潤いは回復できない。高速道路や鉄道ガードは心理的な恐怖心を与える。それが人々の滞在や回遊を阻害しているのは間違いないだろう。橋のたもとの船着場も全く利用されていない。ロンドンのテムズ川、パリのセーヌ川、ニューヨークのイーストリバー、上海のバンドはすばらしい。京都の鴨川はすばらしいが、道頓堀や日本橋川は死んでいる。人は川や海に向かってロマンチックになる。それらと比べて大きく見劣りし、観光資源を失った経済的損失は非常に大きいが、それに気づいていないように思われる。日本橋が「日本の名所」「一生に一度は行くところ」となれば、莫大な経済効果が生まれる。昔の伊勢参りのようなものだ。今ではディズニーランドがそれの代わりになっているが。
コレド日本橋は日本橋交差点の景観を大きく変えた。江戸の河岸としての日本橋の印象というよりは、ニューヨークやボルチモアなどの商業港に停泊する巨大帆船のイメージだ。この建物の寿命が60年から100年として、周辺がどのように変わっていくのか、江戸と現代と未来の対比が興味深い。高島屋も丸善も隣人が若返って華やいだ雰囲気になった。さらに映画館、美術館などの時間消費型エンタテインメント、文化施設が欲しいところだ。三越の向かいの横丁には、明治期の最高格の寄席伊勢本があり、漱石が頻繁に通っていた。今で言えば映画館だ。ミニシアターで良いから、多数の映画館が欲しい。ライブハウスが無いのも悲しい。公開スタジオなど、まだまだ欲しいものはいくつもあるが、そのためには人が来なければ始まらない。特に夜と休日の賑わいを増やすべきであり、銀座のクラブ文化とは一味違った「通の町」「紳士淑女の健全な町」など、文化性をアピールする必要がありそうだ。
八重洲1丁目付近は檜物町と呼ばれていた。江戸開府にあたって遠州浜松の檜物大工の棟梁、星野又衛門を町名主とした由来である。開府当時は町づくりのため多くの檜物を扱う宮大工が江戸へと集められた。
大正時代には泉鏡花、小村雪岱、花柳章太郎、水谷八重子など作家や役者が遊ぶ格式高い花街として賑わった。
京橋は安藤広重の絵に美しく描かれている。この付近は江戸に必要な竹を荷揚げする竹河岸と呼ばれていた。広重は八重洲河岸の火消し同心安藤家の生まれ。「東海道五十三次」など風景名所を描いた浮世絵師で、同心でもあった。広重が活躍した寛政享和時代は浮世絵の黄金時代であった。京橋は江戸歌舞伎発祥の地でもある。
高島屋付近から京橋までは商業店舗が少ない。このことと、二つの橋をまたぐ高速道路とが日本橋と銀座を心理的に分断しているのは残念だ。海外でも、高速道路はもちろんのこと、広すぎて交通量が多い道路が地理的にも心理的にも町を分断していることが多い。中央通りと、並行して走る昭和通りとを比較すれば道路の功罪は一目瞭然である。
京橋を過ぎるといよいよ銀座だ。銀座のランドマークは、銀座四丁目交差点の4つの建物、三越、和光、三愛、日産のビルだ。江戸時代から明治にかけては日本橋がはるかに賑わっていたが、現代は銀座の時代だ。百年後はどうなるのであろうか。日本橋も銀座も共存共栄して、ニューヨークの5番街をしのぎ世界一の規模と賑わいの街並ができると楽しいだろう。浅草もこの回廊につながって復活して欲しい。
銀座四丁目付近は江戸時代尾張町と呼ばれ、恵比寿屋、布袋屋、亀屋という大きな呉服屋があった。銀座一帯は銀の鋳造の「銀座」ほか、刀鍛冶、鉄砲鍛冶などの職人町であった。さらに銀座八丁目あたりは幕府公認の能役者金春家の屋敷があり、金春家に仕えていた女性が芸者の始まりといわれている。金春芸者は能屋敷だけあって長唄、常磐津、小唄、端唄、舞などの芸に通じていた。銀座五丁目にある新橋演舞場は金春芸者の流れを汲む新橋芸者が芸の発表の場として作ったものだ。
銀座八丁目から汐留地区を見上げる。汐留シティセンターが新しいランドマークとなっている。新橋の高速に沿って金春通りを横目に土橋に。この高速も大変目障りだ。
土橋を渡って新橋駅に出る。ここから西へ直進する。霞ヶ関ビルが正面に聳える。これは昭和40年代には東京タワーと並び東京を代表するランドマークであった。このあたりはビル街なので見るべきものも無く、皆早足となる。西新橋1丁目を左折すると愛宕タワーが登場する。
愛宕1丁目を右折し、NTT虎ノ門局を左折する。この付近は青松寺の寺領だった。
杉田玄白の墓所栄閑院の背後に愛宕タワーが聳える。寺とタワーは江戸と現代それぞれの時代を代表するランドマークだが、その二つが共存して調和するかどうか、どちらも自己主張が強く難しいところだ。奈良の東大寺の脇や京都の東寺の脇にタワーが似合わないのと同様だ。
突き当たりの左は愛宕山のトンネルだ。黄金餅のルートではないが、愛宕山のトンネルを天徳寺方面に右に入ると古い民家が見られる。再開発の用地か、壊されるのは時間の問題であるように見受けられた。本来のルートに戻ろう。突き当りを右に折れ、神谷町から飯倉への道路に出る。そこを左折し、神谷町を過ぎて進む。この付近のランドマークは言わずもがな、東京タワーだ。
愛宕山から見た品川方面(東京都写真美術館) 大名下屋敷の様子が良くわかる。
ここから先は坂の町。ビル街ではなく、住宅街の趣が出てくる。麻布台1丁目を右斜めに入る。その突き当たりは階段だ。ここが雁木坂。坂上を左、右、左と折れ、飯倉片町への道路に出る。そこを右折して直進する。左手には狸穴坂が見える。
間違って狸穴坂を下ったが、美しい坂だ。
飯倉片町を過ぎ、最初の交差点を左折、坂を下って右折し、麻布十番に出る。
麻布十番は近年脚光を浴びた下町風情の商店街だ。この付近のランドマークである六本木ヒルズに近く、どんどんおしゃれな町になっている。来訪者が多くなると町が加速度的に洗練される典型だが、古きよきものを失わないで欲しい。
悲しい実話の「赤い靴」の像を右に折れ大黒坂を登る。一本松坂に聳える松。昔はこれがランドマークだった。そこを登りきると高層住宅のタワーがランドマークとなる。この建物の形状は不安定な印象を与える。低層の住宅街に超高層の奇抜なタワーは目立つが、目立つことが低層住宅のコミュニティにとって良いことかどうか、感じ方は人それぞれだろう。
突き当たりの交差点を越えて左折し、尾根伝いに進む。このあたりはあまり開発が進んでいない住宅地だ。途中に土蔵があった。薬園坂上を左折し、道なりに進むと絶江坂。
この坂の上を左に入ると戦後すぐにタイムスリップしたような古風な光景が現れる。こんなところが麻布にあるのだ。ここから見るビル群の新旧コントラストが激しい。
絶江坂の途中を左へ左へと回り込むと、黄金餅でお経を上げた寺のモデルになったと思われる曹渓寺。そこから5分ほどで白金高輪に到着して解散。
まとめと提言 落語では上野から麻布まで深夜に短時間で到着するコースだが、我々は途中の調査取材などあれこれあり、ほとんど飲まず食わずで5時間かかった。実際に歩いてみて、東京は明らかに城下町江戸の街並を継承していると実感した。奈良や京都だけでなく、街づくりには千年単位の時間感覚が重要なことが改めて理解できた。江戸400年の歴史に学び、これからの数百年の東京のあり方を考える必要がある。千年単位の都市計画は、殿様や坊さん、神主さんが余裕を持って設計したほうが良いのかもしれない。
江戸時代の町人町、武家地、郊外地が変遷しつつもその根源を継承していることに驚いた。武家地が明治に入り公共施設となり、払い下げでビルになったりと、土地利用は変わったが原型はそのまま継承している。現在はビル群がさらに港区の住宅地にまで大きく広がっているが、このような都市は東京だけだ。将来は欧米のようにビルも都心商業施設も便利なダウンタウン中心部に再集積すると予測している。人間の心理地図では、「抵抗無く歩ける範囲」が限られているからだ。それは、「地元の町」とほぼ同じ認識だ。浅草上野から汐留までの回廊(江戸東京コリドー)と、大手町から丸の内日比谷までの回廊(文明開化コリドー)、これらをつなげば「世界最大のダウンタウン、世界最大のプロムナード」が生まれるだろう。その方策について、具体的に提案してみたい。
【世界一の歩行者天国と毎週末のお祭り】
日曜10時から16時まで各区域ばらばらの歩行者天国ではなく、週末ずっと、土曜日朝8時から日曜日夜11時まで、区域も汐留から浅草までを全面歩行者天国とする。ウィークエンドに車は不要だ。なぜ夜道路をのんびりと歩けないのか。なぜ夜道路に座りドリンク片手におしゃべりできないのか。スペインやイタリアなどラテン系の町は夜遅くから朝までが最も賑やかだ。日本も平安貴族はその時間が最も活発であった。交差点で分断されるのも雰囲気が壊れる。各所にある東西の通過交通も遮断し、車は迂回誘導する。交通規制のパトカーの点滅灯や警官の笛は愉快ではない。
毎週、都道府県別、国別にパレードや歌舞音曲、物産即売などのお祭りを開催し、賑わいの演出を行う。デパートではできない企画が可能となる。毎週のイベント運営は複数のNPOが競争で行う。
【露天商等の許可】
祭があれば露天商や大道芸はつきものだ。道路管理当局から複数のNPOが委託を受け、テラスカフェ、露天商、大道芸人、露天寄席、フリーマーケットなどを出店させる。出店者からはもちろん賃料を取るし、適切な出店審査、衛生指導なども行い、ファミリー企業や政治家、暴力団が関与しないように出店者情報の公開と適正審査を行う。収益は道路管理者(納税者)に還元される。
【地下鉄の活用】
シャトルバスも良いが、既存インフラである地下鉄銀座線を見直そう。週末には余裕があるので徹底的に活用するべきである。新橋浅草間は200円程度で一日何回でも乗り降り自由とする。土曜の夜はその区間限定で折り返し終夜営業とする。
【水上交通の整備】
江戸時代は今よりはるかに水上交通が盛んだった。水上バスを5分間隔200円程度のシャトル(これも一日乗り放題)とし、浜離宮浅草間の水上ルートを整備する。もちろん夜間も運行する。これにより陸路と水路でエリアを周遊することができる。江戸時代も今も東京は水の都だ。ベニスやサンアントニオ以上に水面活用できるポテンシャルがある。日本橋、京橋と万世橋にも船着場を新設する。内水を皇居や神田川上流までたどるコースも新設する。鬼平や雲霧仁左衛門や御宿かわせみに登場するような定員二人の貸切屋形船も登場させたい。最高のデートが演出できるだろう。
【憩いの場の整備】
浜離宮と上野公園と浅草観音がこのルートに潤いを与える。 これらはおざなりに管理されており、都市戦略上も認識されていないので、最大活用策を考えたい。
【浜離宮】
浜離宮庭園はプロムナードの南端を担う重要な公園だ。朝6時から夜23時までオープンとし、休憩施設、飲食施設、常設舞台を設置する。庭園入場料は100円程度とする。露天商等は道路と同様に許可する。水上バス乗り場をシャトル対応となるように整備する。23時以降は離宮入り口から乗船する。
【上野公園】
日本最高の文化の森であり、日比谷公園よりはるかに広いのに、都市生活者の憩いや散策を阻む現在のビニールシート群は無残である。上野公園は世界の大都市と同様、東京に無くてはならない都市公園であり、その再生活用は非常に重要だと思う。この公園はプロムナードの北端を担い、ここから浅草または谷中方面への中継分岐点となり、休息場として機能する。ホームレスは移動してもらう。露天商等は道路と同様の方式で許可する。アメリカでは、このような公共施設での許可を「コンセッション」という形で積極的に進めている。
【浅草】
仲見世と浅草寺境内、花やしきは一種独特な空間であるが、浅草寺の休憩施設、トイレなどをさらに整備し人々の快適な滞在を促進する。さらに隅田川沿いのプロムナードを整備する。
【休業税】
銀行店舗など、土日に休業する路面店舗には間口に応じて「休業税」を課す案はいかがだろうか。これにより、町の賑わいに寄与しない非協力的なテナントや不動産所有者の翻意を促す。
【街並ナビゲーター+ボランティア 】
通りのいたる所にキオスク端末とボランティア(シルバー人材など)を配置する。その主な機能は、町や商店ガイド、イベントの通知、予約、スタンプラリー、迷子の管理、ライブイベントの放送、警察救急などの受発信等々である。
【スタジオ、常設ステージ、巨大スクリーン】
ローカルラジオとTVスタジオを随所に設け、TVなどマスメディアとの連携を図る。スタジオとステージはセットで設置する。ステージはオープンなものと建物内のものと二種類。銀座交差点やマリオンにあるスクリーンをはるかに大型化した3D型スクリーンを設置し、路上映画会、ライブショーの映写などを行う。寄席、歌舞伎、浄瑠璃などの伝統芸能はNPOの審査により優遇する。
【福引と抽選会場】
全ての商店街共通の福引、スタンプラリー賞金、クーポン、ポイントなどをカードまたは携帯電話と連動して管理する。このことにより、射幸心を煽るとともに遊戯性とリピーター確保を図る。
【トイレ、休憩施設の大幅増設】
現状ではとにかく足りないし汚い。 トイレは非常に重要だ。各所にトイレ専用のビル、ピクニック用の休憩専用ビルがあっても良いくらいだ。京橋脇の警察博物館など、この地区に存在理由が希薄な施設は転用することを検討すべきである。
さて、この動きが発展すると、この地域が巨大な無料テーマパークになってくる。世界中から来訪者が増え、ますます栄えるようになるであろう。
黄金餅のあらすじ古今亭志ん生の「黄金餅(こがねもち)」 下谷の山崎町の裏長屋に、薬を買うのも嫌だというケチの”西念”という乞食坊主が住んで居た。隣に住む金山寺味噌を売る”金兵衛”が、身体を壊して寝ている西念を見舞い、食べたいという餡ころ餅を買ってやるが、家に帰れと言う。隣に帰って壁から覗くと、西念があんこを出して、そこに貯めた2分金や1分金を詰め込んで、一つずつ全部、丸飲みしてしまう。急に苦しみだしてそのまま死んでしまった。金兵衛は飲み込んだ金を取り出したく工夫をするが出来ず。焼き場で骨揚げ時に、金を取り出してしまおうと、決意する。
漬け物ダルに納め、貧乏仲間なもので夜の内に、葬列を出して、下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっすぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっすぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私もくたびれた。
貧乏木蓮寺で、葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている所があるから、そこで飲んで、自分で金を払って帰ってくれと。
桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持ってきた。朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまう。
その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。
安永期の江戸土地利用図 凡例 (磯谷真理子・高木勇夫、慶応大学日吉紀要3号,1992) 上記、明暦、安永、安政の古地図は磯谷真理子提供
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