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東京都 三鷹市/武蔵野市 井の頭公園

Inokashira park, Mitaka city/Musashino city, Tokyo

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Apr.2012 松田浩志

「井の頭池は豊かな湧水を誇っている。園内武蔵野市側の御殿山遺跡からは縄文時代の竪穴式住居遺跡も出土することから、井の頭池は古くから人間の生活に不可欠な水源となってきたことが窺える。

井の頭池西端の島に現存する井の頭弁財天(別当寺は天台宗大盛寺)は、その起源が、平安時代中期に六孫王経基が伝教大師作の弁財天女像を安置するためこの地に建てたお堂であるとされる。弁財天の縁起には、その後源平合戦の頃、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられている。その後、鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天が焼失した。数百年の間放置された後、江戸幕府三代将軍徳川家光により弁財天が再建された。

井の頭という名称は一説には家光によって名づけられたものと伝えられ、自ら小刀で弁財天の傍らのこぶしの木にその名を刻んだとも伝えられる。現在、その場所にはその伝承を記した石碑が建てられている。

井の頭という名称の由来についてはそれ以外にも、「えんかしら、この水の美しさ」と家光が驚嘆したことがその後に転じて「いのかしら」になった、とする説もある。

なお御殿山の地名は、家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことに由来する。この一帯の武蔵野は、三鷹という地名にも残るように、徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場であった。

江戸時代の特に江戸市民にとっては、弁財天は信仰の地であるとともに、行楽地でもあった。これは、江戸時代の初頭に神田川が改修されて江戸に神田上水が引かれたため、江戸市民にとって井の頭池が水がめとなったことと関連している。弁財天境内や向かいの石段、石段を登りきった周辺などに、その当時の商人や歌舞伎役者が寄進した石灯籠、宇賀神像などが残る。なお、かつては石造りの鳥居も存在した。この鳥居は1767年(明和4年)に寄進されたものである。しかし、この鳥居は明治初年の神仏分離令の際に撤去され、鳥居の柱石は後に井の頭池と神田上水の間の水門に転用された。その水門は現在使用されていないものの、池の東端付近に今も残る。弁財天への参道は、現在も史跡として整備されており、「黒門」と呼ばれる黒い鳥居もある」ウィキペディア日本語版より転載

                           

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