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東京都世田谷区 豪徳寺

Gotokuji,Setagayaku,Tokyo

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JUne 19,2018 柚原君子

1,小田急小田原線 豪徳寺駅前

駅の改札口でさっそくに猫のお出迎えです。

豪徳寺は彦根藩主である井伊家の菩提寺です。桜田門外の変の井伊直弼のお墓があることでも有名です。その縁があって、豪徳寺の猫は彦根の「ひこにゃん」モデルとなっています。

招き猫は上げている手は右手や左手、あるいは欲張って両手と、人招きお金招きといろいろ意味があります。上げている位置も顔より上であったり、顔の横であったりします。しかし、豪徳寺の猫は右手を挙げている形のみです。

大きい物で一体2,500円〜5,000円。社務所で購入(奉納)して願い事や成就の御礼をして境内に置きます。

  

2,豪徳寺商店街

さすがに豪徳寺駅ですね。猫模様のポスターがいっぱいです。商店街の所々には路地の左右に広がる、昔ながらの市場も少しですが残っています。

        

3,豪徳寺付近の東急世田谷線を走る列車

小田急小田原線の「豪徳寺」駅のすぐ近くに東急世田谷線の「山下」駅がありますが、次の「宮下」駅方面が豪徳寺なので、小田急小田原線で来た人は豪徳寺商店街を抜けてしばらくは線路沿いを進みます。

東急世田谷線はおもしろいです。いろいろな色彩豊かな電車が走ってきます。ネコ電車!ラッキー!でした。

             

4,豪徳寺参道

勢いのある立派な松並木が山門まで続いています。参道の面している大道りは城山通り。豪徳寺も含んで一体は世田谷城のあったところです。

参道の松並木が左右の高低が若干違うので、世田谷城の土塁の跡では?と近年推測されているそうです。寺伝では500年前に世田谷城内の「弘徳院」と呼ばれていた小庵が寺の起源とありますので、きっとそうなのでしょうね。

       

5,山門

馬に乗ったままでもくぐれる高さ。その高さは大名としての格式の高さを表しているそうです。昭和初期の再建です。

               

6,仏殿

屋根に光っているのは井伊家の「井」でしょうか。家紋は井伊家の「橘」のようです。豪徳寺は世田谷城内にあった「弘徳院」を藩主井伊直孝の娘が父の法号より「豪徳寺」として菩提寺としたもの。

江戸時代に立てられたもので内部は非公開ですが、のぞき窓からは三世仏の釈迦如来様、薬師如来様、阿弥陀如来様を見ることが出来ます。

桁行5間(17.7m)、梁間6間(15.8m)、一重裳階付、入母屋造、瓦棒銅板葺。世田谷区の有形文化財です。

                 

7,三重の塔

豪徳寺の趣からはいささか浮いて見えます。2006年に建てられた塔で装飾の彫刻の中に豪徳寺らしく干支を表す中に猫がちゃっかりいます。その他の場所にも猫がいて周囲で見学の方が、あっあそこにも猫が!と全部で4箇所の猫発見を楽しまれていました。

三重の塔や五重塔はお釈迦様のお骨を拝むために建てられた仏舎利塔で、いわば大きなお墓ということでしょうか。お寺の権威などを誇るために、また遠くからでもお釈迦様を拝めるように高く高く建ててあるということです。

                  

8、えい首塚(えいくびづか)

(えい)とは埋るという意味。首を埋めた塚ということですね。特に説明板はありませんでしたが、旧幕府軍と戦い戦死した彦根藩の11名の首が葬ってあるそうです。

  

9招福観音

豪徳寺は招き猫発祥の地とも言われていて、その逸話として、世田谷城主井伊直孝が豪徳寺の前を通りかかったら猫がいて、おいでおいで、と招き入れられたそうです。お寺に入って住職とお話をしていたら、外ににわか雨(文献によっては落雷)があったそうで、それを避けるために猫が招いてくれたと、以来豪徳寺の「福を呼ぶ招き猫」は祈願や成就の御礼などで、招き猫奉納になり、現在も招福観音の脇には猫がいっぱいです。

この猫は亡き後、丁重に葬られて境内に建てられたのが招猫堂とのこと。そしてその猫の姿をかたどった右手を挙げた招き猫がつくられるようになったとのことです。首に鈴は付いていません。

招福堂にはたくさんの猫が納められていて、灯籠の中にまで可愛く座っています。社務所に行くと奉納の猫が売られています。

                                 

10,本殿

山門、仏殿と続く奥に本殿(法堂)。禅宗伽藍配置の基本通りに一直線に並んでいます。

1967(昭和42)年に鉄筋コンクリートに改築されています。山門と仏殿が古い趣なのに矢張りコンクリート造りはちょっと違和感あります。

    

11,梵鐘

1679(延宝7)年製造の梵鐘。世田谷区指定の文化財。仏殿と仏殿前の灯籠とこの梵鐘の三点が、江戸時代から現存するものです。

     

12,茶室

公開されていませんが、社務所の奥に茶室があるそうで、外に回ると塀越しに見えます。それだけでもいいかなと写真を撮っていたら、通りがかりのおじさんが、茶室に入ったことがあるよ、と写真を見せてくださいました。

  

13,井伊直弼墓所

井伊家の菩提寺ですからあって当たり前ですが、とても広大な墓地です。代々の藩主から正室、側室、藩士に至るまでたくさんの石碑がたっています。ゆっくり見る暇がありませんでしたが、正室と側室はお墓の規模に差があっておもしろいよ、と先ほど茶室の写真を見せて下さった方が教えてくださいました。……なるほど……。

       

14,境内の花

たくさんの花が咲いていました。モミジの赤とんぼもきれいでした。

                 


Mar.31,2016 松田浩志

『本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。

文明12年(1480年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。

当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じる。

寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。

本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。

文明12年(1480年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じる。

寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。』

(Wikipedia)

        

三門

            

 仏殿

                                  

本殿

                  

   

梵鐘

       

三重塔

              

     

井伊家墓所

             

                  

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