東京都新宿区 内藤新宿
Naito Shinjuku,Shinjukuku,Tokyo
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Jan.2014 柚原君子
内藤新宿(新宿二丁目交差点界隈) 以前住んでいた江東区は、江戸時代までは東京湾に注ぐ河川のデルタ地帯の一部で、海面と散在する小島があるだけだったそうです。その後埋め立てが続き1650年代頃に深川村ができたのでわずか360年の歴史です。それはそれで趣がありますが、板橋区に引っ越してからは江戸時代以前の歴史あるものが多く、目を奪われています。板橋宿としての名残りを区内に見る機会が増えたこともあって、細切れでいいから少しずつ訪れながらいつか五街道を網羅してみたい夢が生まれました。
東京には江戸4宿があります。江戸・日本橋に最も近い宿場のことで、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、奥州街道・日光道中の千住宿、甲州街道の内藤新宿です。
今回は内藤新宿に行ってきました。いまはほんの少ししか面影がありませんが、新宿三丁目の伊勢丹デパートのある交差点から新宿御苑駅の辺りが内藤新宿でした。1590年、徳川家康が江戸に入り内藤清成に甲州街道沿いの21万坪(のちの新宿御苑)を与えました。内藤家の屋敷の一部を宿場町として造成したので内藤新宿という名前が付けられたそうです。
新宿三丁目の交差点は甲州街道と青梅街道の分岐点ともなるので、新宿追分と言います。
交差点の角にある交番は「追分交番」。斜め向かいには「追分団子」があり宿の風情を残しているでしょうか。甲州街道と道を分ける青梅街道は、青梅方面より江戸市街の建築用木材を運ぶことを目的につくられたもので、もとは成木街道と呼んだそうですね。「追分」、日本語の良い響きですね。
太宗寺(新宿区新宿2-9-2)
新宿駅東口から10分ほどですが静かな境内です。1596年、僧太宗が開いた草庵ですが内藤家がここで葬儀を執り行ったのを縁に、5代目内藤重頼が境内地として7396坪を寄進し、太宗を開山として太宗寺を創建しました。内藤家の菩提寺となってます。昭和20年5月の空襲で被害を受けて消失したものが多く、現在では本堂・不動堂・閻魔堂が残っています。本堂の横には願掛けの返礼にお塩をかけるというめずらしいお地蔵様もあります。どこからともなく猫たちがやってきて散策をする姿もみられます。
新宿区指定有形民俗文化財の閻魔像、奪衣婆像、江戸時代のものとされる観無量寿経曼荼羅の絵を所有。奪衣婆像は閻魔どうの中にありますが良く見えません。太宗寺より10分ほど歩くと正受院がありますが、そちらの堂内ではありますがはっきりと撮影できます。江戸六地蔵も境内に鎮座されています。
江戸六地蔵(新宿区新宿2-9-2 太宗寺境内)
江戸六地蔵は江戸に出入りできる街道に置かれ、1、品川寺(旧東海道:品川区南品川)。2、大宗寺(甲州街道:新宿区新宿)。3、真性寺(中山道:豊島区巣鴨)。4、東禅寺(奥州街道;台東区東浅草)。5、霊巌寺(水戸街道:江東区白河)6、永代寺(千葉街道:現存せず)となります。いづれも東京都指定有形文化財になっています。
wikipedeaには「江戸深川深の地蔵坊正元が、1706年(宝永3年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀により、像高はいずれも270cm前後で、それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められていた。また、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると72000名を越える」、と書かれています。江東区霊巌寺のお地蔵さんに比べると、こちらのお地蔵さんは結んだ唇も大きく、なんとなく若いお姿のような気がします。
成覚寺(新宿二丁目)
1594年に創建されたお寺。正受院のすぐ横にあります。内藤新宿で遊女の仕事をしていた女たちや、遊女と心中した客など、また玉川上水に身を投げた男女も埋葬されるお寺です。玉川上水は、甲州街道と並行して走る水路ですが、新宿までは地下ではなかったので身投げも多かったそうです。恋川春町の墓もあります。駿河国小島藩重臣だった倉橋格(恋川春町)は作家活動を展開しましたが、松平定信(寛政改革の立役者)の政治を批判しているとして咎められ春町は自害します。遊女に限らず、悲しく亡くなった人々を埋葬することでも知られたお寺だったようです。
狭い境内でしたが春川恋町の墓碑の近くには椿が、また遊女の供養塔には白梅のつぼみが。そして一月の寒さの中でしたが、見上げるような高木に可愛らしい紅の花が青い空に散る様に咲いていました。
正受院(しょうじゅいん)(東京都新宿二丁目)
奪衣婆(だつえば)像(新宿区指定有形民俗文化財)があります。咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があって、像に綿がたくさんかけられたので「綿のおばば」と呼ばれていたそうです。奪衣婆はもともと三途の川を渡るときに六文銭を持たずにやってきた死者の衣服を剥ぎ取る鬼ばばのことですが、民間信仰の対象では咳止めの霊感あらたかなおばあさんになっています。
正受院の奪衣婆像に関しては「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、江戸の庶民が多数訪れる騒ぎとなったので、寺社奉行のお達しによりお正月と7月16日以外のお参りが禁止となった経緯を持っています。
それにしてもどうして三途の川で衣類を剥ぎ取るおばあさんが咳を沈める神様になるのか疑問に思い、いろいろ探ってみました。民間信仰ですから何十年もの間にはいろいろなものが付随してくるそうですが、「奪衣婆を、この世とあの世の関の番人と考えると」とか、「子守をしていた子供が目を離した隙に、咳をした拍子に池に落ちて死んでしまい、子守役の婆が後追い自殺をして、その事件が起こった池がそれ以降は”姥が池(或いは、姥が井)”と呼ばれるようになり、その婆を哀れに思って塚を立てたりして供養すると、咳止めの霊験があらたかだったことから神として祀られるようになっていった」、などの件が柳田國男の民俗学の中にあるのだそうです。
奪衣婆は閻魔大王の奥さん(または愛人)説もあるそうで、いやはや愛人にして色気が抜けて怖いばかり出し……さすがの閻魔大王もお尻に敷かれているのでは(笑)と思いながら、奪衣婆と対面してきました。
天龍寺
徳川家康の側室の西郷局の父の菩提寺ですが、西郷局が後の二代将軍となる家忠を産んだことで、家康の江戸入府に際して遠江国(現在の浜名湖のあたり)から新宿区牛込に移されて江戸城の裏鬼門鎮護を担ったそうです。1683年の天和の大火(八百屋お七の火事)で消失し、現在の新宿4丁目に移転されました。江戸三名鐘の一つ(あとの二つは上野寛永寺と牛込八幡)とされる梵鐘「時の鐘」(新宿区指定有形文化財)が現存しています。門は現在使われていないようですが立派な葵の紋が入っています。時の鐘は門を入って曲がったところにあり、表通りからは見えませんし、案内板もありません。
東京近郊名所図会には
「時の鐘、天龍寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報せり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天龍寺の六つで出るとか、市谷の六つで出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして袂を分かたざるを得ず、因って俗に之を追出し鐘と呼べり」との記述があるそうで、江戸城に急ぐお侍の後姿を想像しました。
徳川家の墓の前に咲いている南天の赤い実は綺麗でしたが、他に花もあまり無く都会のビルに囲まれたお寺です。
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