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東京都文京区 湯島聖堂

Yushima Seido,Bunkyo,Tokyo

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Apr.30,2017 瀧山幸伸 source movie

                                                                                                                


Nov.54,2014 中山辰夫

東京都文京区湯島1−4−25 国史跡

JR御茶ノ水駅から1分、神田川に架かる聖橋の真ん中あたりに行くと、右側にこんもりとした樹木が茂る丘が見える。

その森の中に日本の学校教育発祥の地として名高い湯島聖堂がある。

関東大震災により罹災。1935(昭和10)年、設計・伊藤忠太、施工大林組により鉄筋コンクリート造で再建された。

    

17世紀末、の元禄の時代に儒学者林羅山が自分の屋敷内に建てた孔子廟が、湯島聖堂の起こりとされる。1690(元禄3)年、孔子廟を上野忍ケ丘から移して誕生。百四余年後幕府の直轄学校「昌平坂学問所」を併設し、孔子の生まれた村の名を取って昌平黌「昌平黌」と呼ばれ、多くの名士を輩出した。

聖堂は過去4度の大火により、1935(昭和10)年再建。台湾より贈られた世界一巨大な孔子像が迎える。昌平黌の横の坂は昌平坂と呼ばれる。

説明

    

昌平坂

昌平坂は湯島聖堂の東側にあり、北に延びている。昌平坂の入口には「古跡 昌平坂」の石標がある。

    

その昌平坂の入口近くに正門があり「史蹟 湯島聖堂」の大きな石標が立ち、講堂も含む斯文会館(しぶん)が建つ。

    

「斯文会」は公益財団法人で、湯島聖堂を管理運営している。湯島聖堂は関東大震災で焼失したが、その後斯文会が募金活動を行い、昭和10〈1935〉年に再建を果した。

湯島聖堂の正門は「仰高門」(ぎょうこうもん)とよばれる。ここからが境内の中心である。

仰高とは、論語の中に有る孔子の徳を仰ぎ見るという意味とされる。額は徳川圀順公爵の筆

鉄筋コンクリート造、平屋建、切妻造、1935(昭和10)年竣工、一般見学者の入口になる門。

   

孔子銅像

少し先に進むと、巨大な孔子銅像に出合う。1975(昭和50)年中華民国台北市ライオンズクラブから寄贈を受けた。丈高4.57m、重量約15t、世界最大である。

      

楷樹(かいのき)の由来

   

この木は、中国山東省の孔子墓所にある楷樹野趣旨を持ち帰り、その苗から育てられたとある。「楷」の字はこの木のように「強くまっすぐ」という意味があり、漢字書体の「楷書」の語源とされる。 水屋 関東大震災で焼けなかった。

   

湯島聖堂の本体は、境内の北東、小高い丘を長い石段を登った上にある。 聖橋に設けられた入口もある。石段をおりた所が「入徳門」である

木造、平家建、切妻造、1704(宝永元)年建造。聖堂内唯一の木造構造物である。1923(大正12)年の関東大震災で焼失しなかった。額は藤原基輔

     

石段を登る

杏壇門(きょうだんもん)

大きな門である。大成殿と同様の、独特の渋い青緑色に塗装されている。間口20m、奥行き4.7m、入母屋造、額は徳川家達公の筆

         

杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂(講堂)の遺址のこと。宗の乾興の時、大殿を後方に移し、教授堂の跡地を瓦敷きにして壇(高台)とし、周囲に杏を植え、金の党懐英が「杏壇二字碑」を建立。後になってそこに門扉が設けられ、杏壇門の名称が付けられた。 杏壇門をくぐると中庭があり、その奥に聳える。間口20m、奥行14.2m、高さ14.6m、入母屋造。大成とは孔子廟の正殿の名称。額は伏見宮博恭王の筆

         

林羅山が孔子廟を建てたとき、儒学に造詣の深かった五代将軍綱吉がそれを「大成殿」と名付けるように命じたとされ、以来、湯島聖堂の中心である孔子廟は大正殿と呼ばれている。独特の青緑色に塗装されている。大成殿内部には、孔子の聖像が中央の神龕(厨子)に収められており、その左右には孟子、曾子、顔子、子思の四賢人の像が置かれている。

鬼犾頭(きぎんとう)

      

大成殿の屋根棟の両端に鎮座。1799(寛政11)年聖堂の規模が史上最大当時の鋳造。関東大震災で焼け落ちた。鋳銅製、重量約640kg

鬼犾頭は、想像上の神魚で竜頭から鯨のように水を噴き上げている。水の神として火を避け、火災を防ぎ、建物を守るとされる。 鬼龍子(きりゅうし)

  

大成殿の屋根の流れ棟の四隅角に鎮座。鬼犾頭と同様焼け落ちた。鋳銅製、重量約94kg

鬼犾頭は、想像上の霊獣で、孔子のような聖人の徳に感じてあらわれるという。 斯文館の屋根上の動物たち

        

1935(昭和10)年の復興聖堂の設計を担当した伊東忠太博士の考案した屋根飾りで、「儒学の殿堂たる聖堂の付属建物もそれにふさわしいものでなければならない」との意向より、大成殿の屋根を参考に、古建築の伝統に則り作成された。 その他

■明神門

    

鉄筋コンクリート造、平家建、切妻造 昭和10年竣工

寛政11年聖堂・学舎の規模拡大時に創建され、現在も旧中山道沿いに建ち、神田明神へ通ずることから明神門の名がある。

■神農廟

 

1698(元禄11)年、聖堂構内東北の隅に祠堂を建て、神農像を祀った。神農像は、1640(寛永17)年徳川家光の命で山下宗琢が建立。この像が1943(昭和18)年斯文会に寄贈され、敷地内に神農廟を移築、毎年11月23日の神農祭を強行している。 補足

1923(大正12)年、関東大震災で焼失したものの、大林組の施工により、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。設計を担当したのは、築地本願寺など多くの作品を残し、汎東洋的デザインで知られる伊東忠太氏。「支那と日本の合いの子のやうな不思議な建築」であることを自覚し、「聖堂を見た時に孔子の徳を連想する」ものとして、江戸期から伝わる昔の型を忠実に活かしたそうです。昭和に入ってからは、文化庁の保存修理工事が大林組によって行われるなど、史跡として荘厳な姿を残し、学問所の歴史を静かに語っています。(参考:史跡湯島聖堂ホームページ)

参考資料≪湯島聖堂、大林組HP≫

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