JAPAN GEOGRAPHIC
東京都 台東区/北区/荒川区 谷中七福神
Yanaka 7 Fukujins,Taitoku/Kitaku/Arakawaku,Tokyo
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Jan.2021 柚原君子
谷中七福神めぐり(田端→日暮里→上野)
概要:
今から250年前。上野の山に寛永寺が創建されたころに始まったとされる『谷中七福神めぐり』は東京で最も古い歴史のある七福神様たちと言われています。
お正月ご開帳もあるとのことで、コロナ禍ではありましたが,三が日の混雑を外して、消毒噴霧器とマスク着用、手洗いを至るところでする用心をして、静かに巡りました。
1582年、本能寺の変があり世は織田信長から豊臣秀吉の世に。それから21年後には徳川の時代になり関東の地、江戸に幕府が開かれます。徳川三代将軍家光の代に、脇で補佐する重鎮であった天海大僧正は江戸城の北東の鬼門にあたる忍岡に寛永寺を創建して自らが住職となり,江戸を守るために陰陽道に基づいた江戸の町造りを進めていきます(年表によりますと,このとき天海大僧正は90歳。強い意志のすごさに驚きます)。
平安京の鬼門を守った比叡山延暦寺に倣い、琵琶湖を思わせる不忍池を造り琵琶湖にある竹生島を模して竹生島にある弁才天信仰の聖地、宝厳寺のように弁天様を祀り、寛永寺が比叡山と同じ役割を持てるようにします(ちなみに寛永寺の寺号は東叡山)。
さらに寛永寺の塔頭(子院)である護国院に、鎌倉時代の絵師・藤原信実筆と伝えられる大黒天の画像を徳川家光が奉納し、多くの参詣者が集まります。
弁財天、大黒天の参詣が増えるにしたがって、谷中の七福神めぐりが始まったと言い伝えられています。
七福神巡りはどちらからでも良いのですが、「田端駅」より日暮里、上野へと下りました。坂道が多く途中に谷中墓地なども抜けて行きますので良い散策コースです。桜の木も多いので春の巡りも相当華やかなであろうと想像ができ、江戸市民の憩いのコースであったこともうかがえます。
七福神はお参りすることによって「七難即滅、七福即生」と言われます。
1,福禄寿(東覚寺)(東京都北区田端2-7-3)
『幸せ・禄高・長寿』の神様。かぶり物をされていますが,俗絵に見られる頭が異様に大きい感はなく端正なお顔立ちです。座っていらっしゃるので杖に経典を結びつけたり鶴を従えているという所はありません。寿老人と混同されるそうですが、同じという辞書もあります。緑色の洋服はお金が貯まる意味があるそうです。
東覚寺は福禄寿様よりも有名なのが、門前の赤紙仁王様です。建立は1641(寛永16)年と古く、江戸での疫病流行を沈めるために建立されています。貼られている赤紙は悪魔を焼き払う火の色。身体の痛い場所と同じ部分に貼ります。後方の草鞋は願をかけた人々が成就の御礼に捧げるものです。草鞋の意味は祈願成就の為に歩かれる仁王様はさぞかし草鞋が必要でしょう,ということのようです。古い仁王様ですが、現在のように赤紙で囲われるようになったのは明治時代に入ってからと言われています。
本堂の福禄寿様にお参りの後は脇を通って庭園に。鯉もたくさんいる山水があり、見事な笑顔の恵比寿様が鯛を抱えながら釣糸を垂れています。福々しい良い笑顔です。隅の童子のお地蔵様。なんとも可愛い受け口。
2,恵比寿様(青雲寺)(東京都荒川区西日暮里3-6)
青雲寺のある一帯は、江戸時代の中頃より『日ぐらしの里』と呼ばれて四季おりおりの花を楽しむ江戸近郊の享楽地として賑わった場所。青雲寺も別名は花見寺。日ぐらしの里は漢字では日暮しの里となり,現在も日暮里(にっぽり)として名前が残っています。
青雲寺は当時は道灌山にあり、そこまでが海だったそうで、舟繋ぎの松の碑(本堂右)も寺内にあります。舟繋ぎの松は船を繋ぐ松の木ではなく,海から見える松で灯台のような役目をしていたそうです。他に滝沢馬琴の筆塚も(本堂左)。
祀られている恵比寿様は『漁業の神様・商売繁盛』の神様です。左手に鯛を抱えて釣り糸をお持ちです。公家の普段着である狩衣(かりぎぬ)を着ていらっしゃいます。耳髱(みみたぼ)がとても大きいのも特徴。お顔の色は焦げ茶色で年代を感じます。鯛も真っ正面を向いていて,鯛と目が合いドキッとした参拝でした。
3,布袋尊(修性院)(東京都荒川区西日暮里3-7-12)
青雲寺から歩いて数分の所にある修性院。ピンク色のコンクリート塀にいくつもの布袋尊の絵がありますのですぐにわかります。どの絵も福々しくタップリと量感があります。本堂にお参りしましたが,飾ってあるはずの布袋尊が見当たりません。ないねぇ、どこかしらね、と言いながら階段を降りてきたら,参拝を済ませた人が本堂内の左側にとても大きな布袋尊がありますよ、と教えてくださったので後戻り。
いらっしゃいました。ビックリするほどの大きさです。太い眉にタップリとした腹部。オヤジさん!という感じですが、見ていて微笑みたくなります。
布袋尊は、弥勒菩薩の化身といわれた僧侶。全国各地を旅して仏の心を伝え、左手に抱え持つ袋には宝物がはいっていて、信仰の厚い人に分け与えたそうです……というのは一説。二説としてはけっこうな生臭いお坊さんだったそうで、肉魚など何でも食し,施しを受けては袋にしまい旅をしたそうで,着替えもこの中に入っていたとか。それでも天気や吉凶の予知にすぐれた寛容なお坊さんだったそうで,故に『笑門来福・夫婦円満・子宝』の神様といわれています。壁の絵にも子どもたちと遊ぶ姿がたくさん描かれています。布袋をもっているから布袋尊。なるほど。
4、毘沙門天(天王寺)(東京都台東区谷中7-14-8)
日暮里の駅に出て昼食の後に再び巡ります。谷中墓地の入口にある天王寺に。
天王寺は1641(寛永18)年、徳川家光・春日局の外護を受けて、29690坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となったところです。現在は広大な谷中墓地の一角にあり静かなお寺です。人は誰もいませんでした。松の木の雪囲いもきれいな庭園。
門を入って左の像は丈六釈迦座像。1690年作。
毘沙門天様は門を入って右手のお堂内の金色の厨子の中にお立ちですが,ちょっと遠くて像自体も黒いので細部がよく見られずに残念です。毘沙門天様は別名を多聞天とも言い,七福神の中では唯一武将の形です。足の下に邪鬼を踏みつけています。『融通招福』の神様。
ネットに出ている画像を見ると太い眉はつり上がり目はかっ!と見開かれていてなかなかの勇ましいお顔です。像は比叡山延暦寺から持ってこられたもので平安時代に造られているそうです。立像で120㎝。檜の一木造り。左手には宝塔をお持ちです。宝塔はお釈迦様の納骨堂で仏舎利。手に持つことで釈迦の教えを表しています。
5、寿老人(長安寺)(東京都台東区谷中5-2-22)
谷中の墓地をしばらく歩き、墓地内の「ぎんなん通り」を右に曲がった先の突き当たりにあるのが長安寺。こじんまりとしたお寺です。
寿老人は『長寿延命・富貴長寿』の神様。長安寺の本堂に入るとすぐの左側上部に鹿を従えた姿でいらっしゃいます。
巻物をくくりつけた杖や難を払う扇子や桃を持つのが一般的な様ですが,手の辺りははっきりわかりません。鹿は長寿の象徴とのこと。お正月十日まで見られるとのこと。狭いお寺でしたが板碑(石の塔婆・鎌倉時代から室町時代の物)四点もあります。黄色の仏花柑が実っていました。
6,大黒天(護国院)(東京都台東区上野公園10-18)
谷中を散策する時にはもうおなじみの「岡野栄泉」や「愛玉子」の店舗の前を通り過ぎて、突き当たって左に見えるきれいな公衆トイレをさらに右に曲がると「護国院」。
大黒天様です。大黒様は必ずどの絵の像も頭巾をかぶっていらっしゃいます。理由は「上を見ない」ということと常に前や下をみることで謙虚さを保つ、という意味があります。打ち出の小づちのご利益で富を得れば得るほど謙虚に、ということです。
大黒様はもともとはインドが起源で、マハー(大)カラー(黒)という意味。戦いの神様であり財福の神様でもあります。中国にわたり戦いの神様よりも財福の神様として広まり、日本にわたりさらに日本古来よりあった大国主命が音を同じとするところから習合信仰(相異なる教理などを折衷・調和して、それを信じること)として一致します。
インドのマハーカラーはとても怖い形相をしていますが、中国、日本へと渡り変化。福の神の柔和なお顔となっています。
うつむき加減で蝋燭に照らされたお顔はとても美しいです。大黒様のうつむいている像にはあまりお目にかかりませんが、謙虚にということなのですね。
大黒様の後ろの厨子に貼られている絵は大坂城落城25年となった寛永16 (1639)
年、釈迦堂で豊臣・徳川両軍の霊を弔う大念仏法要が執り行われ、その功績を称えて、3代将軍徳川家光より藤原信実筆と伝えられる大黒天の画像が贈られたものです(ウキペディアより一部引用)。
大黒様を安置する護国院は寛永寺の敷地内にあり、東叡山寛永寺の最初の子院
現存する唐様の本堂は享保7(1722)年再建で現存する寛永寺関係の諸堂で最古のもの。堂内は薄暗いですが、近寄って仏像を見ることができてありがたいです。蝋燭の明かりに照らされた大黒様の横顔はほんとうに美しかったです。
7、弁財天(不忍池弁天堂)
七福神めぐりの最後は不忍池の弁天堂。弁天堂は概要でも記しましたが、家康の重鎮側近であった天海大僧正が江戸の町づくりを進めていく上で造った池とお堂です。お堂には当時は船で向かったそうです。
江戸街づくりの基本は鬼門封じをして災いを防ぐこと。
平安京の鬼門を守った比叡山延暦寺に倣い、琵琶湖を思わせる不忍池を造り琵琶湖にある竹生島を模して竹生島にある弁才天信仰の聖地、宝厳寺のように弁天様を祀り、寛永寺が比叡山と同じ役割を持てるようにしています。
弁財天様は七福神のなかでの唯一の女性。もともとはインドの水神様でしたが、やがては音楽や言語の神様となり、日本に伝えられるころには財宝、芸術が加わって吉祥天と呼ばれるようにもなった神様です。『知恵財宝、愛嬌縁結びの徳』があるといわれている色彩鮮やかな神様です。
朝から5時間歩きとおして、ここまで一万歩です。足が痛くなっています。不忍池の弁天堂は季節を違えて写真に多く収めていますし、これまで巡ってきたお寺とはちがってかなりの人込みですので、コロナ禍もあり、今回は公道より一枚撮影のみで、本日の七福神巡りを終了とします。
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