東京都豊島区 目白不動と金乗院
Mejirofudo and Konjoin,Toshimaku,Tokyo
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所在地:豊島区高田2-12-39
JR目白駅より目白通りを早稲田方面に走って行くと千登世橋がありその先の二つ目の信号を右に折れると左側の石畳の坂の途中に慈眼寺金乗院と目白不動堂があります。目白の地名の由来となった目白不動尊です。
山門の前、左側に案内板と「十一面観世音」の石柱。右に炎を背負って左腕先のない不動尊の石像があります。享保6年と刻まれています。山門をくぐると正面にあるのが金乗院。山門の右側に目白不動尊。不動堂は石段を上がっていった先にこじんまりとあります。不動堂の中央、かなり奥ですが確かにおわします。本尊不動明王は弘法大師作と伝えられ、高さ8寸(25センチメートル)、断臂(だんぴ)不動明王と命名されています。秘仏であるそうですが、撮影禁止とも書かれていないので、ちょっとカメラを向けてみました。
金乗院と目白不動の歴史や合併の経緯が書かれている案内板を要約すると下記のようになります。
「金乗寺は真言宗の寺院で開山の永順が本尊の聖観音を勧請して観音堂を築いたのが草創。永順の死は1594(文禄3)年であるからそれ以前の創建。当初は蓮花山金乗院といい中野宝仙寺の末寺であったが後に、神霊山金乗院と改め護国寺の末寺となる。江戸時代には近辺の木之花開耶姫社(このはなさくやひめしゃ)などの別当。昭和二十年四月の戦災で本堂等の建物。水戸光圀の手になるという「木花開耶姫命」の額などの宝物も焼失した。現在の本堂は昭和46年に再建。目白不動堂は以前、文京区関口にあったが昭和20年5月の戦災により焼失したため、本尊の不動明王像を金乗院に移して合併。不動堂は1618(元和4)年に小池坊秀算によって建立。東豊山浄滝院新長谷寺と号した。本尊の不動明王像は、目黒、目赤などの五色不動の一つであり、目白の号は寛永年中(1624〜1644)に三代将軍徳川家光の命によるといわれる。墓地には丸橋忠弥・「青柳文庫」の青柳文蔵などの墓があり、他にも庚申塔などが多くみられる。昭和56年3月:東京都豊島区教育委員会」
目白不動尊は「江戸五色不動」のひとつとされていて、徳川三代将軍家光が天海大僧正のアドバイスにより、江戸府内の名ある不動尊を、五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)に分けて(江戸5街道の守護のためともいわれています)命名したと伝えられています。目白、目黒、目赤、目青、目黄、とそれぞれお不動様があるということなのですね。
参拝後に不動堂と金乗院の間にある墓地への石段を上がってみます。左右に大きな庚申塔があります。丸橋忠弥の墓と案内がありますが、丸橋忠弥がどのような人物であったかの説明はありません。帰宅して調べたら由井正雪と江戸幕府の転覆を謀った人物ということでした。他に「青柳文庫」で知られる青柳文蔵の墓もあるとありましたが、どこだか見つけられませんでした。
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