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東京都台東区 寛永寺 厳有院霊廟 (徳川家綱霊廟)
Kaneiji Genyuuin reibyo,Taitoku,Tokyo

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台東区上野桜木1-15 厳有院霊廟奥院 宝塔 重文 近世以前/その他 江戸中期 貞享2(1685) 銅宝塔、石柵付 浚明院宝塔1基、文恭院宝塔1基 19300523
台東区上野桜木1-15 厳有院霊廟奥院 唐門 重文 近世以前/その他 江戸中期 貞享2(1685) 銅製一戸平唐門 19300523
台東区上野桜木1-15 厳有院霊廟勅額門及び水盤舎 勅額門 重文 近世以前/神社 江戸中期 延宝9(1681) 四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺 19300523
台東区上野桜木1-15 厳有院霊廟勅額門及び水盤舎 水盤舎 重文 近世以前/神社 江戸中期 元禄12(1699) 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、銅瓦葺 19300523

Mar.19,2017 瀧山幸伸 source movie

           

                      

                         



Feb.2,2016 柚原君子

徳川家綱霊廟勅額門
所在地:東京都台東区上野桜木1-16

徳川家の廟所である上野の寛永寺は天台宗関東総本山の寺院で正式名称を東叡山寛永寺円頓院といいます。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来です。徳川家の菩提寺は芝の増上寺ですので、上野の寛永寺は創建当初は徳川家の祈祷所にすぎませんでした。しかし三代将軍家光は天海に帰依していたので葬儀は寛永寺で執り行うこととし、遺骸は家康の廟がある日光東照宮へと、遺言します。その後四代将軍家綱、五代将軍綱吉も寛永寺で葬儀が行われ、寛永寺は菩提寺となります。

元々の菩提寺である増上寺から苦言が呈されて6代将軍家宣の廟は増上寺となり、以後は寛永寺と増上寺が交代で菩提寺となります。徳川歴代将軍15人のうち6人、4代・家綱、5代・綱吉、8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定が寛永寺に眠っています。

五代将軍家綱の霊廟勅額門の前にある説明板をそのまま記します。

『四代将軍家綱は、慶安四年(1651)四月父・家光の死に伴って、わずか十歳で将軍の座につき、延宝八年(1680)五月八日に三十九歳で没した。法名を厳有院という。病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由井正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎は、その霊所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である。 勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和三十二年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。』
格式のある朱色の徳川家綱霊廟勅額門の裏側がみたいと墓地の中に入りました。右側にはスカイツリーが見えていて、江戸時代よりはるかな時の移りを感じることができます。後方には石垣に守られた森があります。普通の人は入ることができない徳川家の墓所かもしれません。

                             





Oct.2012 大野木康夫

2011.9.14撮影 


勅額門(重要文化財)

延宝9(1681)年の建築
四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺

            





Jan.2012 川村由幸

              





Mar.2011 瀧山幸伸 source movie


                                          




Mar. 2006 瀧山幸伸  source movie



  

                    

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