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東京都世田谷区 世田谷

Setagaya,Setagayaku,Tokyo

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世田谷区世田谷1-29-18 大場家住宅 主屋 重文 近世以前/民家 江戸後期 宝暦3(1753) 桁行17.3m、梁間11.0m、寄棟造、茅葺、北面玄関附属 19780121

世田谷区世田谷1-29-18 大場家住宅 表門 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸後期 長屋門、桁行7.0m、梁間3.7m、寄棟造、茅葺 19780121


Jan.15,2024 柚原君子

ぼろ市

                        

 


June 19,2018 柚原君子

世田谷代官屋敷(大場代官屋敷)国の重要文化財

所在地:東京都世田谷区世田谷1-29-1

1978(昭和53)年、主屋及び表門の二棟が、近世中期の代表的上層民家としての旧態を保存しているということで国の重要文化財指定を受けています。

吉良家の家臣であった初代大場越後守信久は、吉良四天王のひとりとして武名を上げていましたが、吉良家の没落を契機に、1578年ころに当時の世田谷元宿(現在の世田谷区役所の辺り)に土着、帰農します。その後、楽市が認許されたので上宿(現在の上町の地)に移って定住。

1633年(寛永10)年、井伊家が世田谷領15ヶ村を領有することとなった際に、信久の嫡孫盛長が15歳にして世田谷代官(初代)に任ぜられます。

盛長は20歳にて没してしまいますので、代官職は同族の大場市之丞の家系が継承していきます。しかし、年貢未納の罪で罰せられ、田畑・家財没収、追放等の処分を受けてしまいますので、信久の直系にあたる大場盛政が、用賀村名主飯田兵兵衛とともに代官に登用されます。以後1830年までの約90年間に渡って代官役を務めます。

代官屋敷は1737年と1751年の2度にわたり再建及び補修されていますが、盛政が代官になった際にその私邸が代官屋敷となったため、世田谷代官屋敷は公の陣屋ではありません。そのような理由から武家屋敷や代官所というイメージはあまり無く、地方の豪農の住居という雰囲気が強いそうです。竈の煙が上るような、民家と思えるような温かさがあります。

現在の主家は1967年(昭和42)年に解体復元されたものです。

主屋は寄棟造・茅葺・北面玄関)は桁行 17.33メートル(57.2尺)。梁間 11.03メートル(36.4尺)。面積 191.15平方メートル(57.84坪)

表門も代官所という格式のある長屋門ではなくて小さくて質素です。が、表門の右側に付いている小さな武者窓(屋敷を護るために外をうかがう窓)だけが、唯一、代官屋敷の表門としての格式です。

表門は寄棟造・茅葺。桁行 7.0メートル(23.1尺)。梁間 3.7メートル(12.2尺)。面積 25.9平方メートル(7.83坪)

お代官様、どうかお目こぼしを、とか桜吹雪が目に入らぬか!とか映画でおなじみの代官様のお裁き現場ですが、大場家の表門の脇に、治安維持や裁きの権限を任されていた証のお白州の場が保存されています。

東京都指定無形民俗文化財である「世田谷のボロ市」は代官屋敷前の道です。ボロ市の起源は1578年と古いもので、お正月の必需品の歳の市の色彩でしたが、次第に生活や農業に欠かせないわら草履の修理や農業時に着る衣類などを売る市となりますが、戦後の急速な都市化で農村で必要なものを扱う市からは大きく変化している現在のボロ市です。

(参考資料:ウィキペディア及び世田谷区HP他)

                                      


Feb.2011 瀧山幸伸 source movie

世田谷城跡

Seatagaya castle

               

大場家(代官屋敷)

Oobake,(Daikanyashiki)

                                                      


Dec.2007 瀧山幸伸

ぼろ市

Boroichi

代官屋敷(大場家)

Daikanyashiki(Oobake)

           

                              

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