富山県南砺市 五箇山
Gokayama,Nanto city,Toyama
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合掌造りの村の実生活を動態保存 |
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南砺市上梨742 村上家住宅(富山県東砺波郡平村) 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸後期 桁行22.2m、梁間11.4m、一重四階、切妻造、妻入、南面庇付、茅葺、北面下屋附属、こけら葺 19580514
南砺市西赤尾町857-1 岩瀬家住宅(富山県東砺波郡上平村) 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸後期 桁行23.9m、梁間13.0m、一重四階、切妻造、茅葺、四面庇付、鉄板葺 19580514
南砺市田向254 羽馬家住宅(富山県東砺波郡平村) 重文 近世以前/民家 江戸中期 江戸中期 桁行14.3m、梁間8.8m、一重三階、切妻造、妻入、西面及び東面庇付、茅葺 19580514
南砺市上梨651 白山宮本殿 重文 近世以前/神社 室町後期 文亀2(1502) 一間社流見世棚造、板葺 棟札1枚 19580514
Oct.28,2020 瀧山幸伸
Edited movie
相倉
Ainokura
菅沼
Suganuma
Nov.17,2016 瀧山幸伸
梨谷口
相倉
Ainokura
菅沼
Suganuma
村上家住宅
Murakamike
五箇山 菅沼合掌造り集落
富山県南栃市菅沼
菅沼合掌造り集落は、険しい山あいを流れる庄川のわずかな河岸段丘にあり、現在9戸の合掌造り家屋が残っている。
冬は豪雪となる厳しい自然に耐え、養蚕などの仕事の場を兼ねた住まいとして、歴史をつみ重ねて完成された合掌造り。
1995(平成7)年に岐阜県白川郷、五箇山相倉とともにユネスコの世界遺産に登録された。国史跡指定でもある。
時間の都合で、岩瀬家や村上家は車窓より眺めて菅沼に到着する。
五箇山合掌造りと白川郷合掌造りの違いは、五箇山の方が屋根の勾配が急(正三角形)で、白川は緩やかといわれるが・・・?
白川郷合掌り
五個山菅沼合掌り
構造はほぼ同じ
駐車場からはエレベーターに乗り、地下道を通って集落に入る。 世界遺産登録後の駐車場造成で、原状維持からやむなく地下−エレベーターの設置となった。
トンネルを抜けると集落が拡がる。こじんまりとした落ち着いた雰囲気である
菅沼集落は住民の生活の場でもある。(これも世界遺産認定の条件) 従い、お土産や食堂はPm16:00で終了、それ以降は生活タイムである。
食堂与八
吾郎平
五箇山民族館
養蚕や紙漉きなどに用いた道具などの生活用具を展示。
塩硝の館
江戸時代、加賀藩下の五箇山の一大産業は火薬の原料となる塩硝づくりであった。幕府の目の届かない秘境で、300年以上続いた塩硝製造の道具を展示
神明社
菅沼集落の守り神である神明社。南東部北寄りのやや小高くなった場所にあり、その周囲を杉林が囲んでいる。
建築は本殿覆屋と拝殿の2棟である。本殿は切妻造り、鉄板葺き、拝殿は入母屋造り、銅板葺きである。
工作物は神明社の石造の鳥居と狛犬の2件である。
五箇山合掌の里
菅沼集落から歩いて数分のところにある。移築された合掌造りが13棟あり、菅沼集落の雰囲気そのままに、食事や生活体験ができる場となっている。
村上家住宅
Murakamike
所在地 富山県南砺市上梨742番地江戸後期の建築
桁行22.2m、梁間11.4m、一重四階、切妻造、妻入、南面庇付、茅葺、北面下屋附属、こけら葺村上忠松氏宅で、この家は江戸中期頃の建立であろう。
帳台構、一文字棚など細部までよく保存されており 五箇山地方民家(合掌造)の最も典型的な例である。
(国指定文化財等データベースより)早朝に訪れたので外観のみの撮影です。
羽場家住宅
Habake 所在地 富山県南砺市田向254 江戸中期の建築
桁行14.3m、梁間8.8m、一重三階、切妻造、妻入、西面及び東面庇付、茅葺羽馬外二氏宅で、建立は恐らく江戸時代中期以前を考えられる。
合掌造民家の最も古い形式をよく残している。
(国指定文化財等データベースより)羽馬家住宅は、南砺市の田向地区にあります。
上梨地区の重文村上家住宅の前のT字路から五箇山温泉国民宿舎五箇山荘方面に行き、国民宿舎を越えて少し行ったところに建っており、前には駐車場もあります。
非公開ですが外観は撮影可能です。
白山宮
Hakusangu 五箇山の上梨地区の鎮守社で、地区の中心村上家住宅のすぐ北側に位置します。 本殿(重要文化財)文亀2(1502)年の建築
一間社流見世棚造、板葺一間社流見世棚造で、文亀二年(一五〇二)の建立である。
保存がきわめてよく、木鼻、蟇股、手挾などに時代の特色が見られ、様式的なくずれも少い。
(国指定文化財等データベースより)覆い屋の中ですが、拝観用に電灯が設置されています。 覆い屋の細部
Iwaseke
所在地 富山県南砺市西赤尾町857-1 江戸後期の建築
桁行23.9m、梁間13.0m、一重四階、切妻造、茅葺、四面庇付、鉄板葺岩瀨慶一郎氏宅であるが、もとは塩硝の上煮役をつとめた藤井氏の宅であった。
江戸末期の建立で、庄川流域における合掌造の最も発展した形式を示している。
(国指定文化財等データベースより) 隣は妙好人赤尾道宗開基の行徳寺です。
Suganuma 菅沼集落はわずか戸数8戸、人口40人(1994年8月現在)の小規模な集落である。
しかしながら、1889年の記録によると、当時、菅沼は13戸で、上平村の19の集落の中では9番目に戸数の多い集落であり、その意味では上平村にあっては標準的な規模の集落であったといえる。
集落は庄川が蛇行しながら東へ流れを変える地点の右岸の、南北約230m、東西約240mの舌状に北に突出した河岸段丘面にある。
標高は330m前後で、ほぼ平坦な地形であるが、南東部がやや高く、それより北西方向に7mほど緩やかに下がっている。
段丘の南背後は急傾斜の山地となっている。
保存地区は屋敷地と耕作地で構成される平坦部の範囲である。
なお、ブナ、トチ、ミズナラなどの大木が生い茂る集落背後の山腹は木の伐採が禁じられていて、雪持林として保存されている。
屋敷地は平坦部の南東に寄せられている。
いずれの家も板倉や土蔵などの附属屋を有しているが、主屋に近接して建てられているものはわずかで、多くは離れた場所に建てられている。
したがって、主屋と附属屋で屋敷を構えることはなく、それぞれの敷地は狭く、また、周囲に塀や生け垣も設けていない。
耕作地としては、集落の北西部の低い土地にまとまった水田があるが、このほかに屋敷地の周囲にも小規模で不整形な水田と野菜や豆類を栽培する畑がある。
水田は以前は桑畑などを栽培していた土地であったが、1945年に対岸より水を引いて水田化したものである。
菅沼集落の守り神である神明社は、南東部北寄りのやや小高くなった場所にあり、その周囲を杉林が囲んでいる。
神明社は古くは現在地よりもやや南東の土地にあったが、1937年に南背後傾斜地の国道脇に移転し、さらに1970年の国道拡幅工事に伴って現在地に移されている。
菅沼集落の伝統的建造物群の主体をなす建築物は、「合掌造り」の家屋である。
これらの合掌造り家屋に加えて、非合掌造りの木造家屋、これらの附属建物である土蔵、板倉および水車小屋、宗教建築などの建築物28棟と、石造工作物2件によって伝統的建造物群が構成されている。
保存地区内に現存する合掌造り家屋は9棟である。
これらのうち、2棟は江戸時代末期(19世紀前〜中期)、6棟は明治時代に建てられたものである。
このほか、1925年に新築されたもの1棟があり、この時代まで合掌造り家屋がつくられていたことがわかる。
平面は四間取りを基本としているが、規模の大きいものでは六間取りとなり、また、梁間の小さい家屋には広間型三間取りのものも見られる。
各家屋は妻側に半間ほどの下屋を造り、その中央寄りに出入口を設けている。
現在は下屋の屋根を鉄板茸きにしている家屋が多いが、本来は茅葺きであり、大屋根との取り合いを葺き回すので、一見、入母屋風屋根となり、平側に出入口を設ける白川郷の合掌造りとは異なった外観を呈している。
非合掌造りの木造家屋は1916年頃、1933年、1949年に建てられた3棟である。
柱梁、束立構造による2階建で、1棟は茅葺き、2棟は桟瓦葺き(うち1棟は当初は茅葺き)である。
非合掌造りの木造家屋の存在は、菅沼集落の家屋の形式の変化を具体的に示すものであり、また、現在では集落の景観に調和しているので、伝統的建造物群を構成するものとしての価値が認められている。
附属建物は板倉10棟、土蔵3棟、水車小屋1棟である。
板倉のうち2棟は木造平屋建、8棟は2階建である。
叉首構造、茅葺き屋根のものが3棟あり、他は切妻造り、桟瓦または鉄板葺きであるが、明治時代に建てられた3棟は当初は叉首構造の茅葺き屋根であったと見られる。
土蔵は3棟あり、土蔵造り2階建、切妻造り、置き屋根形式、桟瓦葺き(うち1棟は当初、木羽茸きであった)である。
なお、板倉と土蔵は火災を考慮して、居住部分からやや離れた場所に建てられている。
特に、家屋のない神明社の周辺には、板倉、土蔵合わせて13棟のうち半数以上の7棟が集まっている。
水車小屋は保存地区の南辺中央西寄りの水路脇にある。
木造平屋建、切妻造り、鉄板葺きの小屋である。
宗教建築は神明社の本殿覆屋と拝殿の2棟である。
本殿石屋は切妻造り、鉄板葺き、拝殿は入母屋造り、銅板葺きである。
また、工作物は神明社の石造の鳥居と狛犬の2件である。
環境物件は湧水池と神明社の社叢の2件である。
(国指定文化財等データベースより)早朝、通りがかりに国道から撮影したものです。
相倉
Ainokura
所在地:富山県南砺市相倉
訪問日:2012.06.05世界遺産の五箇山相倉地区、今も20棟の合掌造りが残っています。
この地区が世界遺産に指定されたのは、合掌造りの建造物だけでなく
畑・田・道路を含む集落としての機能全部です。
合掌造りの家をベースにした住民の生活そのものが世界遺産に指定されたと言っても良いぐらいです。
これらの維持管理のために、観光事業は重要ですが、そのためにそこでの生活そのものが大きく変化したり
壊されたりすると世界遺産としての意義そのものが失われることにもなりかねません。
菅沼集落
Suganuma
所在地:富山県南砺市菅沼
ここ菅沼集落は世界遺産に指定された三集落で最も小規模で、合掌造りも9棟が残されているだけである。
ただ、高速道路のI.Cから至近で観光立地には最適なロケーションとなっている。
心配は、観光地化が進めば進むほど「合掌造りを基本とした特異な伝統集落」という世界遺産指定の理由が
撮影:2009年10月
村上家住宅
Murakamike
村上家住宅が現在の村上氏の所有となったのは江戸末期あるいは明治初期と言われる。建物の建築年代の詳細は不明であるが、間取りや構造上の手法等から18世紀前半の建物と推定されている。
切妻造、妻入、茅葺で正面に茅葺の庇が付く。間口は5間半、奥行11間半、内部は棟通りで左右2列に分け、前から庇を含め5間を土間、その奥からは床上部とする。正面右手は土間の「ニワ」(炊事場)と床上の「オエ」「チョウダ」「ヒカエノマ」が一列に並ぶ。左手は土間の「マヤ」「マヤネドコ」と床上の「デエ」「ナカノデエ」「オクノデエ」が配された整形6間取りである。しかし当初は後方の2室はなく4間取りであった。
オエの北側のチョウダ境には中央間は帳台構、左右にはそれぞれ天袋付の棚を設けているが、この構えが太い柱と梁組の組み合わせによる力強い空間構成を醸し出す重厚なものである。またマヤの掘り下げ壁面は緻密な石組で囲われているが、これはかつて焔硝の製造が盛んな頃の名残である。
村上家住宅は五箇山地方の合掌造民家の基準作で、意匠も優れた建物である。正面22.2m側面11.4m、1重4階、切妻造、妻入、南面庇付 茅葺 北面下屋附属 こけら葺
岩瀬家住宅
Iwaseke
岩瀬家住宅はもとは藤井長右衛門の家であった。岩瀬家がこの家に入居したのは明治以降である。藤井氏は五箇山における焔硝の上煮役を務めた家柄で、役人の来訪も多かったという。
建築年代は明らかではないが、19世紀中ごろの建築と推定される。
切妻造、茅葺で4面に鉄板葺の庇が回る。平入で桁行が24m、梁間13mに及ぶ大規模な住宅であるが、もとはさらに2間あまり大きかったとされる。向かって左側3間半を土間、右側を床上部とするが、土間沿いに「デエ」「ジロオエ」「カミノジロ」の3室を喰違いに配し、その上手には8畳大の部屋を3室ずつ3列に並べる。周囲には縁を回して「デエ」の正面に設けられた式台に接続させるなど、座敷部が発展している。
岩瀬家住宅は合掌造の民家のうち最大級の規模をもち、木柄も太く豪壮で、座敷部の充実ぶりや工作の精度などに合掌造の最も発展した形状を示す貴重な建物である。
正面23.9m側面13.0m、1重4階、切妻造、茅葺、4面庇付、鉄板葺
江戸時代後期
Gokayama,UNESCO registered world heritage
概要
富山県の五箇山は、国の史跡に指定されており、岐阜県白川郷と共に「合掌造り集落」として1995年に世界文化遺産に登録された。
山深い地で、独特の大家族制度を維持しながら、近年まで脈々と大型の家屋を維持し続けていたが、近代化の波に押され、離村する家、瓦やトタン屋根に葺き替える家が続出し、茅葺屋根の維持が難しくなっており、このように独特な農村景観を緊急に保存維持する必要もあり、世界遺産への登録が急がれていた。
各家屋は、1階が田の字型間取りの居住空間で、2、3階で養蚕を行っており、養蚕特有の換気に配慮した作りだ。
玄関脇には小便所があり、小便と草を原料として、加賀藩秘伝の火薬材料である煙硝を生産していた。
哀愁漂うこきりこ節とともに歴史を今に伝える五箇山は、失われつつある日本の農村景観と民俗文化の生きた展示場だ。今後も大切に守り続けて欲しい。
白川郷と五箇山広域図(白川村資料から作成)
村上家
Murakamike
築400年ほどの典型的合掌造り民家
村上家解説
Murakamike Guide
ささらを使ってこきりこ節を歌う村上家のご主人
Sep.2005 瀧山幸伸 source movie
岩瀬家住宅
Iwaseke
(国重文)
煙硝集荷の元締めとして栄えた家。裏庭の池と山からの水路が涼を呼ぶ。
菅沼
Suganuma
全14世帯の小さな集落が良く保存されている。
白山宮
Hakusangu
文亀2年(1502)築。蛙又の意匠が興味深い
羽場家住宅
Habake
流刑小屋
庄川の対岸は、加賀藩の流刑地だった。政治犯などが収容され、村人の監視の中、刑の軽いものは教育や労働を担当し、中程度の刑罰者はこのような蟄居牢に入れられ、柱の小窓から食料をもらっていた。
相倉
Ainokura
世界遺産登録当時の相倉集落では、その是非を巡って賛成派と反対派が真二つに割れてしまったほど、茅葺屋根の維持は難しい。屋根の片面を3分割し、3分の1ずつ、蓄えておいた萱を使って葺き替えていくとのことだが、費用もさることながら、材料集めがつらい。
資料館のおばあさんの昔話が興味深い。大家族制度の話題としては、戦後すぐ、近隣の皆葎(かいむくら)村から、親同士が決めた縁談で嫁入りしたが、婚礼の当日は、大家族制度のため、婿さんの兄弟従兄弟など若い男が多数おり、どれが自分の婿さんかわからなかったらしい。
茅葺屋根の苦労話としては、茅を確保することが一家総出の重労働だったために、当時小学生3年だった息子さんも、学校から帰宅後、背後の高い山に登り、刈り取った茅を背負って運んだとのこと。今の小学生にそのようなことができるだろうか。その息子さんも今やリタイア世代となっている。
米が取れなかったため、遠く富山から峠を二つ越えて米を運んだ。生業は、煙硝と養蚕と紙漉きだった。集落の背後の山は開墾され、一面の桑畑であったが、養蚕が衰えると共に元の雑木林に戻ってしまった。
Ainokura 1
Nov.2003 瀧山幸伸 source movie
資料館のおばあさんに聞く昔話
Ainokura 2
Nov.2003 瀧山幸伸 source movie
相倉集落内
Ainokura 3
Nov.2003 瀧山幸伸 source movie
菅沼集落内の五箇山民俗館 館の前でこきりこの踊りと歌が披露される。
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