東京都千代田区/中央区 東京駅

Tokyo station,Chiyodaku/Chuoku,Tokyo

 
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千代田区丸の内1-1-3 東京駅丸の内本屋 重文 近代/産業・交通・土木 大正 大正3(1914) 鉄骨煉瓦造、建築面積7,821.39㎡、二階建、一部三階建、スレート葺 20030530


Dec.13,2022 柚原君子
          


Nov.26,2019 柚原君子

             


Feb.12,2019 柚原君子

                           

 


February 19,2017 大野木康夫 source movie

東京駅丸ノ内本屋

所在地 東京都千代田区丸の内1-1-3

大正3(1914)年の建築

鉄骨煉瓦造、建築面積7,821.39㎡、二階建、一部三階建、スレート葺

東京駅丸ノ内本屋は,皇居から東へ一直線に延びる通称行幸通りの正面に位置している。

明治41年3月25日着工,大正3年12月14日に竣工した。

設計は辰野金吾で,辰野葛西事務所によって実施案がまとめられた。

南北折曲り延長約335mに及ぶ長大な建築で,中央棟の南北に両翼を長く延ばし,建設当初は,地上3階建であった。

建築様式は,いわゆる辰野式フリー・クラシックの様式になる。

東京駅丸ノ内本屋は,わが国鉄道網の起点となる停車場の中心施設であるとともに,明治の市区改正計画に基づき建設された首都東京を象徴する貴重な建築である。

煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築で,当時,日本建築界を主導した辰野金吾の集大成となる作品として,価値が高い。

(国指定文化財等データベースより)

新丸ビル7階テラスから

                  

丸ビル5階テラスから

                          


Nov.12-15.2014 中山辰夫 東京都千代田区丸の内1−1−3

東京駅赤レンガ駅舎は国重要文化財の指定を受けている。(平成15年4月)

竣工:1914(大正3)年 設計:辰野金吾 施行:大林組 構造:鉄骨レンガ造、2階建、一部3階、地下1階、スレート葺

首都東京の中心に位置し,「赤レンガの駅舎」として国民に広く親しまれてきた歴史的建造物である。煉瓦造による建築としては最大級の規模を有し,わが国の明治・大正期を代表する建造物のひとつである。

都市再生が進みつつある中心市街地における歴史的建造物の保存活用のあり方に,新たな方向を示す画期となるものといえる。(文化庁) 建物の老朽化や耐震改修工事の必要もあって、2007(平成19)年から5年をかけて、保存・復原工事が行われ、本年10月に工事が完了した。

この工事では、関東大震災や空襲で一部損傷した部分の復原も行われ、2階建ての駅舎を元の3階建てに戻し、駅舎のシンボルである南北ドームの屋根も元の形に復元された。復元に当たっては古写真からも多くの情報が得られた。建物全体の意匠性や機能を損傷することなく、耐震機能も付加された。

   

全長の長さが約335m、東京タワーの高さは333mである。正に首都東京の“顔”である。 2014(平成24)年12月20日の東京駅100周年に向けて、あらたな駅舎のリニューアルオープン記念事業が各種行われ話題を提供している。

        

赤レンガ駅舎をデザインした記念スイカが12月20日、限定枚数で発売されたが、購入希望者が殺到し、その対応にトラブル発生といったおまけまで起こる人気である。

  時間に応じて変化すル外観を暇に任せて追っかけた。 東京駅丸の内赤レンガ駅舎とその付近

Am6:00 前後の駅舎

                 

Am6:30前後の駅舎

                   

Am8:30前後の駅舎

          

昼間の駅舎

           

夕暮れの駅舎

 

                    パーツ詳細

●ドーム

天然スレート、銅板で創建当時の姿に復元された。銅版まわりの曲線部は最難関であった。

    

天然スレートは一文字葺で敷かれていたことからその通りに復元された。天然スレートは加工が容易で強度もある粘板岩を薄い板状にした建設資材で、国内では宮城県石巻市雄勝町が代表的な産地。日本では大正期から昭和初期の洋風建物の屋根瓦に多く使われ、東京駅では約43万枚使われていた。    

復元工事では屋根から約13万5千枚のスレートが1枚ずつ丁寧にはがされ、破損分を除き再加工して使われた。再生処理を行った約7万1千枚を東京駅に送り返した後、出荷待ちの最中に東日本大地震が起こり、約6万枚のスレートが波に飲み込まれた。が、埋没し残っているのが見出され、被害地に残っていた3本の

井戸の水で洗い・検査されて約4万枚が復原に用いられた。多くのボランテイアの協力を得て再生されたスレートは皇室専用出入口の中央部屋根に使われた。

●銅板葺

   

ドーム屋根の頂上、窓廻り、壁面などには、銅板で造られた装飾が多くある。これらは火あぶり叩いて造る「叩きだし」や折り曲げた板を組み合せる「はぜ掛け」、へらを使って変形させる「へら絞り」などの伝統技法で復原されている。基本的には木下地に0.4mm厚の銅板が葺かれた。緑青塗装などの処理はせず、銅板木地の仕上げ。経年の変化を見る。

●花崗岩・擬石

  

外壁部の柱形、窓枠廻り等の装飾に使われている。花崗岩表面は「小叩き」という工具で叩き仕上げし、擬石は花崗岩に見せかけた人造石である。

窓飾り、柱頭飾り、などには稲田(茨城県)産、腰壁・玄関廻り等には北木島(岡山)産が使用されている。

●外壁化粧レンガ

    

駅舎の象徴の赤レンガは一枚一枚色が違う。現存部分と風合いを合わせるために3色のレンガが使われた。渥美は15mmで統一され、一段毎に交互に積まれ,剥離防止を図っている。

目地の中央部がカマボコの様に盛り上がっている「覆輪目地 ふくりん」の技法で、「鏝 こて」の製作から技能習得までを現場でされた。手の込んだ作業である。

  

創建時の赤レンガは、レンガの街・深谷市にあった「日本レンガ製造」で、プレス成型により製造されたもので、極めて平滑・緻密・角が鋭利なものであった。

同工場関連施設は国重要文化財に指定されている。使われたホフマン6号輪釜も現存している。

東京駅のレンガに因なみ、模して建造されたJR深谷駅のレンガ駅舎はコンクリート壁面にレンガのタイルを張ったものである。

●建具 アルミサッシ

  

創建時の外部建具は木製であったが、戦災で焼失した。その後は鋼製であった。今回工事では割付等の意匠は創建時に合せ水密・機密等の機能面からアルミ製に復原下。ガラスも創建時と同じ3mm厚、ホテルは二重サッシとなっている。

●南ドーム

    

復元前の時計の文字盤はアラビア数字。復元後は企業当時のローマー数字 ヴォールト屋根といわれるカーブした部分は銅板を使用。

●柱頭

 

1945(昭和20)年の震災復興工事の際に3階から2階に移設された。今回の工事で3階戻された。

●パラペットの徳利

    

へら絞りの技術。 南北ドーム

創建時に復原された。丸の内北口と南口の高和28mのドーム天井は見頃満載である。

和洋折衷のデザインと細工による美しい装飾に目を奪われる。3~4階には東京ステーションオテルの各室が並ぶ。

                    

見上げ装飾

南北ドームの内部は、戦災で大半が焼失したため、過去の文献や写真を基礎資料に検討されてデザインが決められた。

実際の施工では、石膏で製作したレリーフを壁面に取り付け、その周りに漆喰塗を施した。ドームには、いくつもの装飾が取り付けられている

●真上の飾り

   

車輪を形どったとされる クレマチスレリーフ(花飾り)

●鷲レリーフ

    

天井の8カ所に大きな翼を広げた鷹のレリーフが鎮座する。下から見ると小さく見えるが2m近くある。 稲穂をつかんでいる。

●キーストーン

   

秀吉の兜をモチーフにした要石

●干支のレリーフ

    

子・卯・牛・酉を除く8つの干支のレリーフ。それぞれが対応する方位に飾られている。緑の丸の中にいる。

●剣と鏡のレリーフ

  

武具のモチーフは明治・大正期の西洋建築では一般的であった。

●鳳凰、動輪と矢束のレリーフ

   

四雲の一つとして平安をもたらすという鳳凰。羽を広げた雄々しい姿で正面を見据える。 各々設置されたレリーフについては記録が残っていないため、意図については推定の域を出ない。参考資料≪JR東日本HP,鹿島建設HP,ほか≫


Apr.4,2014 瀧山幸伸

        


Mar.24 2013 瀧山幸伸 source movie

A camera

                        

            

B camera

                                        


Feb.2013 川村由幸

東京都千代田区丸の内

訪問日:Feb.09,2013 東京駅が創建当初の姿に復元されて開業したのが昨年の10月、一度撮影にと考えていました。

三角屋根がドーム状に復元された東京駅は今でもカメラを構える人で一杯でした。

創建当時の1914年と違うのは背後にそびえる高層ビルだけでしょうか。

                                                                 


Oct.2012 瀧山幸伸 source movie

                                                         

北口

                                        

中央口

        

南口

                          

                   

           


Oct.2012 田中康平

東京駅丸の内駅舎

Tokyo station marunouchi ekisya, Tokyo

2012.10.08 撮影 国指定重要文化財 保存復原後の東京駅丸の内駅舎です。

南口から北口/ステーションギャラリーへの順に示しています。復原前はどうなっていたのか比較図を見なければなかなか思い出しません。駅舎を囲む丸の内の新ビル群とのコントラストが美しく感じます。

                                                                                        


May 2012 川村由幸

訪問日:2012.04.25 東京駅丸の内駅舎は2007年4月から保存・復原工事を実施中で

2012年10月の完成をめざして進められています。

復原されたドームが姿をみせたので、工事中ですが取材しました。

                              


Nov.2009 撮影:中山辰夫

東京都丸の内一丁目

国重要文化財 :丸の内本屋:指定2003年4月18日

【指定内容】

東京駅丸ノ内本屋 一棟

東京都千代田区 東日本旅客鉄道株式会社

○指定基準

「意匠的に優秀なもの、歴史的価値の高いもの」

○説明

東京駅丸ノ内本屋は、皇居から東へ一直線に延びる通称行幸通りの正面に位置している。

明治41年3月25日着工、大正3年12月14日に竣工した。設計は辰野金吾で、辰野葛西事務所によって実施案がまとめられた。

南北折曲り延長約335mに及ぶ長大な建築で、中央棟の南北に両翼を長く延ばし、建設当初は地上3階建であった。

建築様式は、いわゆる辰野式フリー・クラシックの様式になる。

東京駅丸ノ内本屋は、わが国鉄道網の起点となる停車場の中心施設であるとともに、明治の市区改正計画に基づき建設された首都東京を象徴する貴重な建築である。

煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築で、当時、日本建築界を主導した辰野金吾の集大成となる作品として、価値が高いといえる。

東京駅の歴史・・・・東京駅復原工事現場防護塀に添付の資料による

歴 史

(1)駅の建設予定地:1590〜 徳川家康の江戸入場

東京駅の建つ丸の内は、江戸城の城郭の内部を表す言葉である。

徳川家康の江戸入場当時は、湿原や入り江であった。この一帯は次々と埋め立てられ、幕末まで諸大名の屋敷や町を形成していたが、明治維新によって次々と取り壊されていった。

1897年(明治10)以降、陸軍の兵営や練兵場で占められ、明治中期には、後の東京駅の位置に警視庁、大審院、裁判所、監獄本部などが建ち並んだ。

1896年(明治29)、帝国議会で中央停車場の建設が決定し、1907年(明治40)にはすべての建物が一掃されることとなった。

 

(2)帝都の玄関を:1884〜 東京知事、芳川顕正におよる「市区意見書」(最初の都市計画書案)の作成

江戸から引き継いだ都市インフラが限界に達した明治10年代、近代国家の首都にふさわしい都市へと東京を改造する機運が高まり始めた。

鉄道計画はそのメインテーマと位置付けられ、既にと今日のターミナルとして開業していた新橋駅と上野駅とを結ぶ市街線の建設、及び、その両駅に代わる中央停車場の設置が計画された。

その目的は、それまで各方面ごとに独自に敷設されていた官設鉄道と私鉄鉄道を結んでネットワークを形作ることによって都市内交通を活性化し、同時に日本列島を縦断する国土交通の大動脈を創出することにあった。

とりわけ、その中核に位置する中央停車場には、全国に広がる鉄道網の収束点としての役割が期待され、1890年(明治23)には内務大臣より建設の訓令が発せられ、1900年(明治33)から市街高架線の建設工事に着手されたものの日露戦争勃発により、工事は中断、1906年

(明治39)ようやく再開され、1910年(明治43)に高架線は完成した。

又、中央停車場の建設工事は6年半の歳月を経て、1914年(大正3年)、東京駅として開業した。

「市区改正委員会」による最初の建設計画が発表されてから実に30年後のことである。

 

( 3 )市街高架線の建設:1890〜 新橋上野間の高架線工事について:中央停車場以南を官鉄、以北を日本鉄道が建設することが決定都市中心部の市街地に阻まれ、日本列島を貫通する鉄道ネットワークが分断され、しかも中枢が欠けている状態を解消するため、東海道

本線の起点である新橋駅と東北本線の起点である上野駅とを市街高架網で連結し、近代都市東京にふさわしい交通網の起点を整備するという都市計画案が浮上したのは、1884年(明治17)のことである。紆余曲折を経て、1904年(明治33)工事がスタートしたのは日露

戦争の勃発などにより工事は進まず、その後、1916年(明治39)に鉄道国有法が公布され建設は一挙に加速することとなった。

 

 (4)合理的な選択、通過識の駅建設:1895〜 新橋〜中央停車場間の市街高架線の建設と中央停車場の建設決定

東京駅は、ヨーロッパの大都市の中央駅や新橋、上野などのそれまでの日本の主要駅に見られる頭端式(行き止まり式)ではなく、通過式の構造を採用しているのが特徴的である。

市街地に正対して駅舎が配置されると頭端式は都市の顔として存在を高めることが出来る反面、旅客・貨物を問わず、機関車による牽引が一般的であった当時、その付け替えに長い構内と多大な時間を必要とした。

新橋上野間を結ぶ市街高架線としてスムーズな列車を最重要視した当時の鉄道官僚たちの合理的見識の成果といえようか。

 

 ( 5 )バルツアーが描いた基本プラン:1898〜 政府の招聘で來日、逓信省技術顧問に就任

中央停車場を通過式にすることにもともと大きな影響を及ぼしたのが、ドイツ人技師ルムシュテルとバルツアーである。とくに逓信省顧問であったバルツアーは、ルムシュッテルの設計安を参考に、レンガ造りの市街高架線の設計・施工を提案、さらに中央停車場の構内配置と

駅舎のプランニングも提案した。

和洋折衷の駅舎の提案は採用されなかったものの、駅舎の主要設備のレイアウト、構内のプラットフオームの配置など、基本的な骨格はバルツアーによって確立され、その後駅舎の設計に当たった辰野金吾に引き継がれることとなった。

 

( 6 )辰野金吾の設計プラン:1903〜 辰野金吾への駅舎設計依頼

辰野金吾の設計の特徴は、バルツアーが和洋折衷を提案したのに対し、あくまでも西洋式で表現をまとめた点と、バルツアーの提案した分棟式配置を引き継いだ上で一体化し全体を一つの建物として計画した点にある。

建築様式も「辰野ルネッサンス」と呼ばれる独自のデザインが随所に盛り込まれていて、第一案で既に両端のドームが描かれている。

設計途中に日露戦争が日本の勝利の形で終結したことも手伝い、建設予算も大幅に増額され、アジアの新興国家にふさわしい、買ってない巨大な建設駅舎となった。

 

( 7 )中央停車場(東京駅)の建設:1908(明治41)〜 中央停車場建設工事着工

1903年(明治36)、前東京帝国大学工科大学「現在の東京大学工学部」学長で、当時の日本建築界の第一人者、辰野金吾に設計を依頼。

当初は小規模な計画だったものの、初代鉄院総裁後藤新平の意向で設計変更を重ね、予算も当初の7倍にも膨れ上がった。

1908年(明治41)駅舎基礎工事がスタート。6年半後の1914年(大正3)12月14日、総坪数3,184坪(内駅舎2,341坪)、 正面長334.5m、左右に巨大な2つのドームをもつ荘重な駅舎が完成した。

 

( 8 )東京駅舎の原型、万世橋駅:1912(明治45)万世橋駅の開業

まもなく85年の歴史に幕を降ろす交通博物館が建つ神田須田町、そこはかって東京駅が出来るまで中央本線のターミナル万世橋駅が置かれていた交通の要衝として、東京でも有数の繁華街であった。この地に建設された駅舎は、ルネッサンス式とも辰野式ともいわれる棟瓦・

石積(一部鉄骨造)の二階建てで、関東大震災による火災で焼失するまで、芥川龍之介や菊池寛ら文士の集まるサロンにもなっていた。

東京駅と共通性を持つライアウトの華麗な駅舎を設計したのは、辰野金吾と葛西万司。既に東京駅の設計を委嘱されていた辰野のとって東京駅の習作としての意味合いもあったと考えられる。

 

( 9 )東京駅の名称:1914(大正3)鉄道院告示による東京駅名称決定

建設工事の段階では中央停車場と呼ばれていた東京駅。その改称にあたっては、日本の中心東京に完成したことをもって東京駅と命名し、地方の人にもわかりやすくすべきと考える側と、東京には上野、新宿をはじめたくさんの東京の駅があり、中央停車場だけに東京駅の

名称を冠するのはおかしい、外国の例にならい首都を代表する駅には中央駅の名を冠する側とに分かれ、議論が紛糾。開業2週間前の1914年(大正3)12月5日、鉄道院告示によってやっと東京駅の名称が決まった。

 

(10)東京駅の内部:1914年(大正3)東京駅竣工

煉瓦積鉄骨造の三階建て、さらに左右に八角形の広間を配し、銅板葺きの巨大なドームを備える壮麗なルネッサンス様式の東京駅駅舎。

大国ロシアに勝った日本の首都の中央停車場としての機能性と外観を備えているばかりでなく、吹き抜けとなったドームの窓から差し込む柔らかな光に映える支柱の装飾、ずらりと並んだ出札窓口には御影石と高級木材がふんだんに使用されるなど、その内部も帝都の

玄関にふさわしい荘重さと重厚さにあふれ、まさに日本を代表する建築物としての威容を備えるものであった。

 

(11)東京駅の貴賓室:1914(大正3)東京駅竣工

帝都の中央停車場としての東京駅を象徴するのは帝室(皇室)専用施設である。

1945年(昭和20)5月の戦災で焼失する以前の東京駅に設置された宮殿のような貴賓室は駅舎中央に設置され、休憩室や広室、廊下や階段を含めると275坪の広さを占めていた。

大理石を敷き詰めた中央奥廊下突き当たりの松の間が、玉座に当てられ、八角形の広間になった玄関には黒田清輝が図案を制作し、和田美作が描いた大作「海陸・殖産・興業」の壁画やステンドグラスが装飾されるなど、その意匠と調度には贅を凝らしたものであった。

 

(12)プラットホームの完成:1914(大正3)東京駅竣工

駅本屋に続いて完成したプラットホームは4面で8本の着発線を設置し、2面ずつ貴社乗降場と電車乗降場に区分されていた。

駅舎正面には3つの出入口があり、中央の帝室用をはさんで南側が乗車客用、北側が降車客用とされ、電車専用出口も設けられていた。

また、東京駅完成時には開業していなかったが、東京中央郵便局の庁舎とホームを結んで地下に軽便用線路が敷設され、直接郵便車に郵便物を積み込みが出来るように設計されていた。

なお、八重洲側には乗車口はなく機関庫や客車留置場などが設置された。

 

(13)東京駅開業:1914年(大3)東京駅開業

1914年(大正3)12月18日、東京駅開業式は第一次大戦に出征した軍司令官神尾中将の凱旋式に合わせ、鉄道建設推進の最大の功労者のひとり、大隈首相を筆頭とする来賓の列席の下に挙行された。

駅前には巨大なアーチも設置され、祝賀ムード色に染まったものの、議員を乗せた出迎え電車が途中、運転不能に陥るなどトラブルに見舞われた。

東京駅の開業によって、これまで長年、本線の起点であった新橋駅は貨物駅化されて汐留と名を改め、旧島森駅を「新橋駅」と改称した。

 

(14東京ステーションホテル開業:1915年(大正4)東京ステーションホテル開業

東京駅開業に遅れること1年、鉄道駅併設ホテル第一号としてオープンした東京ステーションホテル。

客室72室、宴会広場を備えたヨーロッパスタイルのホテルは開業当初から満室続きという盛況であった。

オープン当初はレストラン経営で実績のある精養軒に委託され、その後、鉄道省直営から戦中戦後の混乱期を経て、1951年(昭和26)に復活。

東京駅併設という地の利から文人に愛され、しばしば作中に取り上げられた。

巨大ホテルの建設ブームの中で、赤煉瓦のクラッシックホテルとして今、再び注目を浴びている。

 

(15)戦時下の東京駅:1943年(昭和18)国家総動員法の施行

1943年(昭和18)戦局の悪化に伴う国家総動員法の施行によって軍隊や軍需工場に採用される男子職員にかわり、若い女子職員の採用が急増。

戦争末期には東京駅でも200人を超す女子職員が、出札や改札をはじめ保線工事など力仕事まで担うこととなった。

彼女たちに上級教育を施すことを目的に、東京駅では1945年(昭和20)5月に「東京駅女子高等学校」を開設した。

しかし、せっかくのこの試みも、開設からわずか3ケ月後の終戦に閉校のやむなきに至った。

 

(16)東京駅復興:1945(昭和20)丸の内本屋、焼夷弾攻撃によりほぼ全滅

1945年(昭和20)5月25日、米軍のB29による焼夷弾の直撃を受け、開業以来30年、帝都の玄関として親しまれてきた壮麗な丸の内

駅舎のドームと3階部分が焼失した。25日の深夜、現在の丸の内北口の屋根裏から燃え上がった火はたちまた中央口から南口へと拡大。

東京駅のシンボルであったドームの屋根が焼け落ちた。しかし翌日には早くも復旧活動が始動し、二日後の27日には列車5本の運転が再開された。

1947年(昭和22)、当時の天野東京駅長が従来と同じ駅舎の再建を強く主張したが、厳しい財政事情がそれを許さなかった。

 

現況・・・鹿島建設の手で工事中です。

2011年度末完工を目標に、鹿島建設が復原工事を担当しております。

現在の丸の内の本屋はテントが張られ、全貌を見ることは出来ません。

見えている範囲を写しました。

              

復原工事

1.復原工事

(復原の概要)

○ 現存する駅舎を解体して建て直すのではなく、現存している駅舎の外壁など主要部分を可能な限り保存・活用し、創建時の姿に復原します。

○ 戦災時に焼失した屋根と、3 階の外壁を新たに復原します。また、駐車場、機械室などを設けるため、地下1、2 階を新設します。

○ 南北ドーム内部の見上げ部分を、古写真や文献資料などをもとに復原します。コンコース部分は現代の機能にあわせたデザインとします。

○ 駅舎の耐震性能を向上させるために、現存する駅舎の構造体への加工を極力少なくする工法として免震構造を採用します。

○ 総事業費は概ね500億円を見込んでいます(支障移転工事等を含む)。 (施設の概要)

○ 復原後の駅舎は、既存の駅舎同様に駅施設、ホテル、ステーションギャラリーとして使用します。

○ ホテルについては、日本の表玄関という立地や重要文化財の中に存する強みを活かしたホテルとします。

また、日本を代表するセントラルステーションに相応しい客室(約150 室)、レストラン、宴会場を検討しています。

○ ステーションギャラリーについては、展示空間と合わせ設備面の整備を行い、これまで以上に重要文化財である丸の内駅舎を身近に触れながら見学できる快適な展示施設とします。

○ 工事中も現在の丸の内北口、丸の内南口、丸の内中央口は引き続き御利用いただけます。

JR東日本は、国の重要文化財である東京駅丸の内駅舎保存・復原(※)工事の起工式を5 月30 日に行い工事に着手いたします。

今回の保存・復原工事を通じて、駅舎の安全性と利便性の向上を図りながら、駅舎の恒久的な活用を実現するとともに、文化的遺産である歴史的建造物を未来に継承し、首都東京の風格ある都市空間の形成に貢献してまいります。

※「現存する建造物について、後世の修理で改造された部分を原型に戻す」の意で当社は「復原」を用いております。

  


Sep.2004 酒井英樹

東京駅丸の内本屋[平成修理復原前]
        東京都千代田区

撮影:2004年9月


<中央棟>
                          


 <北八角広室>
   

 <南八角広室>
    


 八角広室ドーム内部
       

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