東京都中央区 日本橋(架橋と街並)
(Nihonbashi Bridge and nihonbashi area, Chuoku, Tokyo)
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中央区日本橋1-1 日本橋 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治44(1911) 石造二連アーチ橋、高欄付(青銅製照明灯を含む) 東京市道路元標1基 19990513
Oct.24,2022 柚原君子
中山道の起点日本橋から板橋宿へ
『中山道を歩き始めた理由』について
2011(平成3)年3月11日金曜日14時46分、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とする『東北地方太平洋沖地震』が発生しました。地震の規模はマグニチュード
9.0(震度7)。これまでの日本周辺における観測史上最大の地震でした。沿岸部の町には最大遡上高40メートルもの津波が来襲し、福島第一原子力発電所におけるメルトダウン発生は、日本のみならず全世界に大きな衝撃を与えました。
※『東北地方太平洋沖地震』は地震の名称で『東日本大震災』は震災の名称です。以下東日本大震災の名称を使用します。
東京に住んでいた私たち家族は地震による建物などへの影響はありませんでしたが、原子力発電所のメルトダウンで放射能が飛び散る恐怖でいっぱいでした。小さかった孫とまだお腹の中にいた孫を守るために名古屋の親戚に、一週間ばかりお世話になりました。汚染された風向きが決まり東京はまずは大丈夫とのことで戻ってきましたが、当時娘や私が住んでいたのはゼロメートル地帯。映像で見た何十メートル高の津波が夢にも出てきます。ローンを組んで新築戸建てを買った娘一家は、このままここで長いローンを組んでいくのは危険と判断して東京の高台への引っ越しを決心します。私はその時61才でしたが、仕事を長く続けることはあまり考えていなかったので、退職して娘との同居を決め、私の家と娘の家を同時に売却して、海抜20メートル以上の場所へと家探しが始まりました。
前置きが長くなりましたが、そのようなわけで東日本大震災から3年後に板橋区に引っ越しました。
そこで土地に慣れるために板橋区内を自転車探検。その時に家から7分ほどのところに『中山道』・『仲宿』をみつけ、歴史で習ったことはありますが実際に街道というものをじっくり見たことがなく、板橋宿本陣跡碑や江戸から追い払われる人と家族が別れて泣いた松や一里塚などを興味津々で見て周わりました。
そのうちに中山道板橋宿の先はどうなっているのだろうかと、中山道次宿である蕨方面に自転車を向けてたどるうちに、少しずつ中山道が伸びていき、気がついたら京へ京へと歩き始めていました。
『中仙道・旧中山道・中山道の表記』について
中山道は江戸時代の五街道の一つです。江戸と京の間に通る街道は二つあり、太平洋側を通っていくのが東海道。本州中部の内陸部山中を通っていくのが中山道です。東海道は川止めが多く道中予定が立てられないのですが、中山道は道程長く起伏の多い山道ですが予定が立てられるので、江戸時代は中山道利用が多かったようです。
中山道は古来の地図では「東山道」と記され、江戸時代以前は山の中の道との意味で『中仙道』と表記されます。徳川幕府が街道を整備する1716年には『中山道』で統一されますが、明治になり国道17号線が通ると中山道は否応なしに寸断されていき、現在の中山道は実に多い表記に出合います。
国道から離れた山道は『旧中山道』の表記。元は原っぱに近い平坦な道も現代は家が建っていることが多く、民家の脇を抜けて行く細い道は『古中山道』・『推定中山道 』の木札が地面に刺してある所も有ります。
大きな峠、小さな峠を越える山道が『旧中山道』で、いずれその先で国道17号に合流すると再び表記は『中山道』になりますが、自治体によっては国道17号にカッコ書きで「旧中山道」表記もあります。
現在では道がなく推定するほかない『廃中山道』、その先は人が通る事が禁止されて杭止付きの『中山道原道』なる表記もあります。そして「木曽街道」「木曽路」「近江路」「美濃路」など土地に入るとその土地特有の表記も重なって出てきます。
中山道は草津宿を終わりとしてそのあと京に向かう道は東海道となり、京に到達する最後の宿である「大津宿」に向かう事になります。中山道で京に向かいつつも草津をあとにすると中山道表記は消えてすべてが東海道表記になるので中山道好きは少し戸惑います。
江戸幕府の整備した中山道は本陣脇本陣を充実させて、参勤交代の行列も通過し降嫁する和宮様ほか多くの姫が行列をしたので、姫街道とも言われます。
けれども峠の山道はとても細くガレ場も多く、このようなところを馬の背の荷物も多かったであろう行列が通過したのかと、本当にこれが旧中山道の実態なのかと思いながら歩きましたが、踏破を終えた今は、国道から離れれば『旧中山道』というイメージでその残った山道は使わなければ草木が茂り、使われる道だけが踏まれて道として残り、現代の私たちが趣味で中山道を歩ける山道の巾が残っているのだろうと結論つけました。
中山道の所々に広重の絵が掲げられています。街道を往き来する人々の笑顔や茶屋で休むお嬢さんの顔や、茶屋の裏手で鶏を追うおばあさんなどが描かれているのを見ながら、中山道の賑わいを想像して見るのも楽しみの一つになり、歴史に埋もれた隠れキリシタンの里の案内や、十字を刻んだお墓なども時々現れて、歩く楽しみがとても多い中山道です。
「日本橋~板橋宿へ」
概要
江戸時代は「宿継制度」と呼ばれる、人馬を継ぎ立てながら荷物や書簡を必要な場所に送っていく方法がとられています。継がれる場所は宿場町として栄え、その道中が長い場合は間の宿の機能を持つ場所となり栄えます。
江戸幕府としては荷物書簡人々の往来の便利はさることながら、各地の大名の動きを監視したり、余計な蓄財をさせないための参勤交代制度で自藩と江戸との往来をさせたりする意味もありました。
幕府からの指示を届けたりするので街道には道中奉行なるものを置いています。
宿継ぎの道として江戸幕府は東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道を整備します。
それらの起点となるのが徳川幕府のお膝元の「日本橋」です。
江戸時代の『府内備考』に「此橋江戸の中央にして諸国よりの行程もここより定めらるる」とあります。日本橋の道路中央の道路元標は大正時代に設置されたもので、本物は道路の中央に埋め込まれていますが、道路に飛び出して本物を見なくても良いように、日本橋の三越寄りの橋脇にそのレプリカが飾られています。
江戸時代に参勤交代や幕府の新書などの往き来は江戸城ですから、日本橋を必ず通り、五街道にそれぞれ向かいますが、一般の旅人や荷物や書簡はそれぞれの場所から集まり、この五街道を主として、それぞれの地に向かいます。
中山道の場合は日本橋から神田、秋葉原、須田町を抜け、神田明神を右手に見て本郷へ行くまでが「かねやすまでは江戸のうち」と詠われて、現在も昔と同じようにある本郷三丁目交差点の角の「かねやす」を過ぎて板橋宿に向かうことになります。
日本でも指折りの一等地となった銀座を背に日本橋から中山道に踏みいると、神田の辺りまでは中山道の標識もイメージもあまりありません。それでも巨大で斬新で最新式のビル群の間の所々に江戸の面影がありますので、辿っていきたいと思います。※
撮影は2015年に撮影しましたが、原稿を書いたときにもれていることが多くあることに気がつき、2022年に再度撮影をしています。2015年に有った物が都市開発で消えていることも有り、貴重な7年間となりました。並べ置きますので見比べて戴ければ幸いです。
1,2、五街道出発の地 日本橋
現在の日本橋は1911(明治44)年に建造された石造り二重のアーチ橋で国の重要文化財ですが、江戸開府にともない1603(慶長2)年に建造された日本橋は木造の太鼓橋です。雪の積もる間もないほどの多くの人と荷馬車の通行があり、多くの絵画に登場しています。現在、東京都墨田区両国の『東京都江戸東京博物館』には江戸期の実際の大きさで木の橋が再現されています)
このように江戸時代よりある日本橋は『残しながら、蘇らせながら、創っていく』というコンセプトの元、改修が重ねられて現在に至っています。橋下の日本橋川は遊覧船の発着所にもなっています。上に高速道路を通したため景観的にはあまりパッとしない薄暗い日本橋になっているのは残念ですが、飾られたいろいろをじっくり見ていくと歴史がいっぱい隠されています。
『日本橋』と書かれた銘板の揮毫は江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜によるもの。獅子像がたくさん設置されているようですが、数えた人によると32頭は居るらしいとのこと。前足で押さえているのは東京市の紋章で、現在の東京都の紋章と一緒です。
麒麟は泰平の世に現れる中国の想像上の獣です。日本橋の麒麟はさらに翼を持ち、東京市が羽ばたき繁栄する希望が込められています。また五街道の出発地らしく、燈柱の文様は一里塚に植えられることの多い松と榎が彫刻されています。
橋のたもとには罪人をさらした『晒し場跡』があります。関東大震災で焼けたので以後魚河岸は築地に移動しましたが、反対側の袂には『魚河岸の跡碑』と乙姫像があります。乙姫は竜宮城、豊穣な海と魚というイメージでしょうね。
また日本橋を挟んでの近辺には、江戸開府に従って付いてきた徳川家の本拠地であった駿河の人々の生活の痕跡も『駿河銀行』があります。昭和7年に室町に変更されたので今は残っていませんが、それ以前は『駿河町』という地名もありました。
(2015年撮影)
(2022年撮影)
3,4 三浦安針屋敷跡~三越~日銀~長崎屋跡地
日本橋を過ぎて歩き始めると、信号二つ三つの間に、江戸お膝元の暮らしが垣間見えます。先ほどの魚河岸跡もそうですが、1600(慶長5)年から1673(延宝元)年の江戸初期の頃、イギリス人であるウィリアム・アダムスが漂着した後に徳川家康の通商顧問になっていますが、その住居跡もあります。
家康が金工を招いて小判の鋳造を始めた金座跡は現在の日銀です。三井八郎右衞門高利が開業した越後屋呉服店はその他の店と共に 『江戸店天(エドダナ)』と称されて伊勢、近江、京都に本店を置く大店が軒を連ねていました。今は形はありませんが、八代将軍綱吉が京都の雛人形師10人を招いて長屋10軒を与えて雛人形を作らせてもいました。
芭蕉も1672年頃から三浦安針の住まい近くに8年住んでいたそうで居住跡碑があります。魚河岸に働く人々は佃島地域に住んでいましたし海からの出入りは自由でしたので、当時情報網は歩いて取ってくるしか無い時代で、魚河岸の人々や松尾芭蕉なども隠密を兼ねていたという想像もまんざら嘘ではないような、江戸城近くの町並み人々の配置のような気がします。
室町四丁目交差点脇には『長崎屋跡』があります。江戸時代は鎖国政策でしたがキリスト教を広めない約束の上でオランダと中国のみが交易を許されて、長崎の出島でのみ活動が許されていました。
彼らは幕府に謝意を表わすために参府します。その時の定宿がこの長崎屋でした。江戸参府は毎年のことでシーボルト医師、通訳なども同行する大勢な行列だったようで、日本人で蘭学に興味を持つ平賀源内、杉田玄白なども長崎屋を訪れて江戸における西洋の最新情報を知る交流の場にもなっていたそうです。
(2015年撮影)
(2022年撮影)
5,(大洋ビルディング)丸石ビルディング
中山道関連ではありませんが、素敵なビルなので『丸石ビルディング』に寄り道。
1931(昭和6)年に完成した鉄骨鉄筋コンクリート造り、近世ロマネスク様式のビルです。霞ヶ関ビルやNHK放送センターを設計した山下寿郎氏の作品。旧丸ビルの設計建設で関東大震災を受けての体験を生かした耐震造りになっているそうです。
ロマネスク風の動物や植物が配置されていますが、特に正面の獅子像二頭は圧巻です。当時川に面した側に(川は現在はありません)四頭あって水を吐き出していたとのこと。
未公開で中には入れませんが、表から覗かせて戴いた入口の白い天井には花がいっぱいでした。帰宅して調べたら、建設当時は彩色であったそうですが、第二次世界大戦中に建物に大きな損傷が無かったので地域住民の避難所になり、煮炊きする煙で天井と彩色された花々がすすけたそうです。戦後は天井は白一色になったとのこと。登録有形文化財になっています。
(2022年撮影)
1711(宝永8)年に鋳造された時を告げる鐘が中山道より少し北に入った日本橋小伝馬町十思公園内にあります。『銅鐘石町時の鐘』(東京都有形文化財)。江戸には9個所の時の鐘がありそのうちの一つです。一帯は伝馬町の牢屋があった場所で、この鐘を合図に処刑も行われています。処刑者の延命を願って打つことを遅らせたこともあり、情けの鐘とも言われていたそうです。公園の前の大安寺は処刑地だったところで、今でも祈りの菩薩が立っています。
街道に戻って室町三丁目の交差点にあるのは本銀(ほんしらがね)通り。
江戸市中で一番栄えた商業通り。町名の由来となった銀細工職人が集まった職住の町ですが、その他にも刀脇差しの細工師、目貫師と呼ばれる刀のツバを作る職人、縫箔屋・指物屋・塗師・蒔絵師・彫物師・小細工印判師・鍔師・象嵌師・柄巻師など武士にとって必要な物を作る人々が集まり、また御楽器道具師・御仏師などその他の人々が暮らす町方の消費も担い、三越などを初めとして暮らしのすべてが揃うような大きく栄えた一帯だったそうです。
大正12年の関東大震災で焼け野原となり本白銀という町名もなくなりましたが(近くには鍛冶町という地名は残っている)、江戸時代の繁栄の跡として通りに名が残されました。
鍛冶町、神田の駅を越えて須田町に入ってくると南側に『東京都選定歴史的建造物』に指定されている『竹むら・神田まつや・あんこう鍋のいせ源、神田やぶそば』など趣のある店が点在しています。銅が変化して緑青(ろくしょう)になった二軒長屋のような商店やステンドグラスが美しい店も残っています。
靖国裏通り沿い北面に建つのは木造3階建,切妻造,金属板葺の診療所兼住宅の山本歯科医院。医院の医も旧字で読み方も右から。
関東大震災復興期の看板建築遺構で東京都登録有形文化財です。軒蛇腹,看板,菱形装飾などによる正面の外観意匠に特徴があるそうです。
中山道に戻って神田の駅を通り過ぎて須田町交差点に。
一帯は江戸時代は須田村で農村地帯でしたが江戸が繁栄するに従って、菓子、藥、塩、油などを扱う問屋や仏具屋など様々な商品を扱う商業の町に生まれ変わります。現在でも須田町には生地問屋が多いのですが、明治期に神田川の和泉橋付近に古着を売る店が集まっていて、それが引き継がれたのではないかと想像されています。
交差点を越えて右側に鉄道が高い位置に通っていますが、それと共に進んで行くと昌平橋とその交差点に出ます。神田川に赤煉瓦が映えて絵になる場所です。現在の昌平橋は昭和初期の架橋ですが、1624年の寛永年間にはもう架けられていた記録があり、さらに元禄時代の記録には『相生橋』とあるそうですが徳川綱吉が湯島の聖堂を1691(元禄4)年に建立したのちには、孔子誕生の昌平郷にちなんで橋名が昌平橋と改名された経緯があります。
(2015年撮影)
(2022年撮影)
昌平橋の手前に淡路坂。鈴木重泰という武士で二代将軍秀忠に仕えた御書院番でのちには御小姓組に転じる人物。そして従五位下淡路守に叙任された知行千石の旗本。その屋敷のあった場所なので姓とって淡路坂になったそうです。
昌平橋交差点を直進して次の信号の神田明神下を左折すると右側にある大きな鳥居が『神田明神』。大黒様と恵比寿様と平将門を祭神として、江戸三大祭りの一つとなり神輿は江戸城内にも入り、天下祭として歴代将軍が上欄したそうです。
朱色鮮やかな隋神門をくぐります。
神田明神は神田神社と称する神社で武蔵国豊島郡芝崎村(現在の大手町将門塚辺り)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により奈良時代である730(天平2)年に創建されています。
大黒様や恵比寿様の他に平将門が祭神となっている理由は、将門塚辺りに天変地異が続きそれを納めるために霊を慰め奉祀されたと社伝にあります。関ケ原の戦いに行く徳川家康が参拝し勝利を祈ります.そして9月15日に勝利して天下統一を果たした日として、9月15日が神田明神大祭日となっています。
以後、江戸幕府の尊崇する神社として江戸城の表鬼門にあたる現在の地に遷座して、「江戸総鎮守」として現在に至っています。
神田明神下の長屋に住んでいたという架空の人物、銭形平次と彫った石があるのも面白いです。
本殿、幣殿、拝殿、神饌所、瑞垣、宝庫、西門、東門など多くの国登録有形文化財があります。
神田明神を出て右にある小さな路地が旧中山道でそこを入って行きます。道なりに行くと『湯島聖堂前』交差点にでます。
(2022年撮影)
前述の昌平橋命名は孔子誕生の地である昌平郷からきていますが、神田明神の向かい側にある湯島聖堂は1961(元禄4)年、五代将軍徳川綱吉が創建した孔子廟です。廟は霊を祀る建物という意味です。
創建されてから約100年後の八代将軍家斉の時に昌平坂学問所が併設されます。
明治初期に、幕府天文方の流れを汲む開成所と種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へとつながって行き、湯島聖堂にある昌平坂学問所は日本学校教育発祥の地と言われるようになります。
湯島聖堂(大成殿)は、関東大震災で焼失してしますがその後、昭和10年に伊東忠太博士の設計で再築されます。荘厳でいつ訪れても静かな佇まいです。
大成殿の屋根に乗っている鳥獣は想像上のものでシャチホコが空に向いて水を吹上げています。焼失を免れるという願いが込められているのでしょうか。通常のシャチホコは虎の頭に魚の尻尾ですが、大成殿のシャチホコの頭は龍になっています。大体は屋根の中心に顔が向くのですが、大成殿のシャチホコは屋根の外側に龍の頭が向いています。屋根先の滑り落ちそうな部分には孔子のような聖人の徳に感じて現れるという、想像上の霊獣が乗っています。猫か虎のような顔ですが牙をむき蛇腹のような手足でにらみをきかせています。敷地内には孔子の像がありますが、世界一大きな像といわれています。
(2022年撮影)
中山道に戻り先ほどの交差点『湯島聖堂前』を左側に医科歯科大学を見て直進するとまもなく本郷です。この通りに桜とモミジの大木があったそうで『桜の馬場跡』と命名。特に説明板はないようです。
信号三つばかり行くと本郷三丁目交差点。左に『本郷もかねやすまでは江戸の内』と有名な古川柳の『かねやす』があります。
1716(享保年間)年、兼保祐悦(カネヤスユウエツ)という口中医師(歯医者さん)が『乳香散』という歯磨き粉を売りだして評判になった店。
どうしてかねやすまでが江戸の内といわれたのかには理由があります。
かねやすは大繁盛のお店でしたが、江戸の大火で焼けてしまいます。
当時の奉行は映画でもおなじみの大岡越前守忠相ですが、江戸の町の火消し対策として『いろは四十七組』を作り防火能力のある瓦屋根と土蔵を!と、町家造りに推進します。
大火でやけたかねやすもこれに従って瓦屋根と土蔵による建築で進んで行きます。がそれもこの本郷の兼保辺りまででその先は板葺きや茅葺きの質素な町家や農家が続いていたそうです。「かねやす」までは江戸の奉行の方針がしっかり守られているがその先は江戸ではない……という意味が川柳にこめられて広まったものです。
かねやすの向かい側には「藤むら」という和菓子屋さんがあったそうですが、廃業されたようで、今はコンビニエンスストアになっています。夏目漱石の『我が輩は猫である』や森鴎外の『雁』(こちらは羊羹ではなく藤むらの田舎饅頭)にも登場する老舗。羊羹の色は藤紫色。それにちなんで店名は「藤むら」と称したそうです。
(2022年撮影)
11,12,見返り坂~棚橋書店
本郷三丁目の交差点を越してすぐ左の春日通りに少し下ると『櫻木神社』。先ほど過ぎてきた医科歯科大学の辺りの桜の馬場跡にあった神社でその名も櫻木。太田道灌が江戸を整えるときに京都から勧請されたのが始まりです。
本郷三丁目の交差点に戻って中山道に。
左側に『本郷薬師』。1670(寛文10)年の創建。当時は奇病であったマラリヤ(おこり、と言われた)が江戸に流行したのですが、「草藪を焼き払い、ドブさらいをしてきれいな水が流れるようにして、用水桶の水も取り替えて、お薬師様をお迎えしてどんどん線香を焚きなさい」との仏様のお告げがあり、そのようにしたらマラリヤが治まったとのこと。原因である藪蚊の対処をしたということですが、当時医学的にその知識があれば、幕府が動いたはずですが、蚊を駆除すれば治まる……というお告げ、お告げがほんとうにあるのかどうか科学的に分析できる今では眉ツバのような……なんとも言えませんが、案外と幕府に西洋医学を知っている人がいて本郷薬師が儲かるように裏から小判を流して……なんて賄賂案件なども今の時代の政治と合わせると出来ない想像ではありませんが、それでは仏様に失礼ですよね。お告げということで。
薬師様の奥に「真光寺」。藤堂高虎によって再建されますが、太平洋戦争でお寺は焼失し、お寺そのものは世田谷区に移転したのですが、十一面観音菩薩は罹災を免れたのでここの地に残ったと説明にあります。穏やかないつまで見ていても飽きない菩薩様です。
余談ですが本郷には文人たちが多く住んだところ。文京区の教育委員会によっていろいろな文学者に対する説明書きが多いのもこの近辺の特徴です。なぜこの近辺に文学者が多く集まり住んだのか。それは現在東大になっているところが加賀藩藩邸跡で、そこに明治政府が東京帝国大学を設置して欧米文明を取り入れて日本の近代化、新文化とりこみを急ぐ最先端の地にした、という理由があります。
知識人、文化人、出版社なども本郷に集まります。尾崎紅葉、樋口一葉、石川啄木、若山牧水、高村光太郎、二葉亭四迷などなどたくさんの作家たち。宇野千代さんはカフェの女給として働くなど、作家たちが集まった喫茶店、裏道の食べ物屋、物語にも出てくる菊富士ホテルなどなど、中山道歩きを別にして一日充分歩いてみたい地域です。
ちなみに本郷の地名は元は湯島本郷と言われていました。湯島地区の中心という意味ですが、そのうちに湯島が省かれて本郷といわれて、現在の地名となりました。また本郷を含む文京区は小石川区と本郷区が合併して誕生したのですが、合併前の双方の古い区の名称を退けて「文京」としたのも、教え学ぶ事の多いこの地区にふさわしい「文教」から来ていると区名の由来にあります。
東大の前には古い建物「棚橋書店」があります。明治後期の建物で登録有形文化財。現在も書店です。
(2015年撮影)
(2022年撮影)
右に東京大学を見て進みます。
東大は加賀藩前田家の上屋敷のあった場所。東大の赤門(御守殿門)は1827(文政10)年、11代将軍徳川家斉の娘溶姫(ヤスヒメ)が前田家に輿入れする際に建立されたもので、国の重要文化財指定。
東大のある通りは江戸時代はもっと急な坂で江戸で罪を犯した罪人が追い払われる境界でした。境界なので刑場やさらし場となることも有り、江戸払いとなる罪人は振り返りつつ北に去って行ったので『振り返り坂』・『見返り坂』の異名があります。
東大の前の『喜福寺』は江戸時代は閻魔詣で賑わった寺だそうですが、寺の隣に樋口一葉の家があり一葉は4歳から9歳までここで暮らしています。お隣の『法真寺』は太田道灌が江戸城内に創建したのが始まりです。きれいな彼岸花が咲いていました。
中山道は弥生町の先の交差点で左折します。この辺りは立場が有ったところ。
江戸時代には千手組が住んで中山道の警備にあたっています。代々森川家で継ぐことが多かったので森川宿とも言われたところです。また、将軍が日光に参拝するお成道(旧岩槻街道)の追分でもあり一里塚のあった場所でもあります。
一里塚の説明のある酒屋は『高崎屋』。1750年代の宝暦年間の創業で当時は酒屋と両替商を営んでいたとのこと。現在の建物は明治期のもの。
(2015年撮影)
(2022年撮影)
追分を過ぎて進んで行くと 「白山一丁目」の信号の右に大円寺。
大円寺を火元として1683(天和2)年12月28日正午頃に発生した江戸の大火(天和火事)。翌日未明まで燃え続け死者は3500人と推定されています。八百屋お七の火事と混同されることが多いのですが、八百屋の娘お七はこのときは被災者でどこかの寺に避難しています。その寺の小姓と恋仲になりますが、やがて八百屋は再建されて寺を出ていかなければならない時がきます。お七は恋をあきらめられず、もう一度火事になればと自宅に火を付けます。火はすぐに消し止められましたが、火付けの大罪で火あぶりの刑に処せられます。16才でした。
その後、天和火事の出火元の大円寺に八百屋お七を供養するため「ほうろく地蔵」が建立されます。火付けをしたお七の罪を救うために地蔵は頭上に自らほうろくを乗せて灼熱の苦しみを受けています。素焼きのほうろくを乗せたお地蔵様は穏やかなお顔です。
幕末の砲術家である高島秋帆の墓所もここにあります。
通りの反対には『円乗寺』。同じ円が付くので関係があるのでしょうか、大円寺は八百屋お七を供養していますが、円乗寺には八百屋お七のお墓があります。
(2015年撮影)
(2022年撮影)
白山上の信号の左奥に白山神社があります。947年の天暦年間の創建。加賀一宮白山神社を本郷一丁目に勧請。1615年元和年間に二代将軍秀忠の命で小石川植物園に移りますが、五代将軍綱吉の屋敷造営のために1655年の明暦年間に現在地に移動します。綱吉とその母桂昌院の手厚い保護を受けた、と文京区教育委員会の立て札です。紫陽花が多く咲く寺としても有名です。
中山道に戻って日本初の男女共学となった東洋大学の前を過ぎて『千石一丁目』交差点の先に巣鴨大鳥神社。創建は生類憐れみの令が綱吉によって発付された頃。住宅の間に小さな鳥居。その奥に大鳥神社。鳥居の左側の赤い旗のきらめきは子育て地蔵様です。このあたりは稲荷横町と呼ばれています。
通りに戻ると直ぐに巣鴨駅。スーパーの前の自転車がいっぱい止めてられている所に「徳川慶喜屋敷跡」の説明板。
徳川最後の15代将軍徳川慶喜が住んでいたところ。
慶喜は大政奉還で江戸城を明け渡し水戸に謹慎。その後静岡県駿府で静かに暮らしますが、その後政府より褒賞などを貰い復権します。1890(明治30)年東京に戻り、そこからここ巣鴨に4年間を暮らします。
庭の奥はふるさと水戸に因んだのか梅林となっていたので、「慶喜さんの梅林」と呼ばれて地域の人々に親しまれたそうです。しかし、豊島線鉄道(現在の山手線)が通ることになったのでその騒々しさを避けて、終焉の地、春日に移っています。1913(大正2)年11月、急性肺炎のため76歳で亡くなられています。
巣鴨駅を過ぎて左側に真性寺。江戸六地蔵があります。銅像地蔵菩薩坐像で東京都指定有形文化財です。1714(正徳4)年、江戸六地蔵として4番目に作られたお地蔵様です。
江戸六地蔵は江戸時代に旅の安全を願ったお地蔵様で東海道(品川寺)、奥州街道(東禅寺)、甲州街道(太宗寺)、水戸街道(霊厳寺)などの要所にあります。
江戸六地蔵に見送られて次は板橋宿です。
(2022年撮影)
架橋日本橋
Nihonbashi bridge
木屋での蒔絵実演
Makie craftwork at Kiya
三井タワー付近
丸石ビル(千代田区との境界)
日本橋近隣の風景
宝田恵比寿神社 べったら市
Takaradaebisujinja Bettaraichi
高島屋付近から日本橋方面へ
日本橋から三越、三井本館、コレド方面へ
撮影:2012年6月
江戸時代五街道の起点となる日本橋は、現在でも7つの一般国道[1号(大阪市 梅田新道道路元標)、4号(青森市)、6号(仙台市)、14号(千葉市)、15号(横浜市)、17号(新潟市)、20号(長野県塩尻市)]の起点として中央に「日本国道路元標」が設置されている。
一級水系荒川水系の支川日本橋川に架かる橋で、現在の橋は慶長8年(1603)に初代が架けられてから数えて19代目にあたる。 石造アーチ二連の道路橋として明治41年(1908)に架け替え工事に着手、明治44年(1911)3月28日に竣工し、4月3日に開橋した。大正12年(1923)の関東大震災では橋梁本体には大きな被害はなかったが、橋梁表面の石材や高欄が部分的に損傷したが、昭和3年(1928)に復旧された。第二次世界大戦の空襲では焼夷弾の傷跡が残る程度の損傷で済んだが、金属回収令に基づく金属供出で青銅製の装飾品が損傷した。戦後にモルタル等で応急復旧がなされたのみで、その後の経年劣化にも抜本的な修復がなされないままの状況が長く続いた。この間、高度成長期には上空に首都高速道路の高架橋が覆い被さるように設置されたため架橋当時とは景観が大きく変わっている。
重要文化財として指定するに当たり損傷した部分を平成8年(1996)から3カ年かけて旧材と同じ材質で補修され橋自体は旧態を取り戻している。
橋梁構造は日本橋川の中央に橋脚を築き、径間21m、迫り高2.8m、幅28mの石造欠円アーチ二連を架け、アーチと路面敷石の間は橋脚上部は煉瓦積み、橋台部はコンクリートを充填し、橋体として表面はすべて花崗岩を積んでいる。 装飾はすべて青銅製で中央に高さ7.5mの方錐柱上部に5つ、柱中途の左右に各1つの花形ランプを付け、柱座には麒麟が配されている。橋台の四隅には高さ5.4mの柱の上部に1つと柱中途に1つの花形ランプが付き、柱座には獅子が配置されている。また、アーチ・キーストーン上部にもランプ付きの柱を装飾している。 橋梁設計及び工事監督は東京市技師の米元晋一、装飾部については大蔵省建築部長であった妻木頼黄の考案に基づき、東京美術学校の津田信夫を主任として、柱は熊木三次郎、麒麟と獅子は渡邉長男が原型製作に当たった。 <麒麟>
麒麟は仁の心を持つ君主が生まれると姿を現す一角の霊獣であり、四方を司る四神(東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武)を従え中央に位置する五神の主でもある。
妻木頼黄は日本国の道路の中心となる日本橋の中央部に平和の象徴でもある麒麟像を配置したと言われている。 <獅子>
子は神聖な建造物を守る霊獣。玉を持つ姿が多いが、日本橋の獅子は東京市の市章を持っている。
妻木頼黄は日本国の道路の中心となる日本橋を神聖な建造物として獅子像を配置したとも言われている。 <街燈>
<東京市道路元標>
戦前の旧道路法では各市町村に1つづつ道路元標を設置し市町村の定点となっていた。東京市道路元標は日本橋を通っていた東京都電の架線柱とし利用されてきたが、廃止に伴い現在地に移築され保存されている。元の位置には現在は50センチ四方の標識が埋められている。
各市町村の元標は概ね役場に設置されていたため、現在でも慣例として道路の標識にある○○市までの距離は○○市役所までの道のりを表している。
例外として東京市は江戸時代からの起点であった日本橋に設置された。また、大阪市は梅田新道にあり、一般国道の道路標識の大阪市までの距離は大阪市役所ではなく梅田新道までを表している。
日本橋クルーズ(勝鬨橋、清洲橋コース)
Nihonbashi cruise
2011.9.14撮影 明治44(1911)年の建築
石造二連アーチ橋、高欄付(青銅製照明灯を含む)
東京都中央区日本橋一丁目・日本橋室町一丁目
撮影日: 2011年11月9日
竣工: 明治44年(1911)
構造・形式: 石造二連アーチ橋、高欄付き(青銅製照明灯を含む)
設計: 米元晋一(よねもとしんいち)、東京市の技師
装飾: 妻木頼黄(つまきよりなか)、大蔵省臨時建築部長
装飾(獅子、麒麟): 渡辺長男(わたなべおさお)
重文指定: 平成11年(1999)に国の重要文化財に指定。我が国の国道の起点。橋長49m、橋幅28m、アーチ径間21mの規模を持つ。壁石は切石積み。翼壁上に湾曲形の袖壁をめぐらす。装飾用材は全て青銅で,中央及び橋台部4隅に花形ランプ付方錘柱を建て、各柱座に蹲踞状の麒麟を配す。麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表す。ルネッサンス式橋梁本体に和漢洋折衷の装飾が調和する。技術的,意匠的に優れた明治期を代表する石造アーチ道路橋。日本橋川の上流から見た全景
中央通りを南から
現地説明板
橋の上流側
橋柱文字は、最後の将軍 徳川慶喜の揮毫
道路元標
魚河岸跡
橋の下流側
参考資料
日本橋地域のまちづくりHP
国指定文化財等データベースHP
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