JAPAN GEOGRAPHIC

東京都北区 中里貝塚

nakazatokaizuka,Kitaku,Tokyo

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Apr.9,2019 瀧山幸伸 source movie

 中里貝塚は,武蔵野台地下,旧東京湾奥部の西側の浜辺に営まれた縄文時代の貝塚である。付近の武蔵野台地上には同じ縄文時代中期の西ヶ原貝塚や御殿前遺跡がある。

 中里における貝塚の存在は早くから知られ,大森貝塚の発掘から9年後の明治19年には白井光太郎によって「中里村介塚」として学界に初めて報告された。その後,明治29年には鳥居龍蔵らが,貝塚を見渡したスケッチを残している。このように明治年間から学界に報告され注目された貝塚であったが,その後,鉄道敷設や宅地化で次第にその存在も忘れられていった。

 昭和33年に和島誠一による調査が行われ,厚さ2m以上に及ぶハマグリとマガキからなる貝層が確かめられた。昭和58〜59年に周辺で行われた調査でも,当時の浜辺からムクノキ製の丸木船1艘と集石炉2基が出土した。公園建設にともなって北区教育委員会が行った平成8年の発掘調査では,厚さ4mの大規模な貝層と貝の処理施設と考えられる2基の浅い皿状の土坑が検出された。この土坑は1.6×1.3mと0.6×0.5mの大きさで,いずれも内壁に粘土を貼り,枠取りをするように枝を縁に巡らしている。土坑内からは大小の焼石やマガキのブロックが出土したことから,土坑中に貝を置いて水を張り,焼石を投入して水を沸騰させ,貝の口を開けた処理施設であったと推測された。こうした施設を用いて集中的に貝を加工した結果,膨大な量の貝が堆積したことも想定された。また,出土土器から貝層の形成は縄文時代中期中葉から後期初頭であること,貝層中には焚き火跡と判断される木炭層や灰層があることも確認された。さらに,平成11年にも,マンション建設に先立って,北区教育委員会が平成8年の調査地点の西120mの地点を発掘調査し,厚さ2m以上の貝層下の波食台に敷かれた長さ6.2m以上の木道と,それに続く長径3.2m,短径1.7m,深さ0.5mの土坑を確認した。なお,平成8年,11年の両調査地点とも保存が図られている。

 このように中里貝塚は,集落からはなれた浜辺で付近の集落に暮らした人々が協業して貝加工を行った結果残された,南北100m以上,東西500m以上の範囲に最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる,巨大な貝塚である。そして,縄文時代に自給自足的な範囲を越えて内陸の他の集落へ供給することを目的とした貝の加工処理があったことを各種の遺構で具体的に伝える重要な遺跡でもある。よって史跡に指定し保護を図るものである。(文化財データベース)

           

   

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